第13話 雪狼
メエメエという山羊の鳴き声で、セトは目を開けた。
まだ、いくらも寝ていないような気がする。
出口から光は見えないが、風の音がないところを見ると吹雪はおさまっているようだ。
セトは隣で眠っているロゼの寝顔をうかがった。
氷嚢代わりの水筒は滑り落ちていたが、その顔色は悪くなかった。
額に触っても、ほんのり温かいだけで、昨晩の燃えるような熱はなくなっている。
山羊がまた、入口のほうを向いてうるさく鳴いた。
セトは山羊の首に結んだ縄を持ち、灰色のマントを羽織って外に連れ出した。
ぐっすりと眠っているロゼやシェンリーが起き出しては気の毒だと思ったからだ。
凍った冷たい空気がマント越しでも肌を刺した。
月も星も出ていないので正確にはわからないが、恐らく夜明け前だろう。
白い雪を踏みつけて、山羊が綱をやたらと引っ張った。
セトは無理矢理山羊を引き戻した。
既に、暗闇に点々と光る目に気付いていた。
周りから、複数の獣の唸り声が聞こえる。
雪狼だ。
白山の頂上付近に生息している狼の群れで、白いたてがみを持っていることからこの名が付いた。
村がなくなり、ここも彼らの縄張りになったのだろう。
山羊は、この獣の臭いを嗅ぎ付けて逃げようとしていたのだ。
しかし、その程度の獣は所詮セトの敵ではなかった。
彼は杖を取り出すと、続いて火矢の呪文を唱える。
ぼうっとした光の中に、何匹もの雪狼が浮かび上がった。
火の玉を見た彼らは、うなりながらも本能的に後ろに下がった。
杖を降り下ろしたら、狼たちは黒焦げになるだろう。
——なんて勿体ない。
勿体ないことだ。
あの毛皮の下には、干肉など及びもつかないような甘美な血と肉と内臓がつまっているというのに。
セトは思わず呪文を唱えるのを止めた。
杖から光が消えたのを見計らったかのように、雪狼の一匹がセトの喉元目掛けて飛びかかってきた。
仰け反って杖で狼をなぎ払った瞬間、山羊の綱が手から落ちる。
山羊は鳴きながら暗闇へ消え——鋭いいななきが聞こえた。
もう一匹の雪狼が山羊の喉に食らいついたらしい。
鮮血のかぐわしい匂いが立ちこめる。
暗闇で見えるはずもないのに、セトの脳裏には紅玉のような血しぶきが一面に散らばる様子がありありとよぎった。
魔術師の証である黄金の杖が、雪の中に落ちてひとりでに消えた。
「セトさん、止めてください!」
彼は、ふと顔を上げて振り向いた。
禊ぎの間の出口のすぐそばで、マントも着けていないシェンリーが目を向き、すごい形相で叫んでいる。
まだ朝日は昇っていないが、空は既にうっすらと明るい。
雪の反射もあって周りの様子は確認できた。
そして——セトは戦慄した。
目の前には、無残に食い散らかされた山羊の死体。
周囲には血で汚れた雪狼の毛皮や首から上、肉がなくなった骨の塊が散らばっている。
その光景は汚れのない真っ白な雪の中で、ことさら惨たらしく映えた。
こんなことをしたのは誰か、自問自答するまでもなかった。
血まみれの手を白い雪でぬぐい、口をこするとまた赤い血がついた。
目の前の山羊の肉を貪り食っていたのは他ならぬ自分自身であると認めざるを得ない。
なにより、おぞましいという感覚の底に、美味しいものを食べたいだけ食べたという満足感があることが一番の証拠だ。
「何をしているんですか」
「……雪狼が出たんだ」
シェンリーの質問の意味はそこにないことを知りながら、セトはそう答えて雪を抱え込み、顔を埋めた。
冷たい雪で顔の熱が醒めていく。血の汚れも熱と共に去って行くことを願ったが、たとえ汚れが落ちても、身体中に忌まわしいものがまつわり付いている気がした。
しばらくそれをつづけていると、頬や鼻が凍えるほど冷たくなった代わりに、雪につく血も少なくなっていく。
と、引き戻されるように肩に手が置かれた。
心配そうな顔をしたシェンリーがセトの肩を掴んでいた。
「もういいでしょう。汚れは落ちましたよ」
荒い息をつきながら、セトはようやく言葉を絞り出した。
「……ごめん。山羊も食べてしまった」
シェンリーはあたりを見回し、沈んだ声で言った。
「とにかく、片づけましょう。幸い、王女様はまだ起きていません」
シェンリーもマントを取ってきて、二人は皮手袋をはめ、黙々と作業にとりかかった。
きれいな白い雪を転がして集め、赤い雪の上で壊しては惨状を覆い隠す。
雪だけはまわりに沢山あったので、そこまで時間はかからなかった。
しかし、正気に戻ったセトには少々応える作業だった。
