第125話 鍵
その重みに気づいた途端、哲矢は安直にお願いすることができなくなってしまう。
本人が無理だと口にする以上、そのハードルは本当に高いのだろう、と哲矢は思った。
「ちょっと貸しなさいっ!」
そんな風にして哲矢が続く言葉を言い淀んでいると、ベッドから飛びかかってきたメイが子機を取り上げる。
「お、おぃっ!?」
哲矢が取り返す間もなく、メイは子機に向かって自身の思いの丈をぶつけていく。
「ハナ、よく聞いて。私はあなたを信じているわ。結果がどうだろうと、それを信じてついて行くつもりよ。きっとテツヤもそう……。だから、そんなことで不安にならないでほしいの。これができるのはあなたしかいないんだから」
普段見せることのない穏やかな表情を織り交ぜながら、メイは電話の向こう側にいる相手に向けて優しく声をかける。
その光景は姉が妹に対して親身に寄り添っているようで……。
自分の与り知らぬところで二人の関係は随分と前進していたようだ、と哲矢は思うのだった。
それからもメイは子機に耳を当てて賢明に何かを話し続けていた。
ラグで胡坐をかき、そんな彼女の姿を哲矢は黙って眺める。
そして、どれくらいそうしていただろうか。
気がつくと、哲矢はメイに子機を差し出されていた。
「……なんとか納得してくれたみたい」
どこか絵空ごとのようなそんな言葉を耳にしながら、哲矢はハッとする。
彼女は花の説得に成功していたのだ。
「お、おぉっ……! マジかっ!?」
「あとはあんたがちゃんと伝えて」
そう不愛想に子機を哲矢に手渡すメイであったが、彼女の横顔はどこかホッと安堵しているように哲矢の目には映った。
バトンをしっかりと受け取った哲矢は、気を引き締め直して再び電話口に出る。
「花?」
『うん……。ゴメンね。私、自分のことばかりで……。弱気になってた』
「……いや。俺の方こそ、無理にお願いして悪かった。明日のことでいっぱいいっぱいなのにホント申し訳ない」
『ううんっ。これも大事なことだって分かるから』
先ほどとは別人のような落ち着きの払った声が返ってきて、哲矢は思わずドキッとしてしまう。
『それでね。より検証に確実性を持たせたいと思うから、この後、部の子に声をかけてみようと思うの。もちろん、理由や詳細は伏せて』
「そこまでしてもらって、本当にいいのか?」
『私がそうしたいんだ』
「……そっか。なら、うん。よろしく頼むよ」
哲矢の言葉をそこまで耳にすると、花はシリアスな雰囲気を払拭するように元気な声を上げる。
『よぉーしっ♪ そうと決まれば頑張らないとねっ!』
「やっぱ、花はそっちの方が似合ってる」
『そっちって?』
「明るく笑ってた方がいい」
『……ぅっ、んへへ……。そうかな? ありがとっ……』
心地よい笑い声に哲矢は暫しの間耳を澄ませる。
絶望的なあの状況からようやく前を向くことができたような気が哲矢はするのだった。
花もそれが分かっているのだろう。
三人がさらに同じ方向を向くために、これまでの流れを振り返るような言葉を投げかけてくる。
『……それで、さっきから気になってたんだけど、学園に行くっていうのは脅迫文に書かれた筆跡と似た素材を集めに行くって認識でいいんだよね?』
「あっ、すまん。理由を言ってなかったよな。そういうことなんだ」
子機に耳を当てながら、哲矢は今一度腕時計に目を落とす。
そろそろ美羽子が戻って来てもおかしくない時間であった。
哲矢はひとまず話を区切ると、確かめなければならないもう一つの事柄について質問をぶつける。
「そうだ、花。聞きたいことがあったんだよ。今この時間に行っても学園は閉まってるだろ? どうやったら校舎の中に入れるか知らないか?」
『うーん……どうだろう? どこか窓が開いてたりしたらいいんだけど……』
「この間言ってたじゃないか。部活の朝練で一番に校舎へ入ることがあるって」
『あっ、そっか。なるほど……』
「どこかに入口があるんだろ?」
『……えっと。それって、部室棟の出入口ことを言ってるのかな?』
「部室棟?」
『うん。日曜日に来てくれたよね』
以前に書道部の部室を訪ねた時の光景が哲矢の頭にフラッシュバックする。
(部室棟の入口は常時解放されてるってことか?)
