第2話 修道院にて
アーチ型に切りとられた空は高く澄んでいた。
ロゼは出来るだけ背伸びをすると、その両開き窓の掛け金を外し、小さな手にはまだ重い窓を苦労しながら開けた。
冷たいけれども新鮮な空気がどっと入ってきて、ロゼの長い髪を後ろへと流した。
白い息を吐きながら、二階から教会の垣根の向こうの草地を眺める。
刈り取りが終わった畑に、いい匂いのしそうな干し草の山がそこかしこに積んであった。
草地や畑の間を縫うように、糸杉が両脇に植わっている黄色い地道がうねり、遠くにはこんもりとした林やきらきらと流れる小川。
その後ろには、霞がかった山の峰がつづら折りに連なっていた。
「つまんない」
ロゼは窓枠に頬杖をついて、口をとがらせ一人ごちた。
景色がつまらないわけではない。
王都では、こんなすばらしい景色をみることはできないからだ。
ただ、林や小川があっても、そこへ行って遊ぶことができないのがつまらなくて仕方がない。
突然この修道院へ連れてこられ、外へ出られなくなってどのくらい経つのだろう。
ロゼは指を折って数えだしたが、両手の指を使っても、とても足りなかった。
それ以上の数を、まだ六歳の彼女は知らない。
「つーまーんーなーいー」
彼女はもう一度窓の外に向かって言った。
そのとき、大きな手に腰を掴まれ、強い力で窓から引き離された。
「いけません王女様!」
ロゼを捕まえた、白い衣服の修道女が激しい調子で叱った。
知らない間に、部屋に入ってきたようだ。
「窓に近づいてはいけないとあれほど言いましたのに!」
ロゼはしゅんとして謝った。
「ごめんなさい。でも、とっても暑かったの」
その豪華で広い部屋には、確かにそれに見合った大きな暖炉があり、炎が軽快に踊っていた。
しかし、修道女は眉を寄せたまま言った。
「そのような時は私をお呼び下さい」
修道女は窓に手をかけると、きょろきょろと辺りを見回した。
道にも、草地にも人影はなかった。
彼女は窓を閉じようとしたが、ふと空を見て表情が固まった。
ロゼも、何事かと修道女の後ろから窓の外を眺めた。
大きな鳥のような何かが、太陽をさっと横切った。
「うわあ、大きな鳥さんだ!」
ロゼが嬉しそうな顔をして叫んだ。
が、その修道女は、乱暴に窓を閉じると、震える手で掛けがねをかけた。
ロゼは心配そうな顔をして修道女の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
修道女の顔には玉の汗が浮かび、その体はがたがたと震えていた。
何かを言おうとしているが、怯えて言葉にならない。
ロゼは性懲りもなく、窓の外を眺めた。
再び、今度はさっきよりずっと近くで、窓の外を黒い大きな影が横切った。
ロゼはそれを目で追って気付いた。
鳥ではない。人だ。
大きな翼を背負い、背丈ほどもある杖を持った人影は、バサバサと翼を羽ばたかせながら窓のそばを通り過ぎ、教会の庭に降り立った。
「すごいわ! 昔話に出てきた、空かける魔術師よ!」
ロゼは無邪気に叫ぶと、窓を開けようとした。
だが、修道女が悲鳴のような声を上げてロゼに飛びかかり、それを遮った。
「いけません! あれは、悪魔ですわ!」
枯れた草地の中に目当ての青い修道院の屋根を見つけると、セトは螺旋を描いて降下し、やがてよく手入れのされた敷地内の芝生へと足を付けた。
翼を消すと、気圧でおかしくなった耳を、唾を飲み込んで治す。
そして、アーチ型の窓がずらりと並ぶ、白い石造りの建物をじっと眺めた。
