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ガラスの魔王  作者: 久陽灯
第二章 ガラスの魔王
27/46

第1話 約束

『遺書


 明日、私は死ぬ。

 正確には、処刑される。

 ティルキアの女王、ネフェリア・グレイフォン・ティルキア。

 その名で長年国民を欺いてきた罰がようやく下されるときがきた。

 私の死でこの国の混乱が治まり、ティルキアに平和が戻るのであれば、私は喜んでこの運命を受け入れよう。

 ただ、気がかりは——』




 そこまで書いて、亡国の女王はふと顔を上げてあたりを見回した。

 手から落ちた羽ペンはころころと遺書の上を転がり、暖かい光を投げかけるランプに当たると小さな音を立てて止まった。

 外積みの石がむき出しの壁は寒々しく、顔の高さにある小さな格子窓の外には月が凍ったように張り付いている。

 ここはティルキア城の後宮、東塔。

 昔王族を監禁するのに使われていた塔の上の小部屋である。

 この何百年かは物置になっていたが、頑丈な鉄の扉と窓の格子は、今本来の役割を果たしていた。

 小部屋には、王族に似つかわしくない質素なベッドと、少し傷んだ机が無造作に置かれている。

 部屋の隅には古びた姿見があり、机の前に腰掛けた彼女の姿を映し出していた。


 彼女は鏡の中の自身をしげしげと眺めた。

 手足はやせ細り、顔には皺が目立ちはじめている。

 ぼさぼさの赤毛を粗く三つ編みに結い、白い簡素な服をまとうこの人間が自分だとはどうにも信じられなかった。

 その中にはかつての負け知らずの戦士も、国を治めていた女王の面影もなく、歳より十歳ほど老けて見える女性が静かに座っているだけだ。

 ただ、深い碧の瞳だけが、あの頃と同じようにきらきらと輝いていた。

 太陽のような色をした長い三つ編みを後ろに垂らして、彼女は目を閉じ感慨にふけった。

 瞳の奥の暗闇では、彼女はまだ女王であり、英雄赤騎士であった頃に戻ったような気がした。


 子供の頃、同い年の王女と木登りをして遊び、散々怒られたこと。

 街で聞いた吟遊詩人の騎士に憧れて、剣術の腕を磨き、英雄の真似事をして遊んだこと。

 大火で両親や姫が亡くなり、思わぬ責任が肩にのし掛かってきたこと。

 そして、『魔王退治』という鮮烈な経験。

 厳粛な即位式に華やかな結婚式や、生まれたばかりの子供を初めて腕に抱いたときの柔らかさも記憶に新しい。


 しかし、女王として一通りの経験を積んだ今にしてみても、と彼女は唇に微かな笑みが浮かべた。

 あの魔王退治の旅は、暗闇に灯るランプのように、偽りだらけの人生の中で燦然と光り輝いている思い出だ。


 あのときは魔物を倒すことに夢中で、他には何も考えていなかった。

 力が及ばず悔しい思いをしたことも、恐怖に怯えたこともあった。

 しかし、確かに輝いていたと、はっきり思えるのは『彼』がいつも隣にいたからなのだろう。

 今頃、どうしているのだろうか。

 だが、それを知り得たとしても、もう会うことは出来ないだろう。

 そう思ったとき、処刑前夜にも関わらず、今まで平静だった心臓が急に早鐘を打ち始めた。


 会えない。もう二度と。


 その言葉だけが頭の中で繰り返される。

 鼓動を押さえるように胸に手を当てて、彼女は鉄格子の彼方に目をやった。

 冷たい夜風が入り込む窓越しに、鏡のような満月が相変わらずこちらを見下ろしていた。

 月に照らされた群雲がうねり、ちぎれて飛んでゆく。

 潮騒の中に、ごうっと木々の唸る音がして、夜風がいっそう強くなったことを知らせた。


 ふいに、彼女はこめかみを押さえた。

 頭の中が燃えるように沸き立ち、髪の毛が芯からぞわっと逆立つ。

 また、木がごうっと音をたてて吠える。


 そのとき、部屋の中で花火が爆発したような轟音が城中を揺らした。

 彼女はさっと席を立つと、窓に駆け寄った。

 右足首に付けられている長い鎖がじゃらじゃらと硬質な音を立てる。

 鉄格子を掴んで外を見下ろすと、かすかな月明かりの元、黒い海に強風で逆巻く白波が見えた。


 知らず知らずのうちに、かつて魔王と対峙したときの記憶が蘇る。

 こちらが気圧されるほどの魔力。

 下の方から兵達の怒号が聞こえた。


 魔術師め、と一際高く叫んでいる男の声。

 それが途切れる前に、またばりばりという恐ろしい雷鳴のような音。


 悲鳴とうめき声、そして城壁が壊される音が一斉に響く。

 彼女は知らず知らずのうちに、窓の外の暗闇に叫んだ。


「もういい! 私はここだ!」


 その声が聞こえたのかどうかは分からない。

 だが、その一瞬後、彼女のいた小部屋の向こう側で、見張りであろう兵が、長く尾を引く絶叫を上げた。

 それがぷつりと途切れると、小部屋の扉の隙間から青い閃光が飛び散った。

 重厚な鉄の扉はまるで教会の鐘の音のような澄み切った音を立てて崩れ落ちた。

 崩れたドアの向こうに、廊下の明かりが逆光となり、奇妙な人影が立っている。

