第16話 王都ダリエ
粉雪がちらちらと舞いだしても、行き交う人々はいっこうに減らなかった。
毛皮を羽織ったヴェルナース人は、雪にも寒さにも負けないようで、大通りには活気が満ち溢れている。
彼らは真っ赤な顔をして白い息を吐きながら、それぞれ喋ったり、商売をしたりと忙しげに働いていた。
ヴェルナースの王都、ダリエには今朝方入った。
城門の警備兵たちもティルキアの亡命貴族にはいいかげん慣れているらしく、手続きも形ばかりで済み、何の問題もなかった。
しかし、こんなに人がいる景色が窓から流れていくのが不思議で仕方がなかった。
街中で馬車を走らせるなどという贅沢をあまりしてこなかったせいだな、と彼は椅子に身を投げ出しながら、ぼうっとした頭で考えていた。
ピンクのケープを着て隣に座っている睡眠不足の原因が、上目遣いにセトを眺めた。
「セト、具合が悪いの?」
「問題ない」
問題ないとは言い難かったが、セトはそう答えた。
多分、眠りが足りなかったせいだろう。
今朝から頭がひどく重く、妙な寒気がする。
しかし今日が最後だというのに、心配をかけたまま別れるわけにはいかなかった。
自分が疲れていて一歩も進みたくなくても、運んでくれる馬車は偉大だ。
予定通りに馬車は大通りを抜けて、クリーム色に塗られたヴェルナースの王宮が窓越しに大きく見えてきた。
金色に光る巨大な正門の前で、黒塗りの馬車は嘶きとともに停車する。
セトが馬車の扉を開けて地面に降りると、正門前に陣取った大柄な兵士が睨みつけた。
「門を間違えているぞ。使用人の門は北だ」
「私は付き添いだ」
そう言って、彼は馬車からロゼを抱き下ろした。
ロゼの赤い髪を見たのだろう、ヴェルナース特有の荒々しい顔立ちをした兵士は、さっと顔色を変える。
「まさか……」
「ロゼッタ・マリアン・グレイフォン・ティルキア王女様だ。
丁重にお出迎えしてくれ」
兵士は雷で打たれたように固まったあと、赤毛の子供に敬礼をした。
場違い。
セトはこの言葉の意味を噛みしめながら、壮麗な賓客の間でロゼの隣に突っ立っていた。
門前でロゼと別れていれば、と今更後悔しても仕方なかった。
ロゼに最後の挨拶をしたり、ペンダントの魔石を回収する暇もなくこの部屋に通されてしまったのだから。
赤絨毯が敷き詰められたその部屋は、大きすぎてまるで廊下のように思える。
片側に大きな窓が並んでいるせいか、暖炉には火が燃えているのにひどく寒かった。
窓のない側には王族の巨大な肖像画が何枚もかけられていて、威圧するように壁面から見下ろしている。
それぞれの肖像画の隅には、毛皮の帽子を被った兵士が微動だにせず並び、こちらをじっと眺めている。
兵士たちが、セトを不審者だと思っていることは視線から嫌というほど伝わっていた。
一刻も早くここから出たくて仕方がなかった。
と、ラッパの音が聞こえ、正面の大きな扉がしずしずと開いた。
扉の向こう側には、壮齢の男が一人で立っている。
男が部屋に一歩踏み入ると、兵士達全員が人形のようにぴしりと敬礼し、また元に戻った。
「パパだ!」
ロゼが顔に輝くような笑顔を浮かべたあと、男に向かって走り出した。
男は目を細め、腕を広げて膝を折り、彼女を待ち構えた。
セトは初めて、元ティルキア王を見た。
確か、名はガブリエル・ヴェルシーラ・グレイフォン・ティルキア。
がっしりとしたヴェルナース人の体格。
鳶色の髪を短く切り、同じ色の髭を角に刈り込んでいる。
太い眉の下のその瞳はロゼと同じ海の色だった。
広い部屋の片隅で、親子はしっかりと抱き合った。
髭がくすぐったいと、ロゼが笑っている。
これで、役目は果たした。
肩の荷が下り、セトはほうっとため息をついた。
安心し——それから、とてつもない寂しさが襲ってきた。