聖タクト大神をまつる教会に併設された修道院は、整然と冷たい顔をしてそびえ立っていた。
何の音もなく、何の動きも見えない。
不自然だった。
ここまで大きな修道院でありながら、人の気配は全くしない。
セトは辺りを見渡すと、とりあえず正面玄関があった方へ行こうと建物の角を曲がった。
その途端、殺気と共に何本もの長い槍が胸に突き付けられ、彼はぴたりと立ち止まった。
警備兵であろう、白く長い巫女服を着た女たちが、恐ろしい形相でこちらへ槍を向けていた。
どうやら、降りる時から見張られていたらしい。
そして、セトが角を曲がるのを待ち構えていたようだ。
「教会で魔術を使う悪魔め! 即刻立ち去るがよい!」
一番年長であろう太った修道女が金切り声でわめいた。
「断る」
彼がそう言うと修道女たちは怒り狂い、口々に何事かを叫び始めた。
修道女たちが悪魔払いの文言を唱えているのは分かったが、彼は不機嫌な顔をしたまま、黙ってそのままにさせていた。
一の根源、すなわち自然の力を呪によって変化させ、放出するという純粋な魔力エネルギーを原理とした魔術と、只の伝承に過ぎない教典の悪魔払いの違いは、精巧な魔法陣とインチキお守り札のようなものだ。
魔術の呪文ならともかく、古い経典に書かれた気休めの文言に効き目があるわけがない。
大体、魔術師は悪魔ではないのだ。
そんなことをつらつらと考えながら、セトは修道女たちが息を切らして悪魔払いの呪文を言い終えるのを待っていた。
そして、口の中で静かに本物の呪文を唱え、杖で胸に突き付けられている槍の穂先をなぎ払った。
修道女たちが驚きと恐怖の眼差しで見守る中、槍は一瞬にしてガラスに変わり、ぱりぱりとひび割れると彼女たちの足下に音を立てて落ちた。
太った女は、目をくわっと見開いて、激昂した。
「この期に及んで、魔術を使うとは! よくも……よくも……」
怒りすぎて、言葉が出ないのだろう。
そして、言葉で表現できなかった分、彼女は鼻息も荒く彼につかみかかろうとした。
「おやめなさい」
そのとき、涼やかな声が修道女達の背後からかかった。
「なんの騒ぎですか」
体躯のよい修道女たちをかき分け、小柄で美しい女性が姿を現した。
やはり白い修道服を着ているが、すっぽりと髪を覆っている白いひだ付きの帽子には金糸で豪奢な刺繍が施してある。
彼女はなよやかな手つきで修道女たちを制すと、そのきりっとした茶色い瞳をセトに向け、優雅にお辞儀をした。
「初めまして。このエルバランダ教会の修道院院長、クローディス・エルシーラと申します。
あなたは?」
「セト」
彼のぶっきらぼうな返事にも負けず、クローディスは頬に微笑みを浮かべ尋ねた。
「タクト神教の教会には、信者のみ入ることを許されます。
どうやら魔術教のかたですね。あなたは改宗されるのですか?」
「魔術教からも縁を切られてる」
彼がきっぱりと答えると、彼女はほうっとため息をついて、注意書きを読み上げるかのようなよどみのない口調で言った。
「ここは大神タクトを祀る場所。いわば、神の庭です。
神の造りしものをねじ曲げる行為は、神への侮辱と見なされます。
ここではお控え下さいませ」
クローディスのゆったりとかまえた態度は、セトに何かいらいらとした感情を起こさせた。
彼は思わず、核心をつく質問をした。
「時間がない。王女はどこだ?」
少し——ほんの少し、クローディスの表情が強張った。
だが、彼女はすぐに平静を取り戻し、にっこりと笑って、先ほどの調子を取り戻した。
「王女? まさか、ティルキアの王女様のことでございましょうか?