「もしかして、ウサギのときにも同じような状態に?」
禊ぎの間に帰ってきて再びマントを乾かしながら火に当たっている最中、ぼそっとシェンリーが聞いた。
「なぜそれを?」
「そのう、王女様が……」
シェンリーが言葉を濁した。
セトは、まだ毛布に包まって居心地良さそうに眠っているロゼを見つめた。
握りしめた小さな手には、昨日渡したペンダントが握りしめられている。
見た限り熱はないようだが、体力は落ちているだろう。
彼女が起きる前に、と思い、セトは話し始めた。
「いつからかは忘れた。食べ物から味が消えたんだ。
魔術師の薬も試してみたが、いっこうに治らない。
まあ、不可解だが特に不便も感じないし、元々食に興味がないからこうなったと思っていた。
……だが、最近分かった。
新鮮な血や肉でないと、旨いと思えなくなっている。
食べている間は、我を忘れているらしい」
「治す方法はないのですか?」
「今のところわからない」
セトはそう言って炎に手をかざした。
「もっと怖がってくれても構わないんだ」
「いいえ、なんだか悲しいですよ」
そのとき、シェンリーの腹の虫がくうっと鳴った。
「私も朝食に何か食べましょう」
あの惨状を見てまだ食欲があるのが不思議なくらいだとセトは思ったが、しでかした彼の言うことではなかった。
かわりに、こう申し出た。
「外に出て、まだ食べていない部分を掘り出してこようか。
場所はまだ覚えているし、山羊肉なら焼いて食べれば旨いと思う」
「……それでは、私が掘り出してきましょう。あなたはここでじっとしていてください」
セトに気を使ったのだろう、シェンリーは禊ぎの間の小さな入り口から出ていった。
が、すぐに短い叫び声を上げて戻ってきた。
「あれは何でしょう?」
セトは洞窟の隙間から、シェンリーが指を差した方角を眺めた。
太陽が霞がかった空の低い位置に浮かんでいる。
どんよりした雲の隙間から、何かが一列になって飛んでくる。
鳥か。
いや、あんな大きな鳥がいるはずがない、と彼は自問自答した。
あの飛び方は鳥ではない。
編隊を組んだ飛竜の大群だ。
タクト神教の信者は、飛竜は基本的に人間の乗りものではなく、野蛮でどう猛な動物だと考えている。ゆえに、飛竜に乗るのは魔術教の魔術師で、扱いにたけた者だけだ。
しかし飛竜は戦いには欠かせない生き物でもある。
なので貴族達は飛竜を飼い、同時に魔術師連盟から派遣された飛竜乗りを抱えるのが普通である。
しかし貴族が消えた今、ティルキアであんな飛竜の大軍を動かせるのは、当の魔術師連盟だけだ。
セトは、自分が追う者の立場ならどうするかを思い巡らせた。
まずは、逃げ場を絶つだろう。
が、飛竜の編隊は高い位置で留まったまま、降りてこない。
何をしているのだろう、と思ったとき。
飛竜の軍隊の前に、オレンジ色の大きな魔方陣が浮かび上がった。
『バベル』という魔術特有の複雑な文様。
現在最強の破壊系魔術と言われる代物だ。
魔術師連盟の狩人は、セト達が盗賊に馬で送ってもらったことを知らない。
まだ山越えをしている最中だと思っているはずだ。
『神秘の塔』にいた彼の昔の仲間は、大洞窟のことや、セトがシハク村の出身だということも知っているに違いない。
十中八九、あの魔術で大洞窟の入り口を壊すつもりだ。
それからゆっくりとセト達を探すつもりだろう。
エルケームで、フェルディづてに聞いた情報は本当だった。
連盟は、本気でセトと王女を追う気なのだろう。
セトは杖を出そうと、呪文を唱え始めた。
が、シェンリーが手でそれを制した。
「あの魔術師たちは、私が何とかします。
あなたは王女様と一緒に大洞窟へ入ってください。
私は道を知らないが、あなたなら分かるんでしょう?」
目を丸くして、セトは目の前の男を見つめた。
彼はただの学者で、何の戦闘能力もない。
魔術師と戦うどころか、夜盗にすら殺されかねない人物のはずだ。
「魔術師が相手だぞ? かなうわけがない。私が出る」
そう言った途端、シェンリーがきっとこちらを向いて叫んだ。
「あなたはだめだ。絶対にだめだ!」
「どうして?」
面食らってセトは尋ねた。
「あなたがずっと山賊の首領と話していたときがあっただろう。
そのとき、王女様が私に囁いたんだ。
『もう、セトに誰かを殺させちゃだめ。
ずうっと痛くて苦しいのに、自分ではわからないの。
後ちょっとで、セトはセトじゃなくなっちゃう』
王女様はそう言ったんだ!