ロゼとここで別れてしまえば、もう一生会うこともないだろう。
彼女は彼女の道を進み、彼は彼の道を行く。
それだけのことだ、とセトは自分に言い聞かせた。
心に穴が空いたように寂しいのは、きっと体調が悪いせいに違いない。
今日は早く宿をとって眠ろう。
ロゼもさすがに、二日連続でお話をせがんだりはしないだろう——ああ、そうだ。
彼女はもう、いないんだった。
くらりと目が回って、頭が混乱する。
突然叫び声がしたので、セトはくるくる回る視界を何とか止めようと目をこすった。
ロゼが父親から身を引き離して大声を出している。
「どうしたの、パパ? 痛いの?」
「なにを言っているんだい、ロゼ? どこも痛くないよ」
ティルキア王は顔に笑みを浮かべ、冷静な声音でロゼをなだめた。
しかし彼女は黙らなかった。
「どうしたの? どうして、そんなに苦しいの?」
きょろきょろとロゼがあたりを見回す。
そして、セトと目が合った瞬間、彼女は金切り声で叫んだ。
「セト、後ろ!」
思わず振り返ったセトの目に、杖を振りかぶった魔術師の姿が映る。
魔法の杖で頭を叩かれて、彼の意識はふっと途切れた。
ぐるぐると視界が回り続けている。
寒気がしていた身体は、いつの間にか燃えるように熱くなっていた。
まるで南国にいるようだ。
寝返りを打とうとすれば、手くびが引きつれるように痛い。
どうも縄で縛られているらしい。
そして、酒臭い猿ぐつわというおまけまでついている。
酒を飲むと数時間魔術が使えないのは、魔術師の間では常識だ。
これで逃げる手立ても封じられた。
馬鹿だったな、と彼は硬い床の上に寝転びながら、ぼんやりした頭で考えた。
元ティルキア王女に気をとられて、セトはすっかり忘れていた。
国際魔術師連盟は、たとえ国家の有事とはいえ、一般人を殺した彼を許しはしないだろうということを。
こんなに堂々と登場すべきではなかったのだ。
ヴェルナースの王宮にも、『神秘の塔』を脱出した魔術師たちがはびこっていることを考慮すべきだった。
ぼんやりとした視界には、黒い鉄格子が映っていた。
城の地下牢に入れられるのは二度目だ。
以前はマリアンが助け出してくれたが、今度はさすがに無理がある。
ロゼにそんな力はない。
死罪は免れられないだろう。
だが、セトに何があろうとも、ロゼだけは無事だ。
それが救いだった。
目を閉じてとろとろと眠りに落ちようとしたとき、ブーツの荒々しい足音が聞こえてきた。
もう死刑執行人が来たのか、と彼は働かない頭で考えた。
ちょうどよかった。
あのひとがいない世界で、これ以上生きていても仕方ない。
が、ちょこちょこともう一つの足音が聞こえ、セトに向かって場違いに明るい声が聞こえた。
「セト、一緒に旅に出ようよ!」
これは夢なのだろうか、とセトは目を開けて瞬きをした。
くらくらと回る視界の中で、真っ赤な髪色をした女の子がカンテラを掲げて鉄格子に張り付いている。
多分、夢か幻覚に違いない。
「そんな馬鹿な」
セトはそう呟いて、再び目を閉じようとしたが、ついで檻の扉の鍵を回す音が聞こえてもう一度目を開けた。
きしんだ音をたてて扉は乱暴に引き開けられた。
つかつかと歩いて牢に入ってきたのは、先ほど見かけたティルキア王その人だった。
王が膝をつき、懐からナイフを出す。
刺されるのではないかと思ったが、しばらくするとセトの手は自由になった。
ついで、猿ぐつわもとられる。彼は思わず呟いた。
「まさか、ヴェルナース人の裏切り者に助けられるとは思わなかった」
「お前を売ったのは私ではない。
こうなったのは国際魔術師連盟の判断だ」
元ティルキア王は低い声で囁いた。
ロゼも牢屋に入ってきて、うきうきとした調子で喋った。
「あのね、パパがね、もう少しセトと旅をしてなさいって!