私たち下々と王女様、何の関わりがあると言われるのでしょう」
「ここに預けられているはずだ」
「何か、勘違いされているのでしょう。ここにはいらっしゃいませんわ」
セトは目を伏せ、深呼吸すると一語一句吐き出すように告げた。
「女王が死ぬ前、私に王女を頼むと言った。だからここに来た」
クローディスの笑みは、完全に消えた。
驚嘆と絶望の表情のまま、セトを見つめている。
やがて、うろたえた声で彼女は聞いた。
「いつ……お亡くなりに?」
「二日前」
「二日でここまで来たのですか? 城から、この田舎までは四日はかかりますよ」
「あんたの嫌いな魔術を使った」
今度は、セトの方がよどみなく答える番だった。
彼女はその態度に少したじろぐと、小さな声でささやくように言った。
「あなたの言葉を信じられる証拠がありますか」
「信じるのはあんた方の得意技だろう」
その挑発的な物言いに反応して、周りの修道女たちはまた激昂し、悪魔払いを唱えだした。
だが、クローディスはそれをすぐ制した。
そして、しばらく沈黙した後、セトの方に向き直り、静かにこう告げた。
「お入りなさい。詳しい話をお聞かせ願いましょう」
セトは小さく頷き、修道女に聞こえない程度にぼそぼそと呪文を唱え、自分の杖を消した。
「あなたがあのセトさまだったのですか! 女王様と共に多産の魔王を倒したという」
豪華な調度品に囲まれた院長室で、クローディスは驚きの声を上げた。
セトは不機嫌に眉を寄せた。
「最初に名乗ったはずなんだが」
「ですが……あまりにもお若いので、てっきり別の方かと」
ぐさりと突き刺ささる言葉に、彼は唇を噛んだ。
彼の外見のことは彼自身が一番よく知っていた。
永遠に十五歳のまま、年月が彼を素通りして過ぎ去っていく。
初めは、外見が変わらないことなど、魔王を倒したことに比べれば取るにたらないことだと思っていた。
しかし、周りの人々が年を取り成長していくにつれ、素通りしたはずの年月は、彼の心の方に重く積み重なっていた。
「それなら、あなたを信じますわ」
クローディスは一人納得したように頷いた。
そして、ハンカチで目尻を拭いながら、先ほどから幾度となく繰り返した言葉をもう一度述べた。
「それならばなおさら……なぜあなたは、女王様をお助けしなかったのですか!」
彼は無表情に見えますようにと願いながら、淡々と答えた。
「女王は最期まで女王であることを望んだ。私は彼女の意思を尊重したまでだ」
「それでも、私にはわかりません……」
セトは何も言わず、クローディスの後ろのタペストリーを眺めた。
八百年前、魔術を使い、世界を支配した魔王シドを、天の御使いである白の聖騎士が倒すという英雄伝説が、緋の地に様々な色糸で織り出されていた。
魔王、教会でいうところの悪魔は全身真っ黒で羽の生えた異形の姿で描かれ、とても人間には見えなかった。
この魔王がタクト神教を迫害したからこそ、教会が魔術を嫌うようになったのだ。
今でこそ国際魔術師連盟という国際組織があるものの、迫害の歴史のために依然として魔術師の数は少なかった。
セトの目はそれから魔王に雄々しく立ち向かう白の聖騎士へと向けられた。
英雄。いたずらに賞賛され、歓呼の声で迎え入れられるが、その命を賭して助けた者たちはすぐにそれを忘れ、今度は罵声を浴びせかける。
彼もまた、そうだったのだろうか。
クローディスはぐすぐすと鼻をすすると、無理に微笑んだ。
「あなたを責めるつもりはないのです。ごめんなさい」
セトは彼女に目を戻した。
「とにかく、時間がない。王女を連れて行く」
「どこへつれて行かれるおつもりでしょう?」
「どこか、ティルキアではないところへ」
彼の答えは漠然としていたが、それでもクローディスはほっとしたらしかった。
ここに王女を置いておくことが不安でたまらなかったのだろう。
「それなら、ヴェルナースですね」
「ヴェルナース?」
唐突に北の隣国の名が出てきて、セトは戸惑った。
ティルキアは、三方を小国に囲まれている。
別にヴェルナースではなくてもかまわないのに、なぜ彼女はそう言うのだろうか。
「王女様の父親……ティルキア王様がいらっしゃいますもの」
「王が? ヴェルナースに?」
信じがたいことを聞かされて、思わずセトは椅子から立つと、荒々しい口調で詰め寄った。
「王はまだ処刑されていなかったのか!」
クローディスは今まで冷静だったセトの変わり様に目を白黒させた。
「ご存じなかったのですか……」
「私はここ数年ティルキアには来ていない。
革命のことも、一月前に極東で聞くまで知らなかった。
それより、どういうことだ?」
「革命が起こる少し前、ヴェルナースへ行かれてそのままティルキアへお帰りになっておりませんの……王はもともとヴェルナース人ですから、ヴェルナース王室に保護されておりますわ」
目の奥がかっと焼け、世界が歪んで見える。セトは低い声で唸った。
「逃げたな」
「ただの公式訪問です……その途中で革命が起きて、お帰りになることができなかったのですわ」
クローディスはなだめるように言った。
「そして、くれぐれもここで魔術を使わないで下さいまし」
そう言われて、セトはいつの間にか魔気を纏っていたことに気付いた。
「すまない」
怒りと共に魔気を押さえ込むと、彼はどさりと椅子に座り込んだ。
「そもそもどうしてこんなことになった?
