第142話 微笑みに包まれて
哲矢は目を覚ますと、自分の体に毛布をかけられ、ソファーの上で横になっていることに気がつく。
寝ぼけ眼で辺りを見渡せば、ガラスのテーブルに肘をつけて眠っている花の姿が視界を捉えるのだった。
花は黒縁の大きなメガネをかけ、可愛らしいピンクのパジャマに身を包み、すやすやと寝息を立てていた。
彼女を起こさないように気を遣いながら、哲矢は少しだけ体を起こし、さらに周囲を観察する。
リビングにはカーテンの隙間から漏れる淡い光が差し込んでおり、テレビ台に置かれた卓上の時計は6時を指そうとしていた。
夜が明けたのだ。
それは、哲矢にとって桜ヶ丘市で過ごす最後の一日が幕を開けたことを意味していた。
慌てて思考を覚醒させようとするがまだぼんやりとしている。
ここがどこで自分が何をしようとしていたか、一瞬分からなくなる哲矢であったがすぐに記憶を取り戻す。
(……そうだ。学園に忍び込んだ帰りに花のマンションに寄ったんだ)
毛布をはぎ取ってソファーから立ち上がると、哲矢は再び幸せそうに寝息を立てている花を一瞥する。
テーブルにあるスタンドライトの明かりは点けっぱなしで、他には飲みかけのコーヒーが入ったマグカップと誰かの筆跡が映し出されたタブレットが置かれたままとなっていた。
おそらく、昨日テーブルに置いておいたUSBメモリから筆跡データを引っ張ってきたのだろう、と哲矢は思った。
(頑張ってたんだ)
影で努力する花の真摯な姿勢が伝わってきて、思わず哲矢は彼女の頭を撫でたくなるが寸前のところでそれを堪える。
(起こしたら悪いよな)
せめてこれだけでも返さなければと思い、哲矢は手にした毛布を花の体にそっと置こうとするが……。
「……あれぇ……」
むにゃむにゃと洩れた甘い声と共に彼女は目を開けてしまう。
「てつや、くん……?」
「あっ、悪いっ……! 起こすつもりはなかったんだ」
「ほへっ?」
まだ花は夢の世界にいるようであった。
とろんとした無垢な瞳でじーっと哲矢を覗き込んでくる。
そして、ハッと何かに気づき、慌ててかけられていた毛布を全身に被る。
少ししてから花のか細い声が聞こえてくるのだった。
「……あ、あのぉ。見ちゃった?」
「えっ?」
「い、いやっ! ヘンじゃなければいいんだ~ごめんねっ。気にしないで!」
花はそのままスッと立ち上がると、毛布を全身に被ったまま器用にもスタスタとどこかへ消えていってしまった。
(言われてみればなんか顔の印象が違ってたような……)
若干の違和感を抱きつつ、哲矢はリビングのソファーに腰をかけると、朝の緩やかなまどろみに身を任せる。
彼女が戻ってきたのはそれから10分後のことであった。
「お、お待たせ……」
「おう」
そう言って花は恥ずかしそうに顔を手で隠しながら、テーブル前のカーペットに座り込む。
メガネは外されて、瞳や肌の色がどことなく明るくなっているのを見て、哲矢はようやく違和感の正体に気づく。
(朝は大変なんだよな)
異性との生活の経験がない哲矢にとって彼女の反応はまさに新鮮そのものであった。
哲矢は寝癖を弄りながら素早く話題を切り替える。
「あ、そうだ。昨日は先に寝ちゃってゴメンっ! 本当なら俺も起きてなきゃいけなかったのに……」
「そんな全然っ! 筆跡を見ることしか私にできることはないから」
「でも、偉そうなこと言って結局なにも手伝えてないし……」
テーブルに置かれたタブレットに哲矢が目を向けると、花も同じくそれに視線を合わせる。
「哲矢君が居てくれてなんか安心しちゃって……。こっちに来ちゃった。だから、それが哲矢君の役割だよ。普段独りだから誰かが傍にいるのって懐かしくなっちゃって……」
「花……」
彼女は少しだけはにかみながら天井を見上げる。
もしかしたら、故郷にある実家のことを思い出しているのかもしれない。
哲矢には一人暮らしの経験がない。
彼女の不安は哲矢にとっては計り知れなかった。
それでも花は強い。
大きく伸びをしてひと息吐くと、彼女は感傷的になるのをやめて話を本筋へと戻すのだった。
「結構ね、夜のうちに進んだんだ」
テーブルに置かれていたタブレットを持ち上げ、画面に目を落としつつ、花はそう告げた。
その言葉を聞いて哲矢は思い出す。
「そういえば、大貴の筆跡はどうだった?」
強い期待を抱きながら哲矢はそう問うが花はゆっくりと首を左右に振った。
「多分、一致しないと思う」
「っ……」
「念のため、顧問の先生にも見てもらう予定だけど。字画の構成と筆圧が違うの。もっと素材が多いと分かりやすいんだけどね」
「…………」
残念そうな表情を浮かべながら、彼女は利用許可証の紙切れを差し出してくる。
哲矢は受け取ることもできないまま、ただそれを茫然と見つめるのだった。
大貴が脅迫文を書いたと内心確信を抱いていた哲矢にとって、この事実は少なからずショックであった。
(いや……諦めるな。まだヤツが犯人じゃないと言えない。花が間違ってる可能性だってある)
そんな邪推が頭に浮かぶも、哲矢にはそれが見当違いのものであることが分かっていた。
筆跡は一致しないのだ。
つまり、脅迫文の主は大貴ではない。
彼が仲間の誰かに頼んだという線もあったが、哲矢は今まで考えないようにしてきたもう一つの可能性を認めざるを得ない段階まできたことを知る。
(脅迫文を書いた犯人とTwinnerのアカウントを乗っ取った犯人は同じじゃない、ってことなのか……?)
その考えにすでに花は至っているようだった。
「犯人は別々って可能性もあるのかな」
「……ああ」
花はタブレットの画面を指で弾きながら一晩かけて半分近くの鑑定を終えたことを報告する。
「中には近いものもあるけど……。やっぱり私だけだと不安だから。あとで書道部のみんなにも手伝ってもらおうって思ってる」
「すまないがよろしく頼む」
「頑張るよっ!」
謙虚な姿勢とは裏腹にその瞳の奥には燃えたぎる闘志が存在することを哲矢は知っている。
最近気づいたことなのだが、花は感情をあまり表に出さないタイプだ。
それが分かると、彼女の思考は手に取るように伝わってきた。
おそらく、部活の仲間や顧問に聞くまでもなく、自分の中で一つの確信を抱いているに違いない。
口にはしないが哲矢にはそれが分かった。
ならば、できることはもう何も残されていない。
「期待してるから」
彼女の背中を押すだけだ。
照れくさそうに笑う、そんな花の表情が印象的だった。