セトもパパの言うことなら、ダメって言わないでしょ?」
王女は帽子を被ってケープを羽織り、旅行鞄を肩にぶらさげて、準備万端に整えている。
少し黙っていなさい、と王がたしなめると、ロゼは口を尖らせてうーと唸った。
しかし、満面の笑みは消えなかった。
元ティルキア王は、それとは対照的に渋い顔をしている。
「ティルキアに帰ろうとしたら、兄のヴェルナース王に軟禁された。
今は兄に従って油断させているが、今日のことでまた監視は厳しくなるだろう。
この国では、弟の私にたいした権限はない。
兄に掛け合ったが、もはや事態は止められぬ」
セトは王に鞄やマントを次々と渡されて、訳も分からぬままのろのろと身支度をしながら話を聞いた。
「ティルキア共和国政府は、国際魔術師連盟と繋がっている。
戦争になれば、この国の魔術師たちもティルキア側につくのは決定事項らしい。
いくら傭兵大国ヴェルナースとはいえ、魔術師全員が向こうにつけば、我々には為す術もない。
ヴェルナースも財政は厳しく、戦いは避けたい。
……共和国から提示された条件を呑むというのだ。
条件とは、私の廃位。そしてティルキアの正統な血をひく王女の引き渡しだ。
この子は明日、ティルキア政府の命により強制送還される」
どうして王女をわざわざつれ戻すのか。
セトの働かない頭でも、その後どうなるか位は予想できた。
「絶対に処刑されるじゃないか!」
「そうなる前に、連れて行ってくれ!
どこか、ティルキア政府の力の及ばない、遠いところへ!」
王は腹の底から絞り出されるような声を上げた。
「……で、あんたはどうする気だ」
「私は残って、ヴェルナースとティルキアの関係修復に尽力する」
それを聞いた途端、セトの身体中に今までにない怒りが押し寄せてきた。
相変わらず目まいは続いていたが、彼は怒りにまかせて立ち上がり、王の肩を掴んで詰め寄った。
「……礼を言うべきなんだろう。助けてくれてありがたい、と思うべきなんだろうな。
だが、どうしてもっと早く対処できなかったんだ?
革命が起きてからじゃ遅いんだ!
あんたはヴェルナース人だが、ティルキア王でもあったんだろう!
どうして、女王を守ってやらなかったんだ?」
王は暗い眼差しで、セトを見つめた。
「……そうだな。
だが、ティルキア王国のことは、ティルキア人のネフェリアが仕切るのが一番だと……」
「あのひとは馬鹿なんだ! 途方もないほどに馬鹿なんだよ!
だからこそ、あんたが守ってやらなくちゃならなかったんだ!」
地団駄を踏みながら、セトは怒鳴った。
と、頬に衝撃が走り、彼はまた牢の床に転がった。
ティルキア王に叩かれた頬がずきずきと痛んだ。
「セト!」
ロゼが駆け寄り、セトは頬をさすりながらよろよろと起き上がった。
低い声で、王は静かに話し続けた。
「私が何も知らないとでも思っているのか」
セトはぎょっとして目を見張った。
少なくとも、彼にとって王は今日まで会ったことがなかった他人だ。
セトとマリアンのことは、十年前に忘れられた昔話に過ぎない。
だが、そう思っていたのは彼だけだったのだろうか。
「妻が処刑されたと知って、私もどれだけ苦しんだか。
私だって、私なりの方法でネフェリア女王を愛したつもりだ。
彼女も不満など一切漏らさなかった。
しかし分かるものだ。
彼女の心が私にないことなど、とうの昔に知っている。
……君のせいだ」
王は、太い眉をよせた。一筋の涙がこけた頬を伝う。
セトは、言葉をなくして涙の粒を目で追った。
王も悲しいのだ。
むしろ、十年彼女に会わなかったセトよりも、もっと深く傷ついているに違いない。
当然の事実を突きつけられて、彼はすっかり気圧されてしまった。
「だが今、娘を託せるのは君だけだ」
自分が我を忘れたことを恥じるようにごしごしと目をこすると、王は賓客の間で見せたような人なつっこい微笑みを浮かべてセトに手を差し伸べた。
「馬車が北門に用意してある。番兵にも話をつけた。
さあ、急いでくれ。
追っ手がかかる前に」
この笑みは、ロゼに似ている。
セトはそう思いながら、ごつごつとした手をぎゅっと握りしめてもう一度立ち上がった。