しかし、哲矢のその考えはすぐに否定された。
『残念だけど、あそこも夜になると閉まっちゃうよ』
「まあ、そうだよな……」
そんなに話が上手くいくわけないかと内心自嘲しながら、すぐさま別の案を絞り出そうと頭を切り替える哲矢であったが、彼女の話はそこで終わりではなかった。
『朝練はね。顧問の先生から鍵を借りて中へ入ってるの』
「鍵?」
『うん。鍵は二つセットになっていて、一つは書道部の部室を開けるものなんだけど、もう一つは部室棟の出入口の扉を開けることができるんだ』
話は最後まで聞いてみるものだ、と哲矢は思った。
やはり、花は校舎の中へ入る手段を知っていたのだ。
高等部の校舎は四つの棟が渡り廊下で繋がっている。
部室棟から入って反時計回りに進むと、教室棟まで至ることができるのだ。
(……よしっ。なんとか希望が見えてきた。あとは鍵を借りて……)
道筋を見出す哲矢であったが、花の物言いの中に引っかかる箇所があることにすぐに気がつく。
開きかけた扉を大事に手で押えながら、哲矢はそのことを恐る恐る口に出してみることにする。
「なぁ、借りてるってことは、今は手元に鍵はないってことだよな?」
『そうなの。今は持ってないんだ』
当然と言えば当然だ。
生徒にそんな大切な鍵を管理させるわけがない。
おそらくその鍵は職員室かどこかで保管されているのだろう、と哲矢は思う。
結局、ふりだしに戻るしかないのか、と。
そう諦めかける哲矢であったが、その事実を告げた本人はケロッとした声でこう口にする。
『でも、大丈夫だと思うよっ』
「えっ?」
『多分、今から借りられると思う。今日は元々部活に行く予定だったでしょ? でも休んじゃったから。明日の朝、練習がしたいって言えば先生許可してくれると思うんだ』
「だけど……その人も教師だろ? 今日学園で大きな問題が起きたわけだし、今から鍵を借りたいなんて言ったら、その顧問に花があらぬ疑いをかけられないとも限らないんじゃ……」
『にゅふふっ。それなら心配しなくてもだいじょーぶっ!』
間髪入れずに返してくる花の言葉には自信が窺えた。
「ど、どういうことだ……?」
意味をはかりかね、哲矢は思わずメイに目を向ける。
彼女も哲矢同様に不信感を抱いた表情を覗かせていた。
〝この学園の教師は危険だ〟という図式が二人の頭の中にでき上がっているためだ。
それが分かっているのだろう。
花は努めて落ち着きの払った声でそう口にした理由を説明する。
『先生はね。うちの部活のレベルを上げるために外から呼ばれた人なんだ。だから、どちらかと言えば、学園の体質には懐疑的だったりするんだよ。いざって時に頼りになる人だと私は思うよ』
「そう、なのか?」
実は自分が想像しているほど顧問との関係は堅苦しいものではなく、フラットなものなのかもしれない、と哲矢は思った。
表情は見えなかったが、花の声からはどれだけその顧問を慕っているかを窺い知ることができた。
ここは彼女の言うことを信じるべきだ。
哲矢がそう覚悟を決めると、話はすぐにまとまり始めた。
これから花が顧問に連絡をして、鍵を取りに行くことになったのである。
行動力ある提案を自ら買って出てくれた彼女を哲矢は止めることができなかった。
『先生の自宅なら私のマンションからも近いからっ!』と、穏やかに話す花の言葉には頼もしささえ感じられるから不思議であった。
『……それで、哲矢君。鍵を受け取ったら、私も校舎の中へ入ってもいいかな……?』
「えっ?」
『私も一緒に行きたいの』
ここまではっきりと自分の意思を示す彼女を哲矢はこれまで一度も目にしたことがなかった。
それは、花が前を向いて一歩ずつ進もうとしていることの証でもあり――。
けれど、宝野学園での今後の立場を左右する重要な選択であるがゆえ、哲矢は素直に首を縦に振ることができない。
また、彼女には明日過酷な任務が控えている。
侵入の手引きをしてくれることだけでも哲矢は感謝していた。
これ以上、彼女の手を煩わせてはいけない、と哲矢は思うのだったが……。
『ねっ? いいよね、哲矢君っ!』
花は普段とは異なり、引く姿勢を一切見せなかった。
「……申し訳ないけど、それはダメだ。花を危険な目に遭わせるわけにはいかない。バレたら休学じゃ済まない。退学になるかもしれないんだし……」
『でもっ! 私、この状況で一人で待ってることなんてできないよっ……』
当然、この反応は哲矢も予想していたことだ。
今の花が簡単に引き下がるとは哲矢も思っていなかった。
それだけ花も命運を共にする覚悟を決めているのだ。
だからこそ、そんな彼女を自分は守らなければならない、と哲矢は強く思う。
(もう少し強く言わないと……)
花を納得させるための言葉を絞り出そうとする哲矢であったが――。
パッシーン!!
「うごゃぁっ!?」
凄まじい音と共に哲矢の後頭部に衝撃が走る。
振り向くとそこには、やはりへなへなのハリセンを手にしたメイの姿があった。
「なにすんだ!」
「もう一回貸しなさい」
不機嫌そうな顔を哲矢に向け、メイは子機を指さす。
「やっぱダメね。今のあんたじゃハナの心には触れられないわ」
珍しく哲学的なことを言われ、哲矢が反論できずにいると、子機はいつの間にかメイの手元へと移っていた。
「……ハナ? ごめんなさいね。こいつがあまりにもバカだから。私がちゃんと聞くから」
あからさまに声色を変え、メイが子機に耳を当てる。
ここまで来ると完全に彼女のペースであった。
結局、哲矢は大人しくメイの話に耳を傾けるほかないのであった。