私は今まで世界の東の端にいて、この国で何が起きたのか今でもわからないんだ。
革命と聞いて急いで戻ったらこの騒ぎだ。
ティルキアは豊かな国だったはずだろう?」
「……私の口からはとても」
クローディスはつと立ち上がり、戸棚の鍵を回した。
そこから黄色い紙束を取り出し、テーブルへ置く。
「ごらんください。王都から脱出してきた修道女たちが持っていたものです。
少しはこの国で起きたことがおわかりになるかと」
セトは一目見て眉をひそめた。
それは銅販刷りのビラの束で、一番上の行にでかでかと見出しが載っていた。
『ヴェルナースへ資金横流しか? ネフェリア女王の不透明な政治』
震えた手で紙面を掴み上げた。
一枚一枚めくっていくにつれて、目を覆うような過激な文面になっていく。
『ティルキア女王、レムナード帝国使者と密談! 売国奴疑惑』
『解体強行! 今だから言える魔術師の自治都市“神秘の塔"解体と女王の暗躍』
『魔術教差別を助長! かつての宮廷魔術師が語る、女王の横暴な性格』
『魔術師が次々亡命中! 軍弱体化の責任のありか』
『飢饉の中、税率引き上げ強行許すまじ!』
『王都炎上! 王政打倒の波!』
我慢ができなくなって、テーブルに版画の束を叩きつけた。
「皆信じたのか、こんな戯言を!」
「国民のほとんどはネフェリア女王に謁見したことがないのです。
真実に混ぜられた嘘を見抜けません」
クローディスが沈んだ顔で言った。
確かに、いくつかのことは彼にも覚えがあった。
神秘の塔。魔術師の一大都市でもあったそこに長年住んでいた彼としては、魔術師連盟幹部の腐敗と事なかれ主義を嫌というほど見てきている。
『多産の魔王』の存在をほとんど認めながらも、自らの利益のために利用しようと、なんの対策も打たなかった彼らの狡猾さも知っている。
そんな『神秘の塔』の解体を、魔術教への差別だと片づけられてしまうのは彼としても心外だ。
しかし、他大勢の魔術師はそれを差別だと言及したらしい。
セトはテーブルの上のビラを伏せた。
これ以上、不愉快な見出しを見ていたくなかった。
「院長様!」
その時、黒檀の扉が乱暴に開けられ、一人の修道女が息を切らして飛び込んできた。
「何です、はしたない」
クローディスが注意したにも関わらず、その修道女は白い服をひらめかせて院長の前に走ってきた。そして、荒い息の間から、切れ切れに言葉を吐いた。
「人が……王女様が……」
彼女がそう言いながら一生懸命窓を指すので、彼らは立ち上がり、窓の外を眺めた。
教会の頑丈な柵の向こうには、数十人が手に剣や鍬を携え、殺気だった目でこちらを見ていた。その中には、垂れ幕を掲げている者もいた。麻袋に、赤い蛇がのたくったような字で『王女を出せ』と書かれている。
クローディスが戦慄しているのを見て、ようやっと落ち着いたセトが静かに言った。
「だから時間がないと言ったんだ。
王女の隠れ家は、すでに知られてしまったらしい」