今朝の雪狼の件だってそうだ!
あなたは、自分がどれだけ崖っぷちに立っているのか、分かろうともしていないんだ!」
シェンリーの言葉に、セトは立ちすくんだ。
自分でも理解できない心の奥底が、年端もいかない女の子に見透かされている。
見ないように、考えないようにしてきた部分を、急に鼻先に突きつけられた気になった。
シェンリーが息を整えて言う。
「私が先に出て魔術師たちを引き付ける。そうすれば、時間稼ぎにはなるだろう」
「だが、あんたが死んでしまうぞ!」
「大丈夫だろう。魔術教では、魔術を使えない相手を殺すのはご法度だと聞いたことがある」
「そんな教義が通用するような社会じゃなくなったんだ!」
走ろう。
煙幕を張り、大洞窟まで走り抜けよう。
そうすればなんとかなるかもしれない。
シェンリーを叱りつけたセトはそう考えて、ロゼを毛布でくるんだまま抱え上げた。
そして自分のマントを羽織ろうとしたとき。
シェンリーがさっとそれを取り、自分の緑色のマントを手渡した。
意味がわからずに緑色のマントを受け取ったセトは、自分のマントを羽織って出口に突き進むシェンリーを見た瞬間、叫んだ。
「待て、シェンリー!」
「王女様を頼みます!」
フードを目深に被ったシェンリーが、禊ぎの間から出て走り始める。
頭の中で悪態をつきながら、セトもロゼを担いで飛び出した。
大洞窟は、禊ぎの間から少し登った場所に、ぽっかりと口を空けている。
「私はここだ!」
シェンリーがそう叫びながら、廃村を走り抜けていく。
飛竜の群れの中の数匹が、さっと高度を落として彼を捕まえにかかった。
セトは灰色のマントをはためかせて山を下りていくシェンリーの後ろ姿を見て、目をつぶった。
そしてくるりと身をひるがえし、急いで古代飛行術の呪文を唱えた。
魔方陣が完成する前に、大洞窟にたどり着かねばならない。
肩に黒い翼を生やし、彼は雪に阻まれた道を飛び立った。
大洞窟の暗い入り口に、ロゼを抱えたまま吸い込まれるように飛び込む。
そのとき、後ろから轟音と共に爆風が押し寄せ、彼は洞窟の内部まで飛ばされた。
セトはロゼを包んだ毛布を抱いたままごろごろと転がった。
真後ろで『バベル』が放たれたようだ。
大洞窟の入り口が崩れ、彼は暗闇に取り残される。
「どうしたの? もう朝?」
抱きしめた毛布から、ロゼの寝ぼけた声が聞こえた。
セトは翼を消し、息を切らしながら答えた。
「そうだよ」
「どうしてまだ暗いの?」
「……洞窟の中だからだよ」
「シャンリーはどこ?」
「……」
彼が黙ったままでいると、もぞもぞと毛布からロゼが這い出す気配がした。
セトは身体についた砂や石を払うと、ランプを取り出し、赤い炎の魔石を灯した。
ロゼは毛布に包まっていただけあって、どうやら怪我もしていないようだ。
しかし不安そうな顔をして、彼女はもう一度セトに尋ねてきた。
「シャンリーは?」
「……はぐれた。でも、きっと、また会える」
「……うん」
ロゼは小さい声でそう言って頷くと、暗闇が怖いのか、ぎゅっとセトの袖を掴んだ。
セトは立ち上がり、あたりを見回した。
悪いことは沢山あったが、一つだけ、いいこともあった。
どうやら崩れたのは入り口付近だけらしい。
これで、魔術師連盟の飛竜部隊は完全に入ることが出来なくなった。
あとはヴェルナースを目指し、大洞窟を歩き続けるだけだ。
彼の頭の中に入っている、完璧な洞窟の地図を頼りに。