 手に鳥のモチーフを付けた長い杖を持ち、背には黒羽を背負っている。

 と、背負う翼の形がぐにゃりと崩れ、粒子のように漂うと、地に着く前に大気へ溶けた。


「やはり、おまえか」


 女王であった頃と同じように、威厳を正して彼女はそう言った。

 ただ、自然と緩む頬はどうしても押さえられなかった。

 どこか、心の中でこうなることを願っていた気がした。

 共に戦い、守り合った戦友が、最後に会いに来てくれると。


「マリアン」


 彼が、今では誰も知るものがない、女王の本当の名で呼んだ。

 彼女の記憶通り、のどの奥でかすれたような声だった。

 痩身の体を薄墨の衣で包み、黒髪の端から覗く青い瞳は、今し方の魔術の名残で爛々と光っている。

 全て同じだった。

 何年も前、まだ彼女が王女で好き勝手な暮らしをしていた頃と全く変わっていない。

 彼女は思わず顔を歪め、泣き出してしまいたくなるような、それでいて笑い出したくなるような不思議な気持ちをこらえた。


「久しぶりだな、セト。会えてうれしいよ」


 万感の思いの中、出てきたのは昔と同じような、朗々とした戦士の声だった。


 セトはその言葉が聞こえなかったかのように、彼女の顔を凝視していた。

 と、ふと視線をそらし、ごまかすようにこう言った。


「すまない。この国がこんなことになっているなんて知らなかった」

「老けただろう」


 彼女は意地悪く、彼が考えていることを当てようとした。

 彼女自身、この変化を受け入れられないでいるのだ。

 魔王の呪によって年を取ることの出来ない彼にとっては、彼女の今の姿を直視するのはよけいに辛いのだろう。

 身長差はほとんどないので、彼の目の動きは如実に追えた。

 セトは視線をゆらがせると、やがて意を決したように目を戻し、彼女の浮き出したほお骨に手を当てた。


「やせた」


 ひやりと冷たい手のひらから、かすかに鼓動が伝わる。

 魔力の消えた穏やかな眼差しに、彼女は少し安心した。

 彼は、魔王ではない。今は、まだ。


 じゃらりと鎖が嫌な音を立て、セトは我にかえったように手を離し、彼女の足もとを見た。

 制する間もなく、急に猛々しい顔つきになり、彼は低い声で何事か呪文を唱えた。

 鎖は先ほどの扉と同じように、青い閃光を発して粉々に砕け散った。

 それを見て、彼女はもう独りの旧友、意志を持つ杖のことを思い出した。


「鳥、おまえにも会えて嬉しいよ。元気か?」


 杖の上についている金色の鳥の口が途端に開き、緊迫した口調で話しだした。


「おい、そんなこと言っている場合じゃねえぞ。

 早く……」


 杖が言えたのはそこまでだった。

 セトが呪文を静かに唱えると、杖の声は聞こえなくなり、ただぱくぱくと口を動かすだけになった。

 まだ話したりなそうにしながら、杖は光の粒子となって消えていった。


「杖の言うことももっともだ。さあ、早くここから出よう」


 セトはそう言うと、彼女の骨張った手を取った。

 一瞬、喜んでついて行こうかという考えが彼女の頭によぎった。

 ここにいても死ぬだけだ。それならば、他国へ亡命してもいい。

 昔のように、彼と一緒に旅をするのは、きっと楽しいことだろう。


 だが、彼女はやはり女王だった。

 その誘惑を意志の力できっぱりとはねのけ、彼女は掴まれた手をそっと振り払った。

 セトが怪訝な顔をして彼女を見つめた。

 彼女は、思っていたよりも傲然とした声で告げた。


「それは出来ない」


 一瞬、セトの呼吸が止まる。

 分かっていた。

 彼は彼女の死に目に会いにきたのではなく、助けに来たのだと。

 昔話と同じく、魔王に捕われたお姫さまを助け出す騎士のように。


 本当に、彼らしい。

 彼女はそう思いながら、彼の驚いた様子を静かな眼差しで見ていた。


「なぜ?」


 彼は、信じられないというように呟いた。


「私が処刑されることで、この国の争いが収まるからだ。

 革命はもう止められない。

 私に出来ることは、この首で責任をとることだけだ」


 淡々と説明をしたが、セトはまるで自分が助けられる立場にでもあるように、両手で彼女の手にすがった。


「責任? あなたが何をしたと言うんだ?

 勝手に国民が騒いでいるだけだろう!」

「民の争いは私の責任だ」


 彼女が彼の目を見据えて言うと、セトの目がまた妖しく光った。

 嫌な魔気がその体を覆う。

 地を這うような低い声が彼の喉から漏れた。


「恩知らずな民など、私が滅ぼしてやる」

「馬鹿者!」


 突然の彼女の一喝に、セトはびくりと体を震わせた。


「おまえ、魔王になる気か! これ以上我が民を殺してみろ、私が許さんぞ!」


 彼女の剣幕に押され、恐ろしい魔力を持った魔術師にもかかわらず、彼は主人に怒られた犬のように怯んで後さずった。

 彼女は語調を落ち着けると、さとすように話した。


「ここに来てくれたことには感謝する。

 だが、私は持ち場を離れるわけにはいかない。

 女王ではなくなったとしても、私は最後までネフェリアでありたい」


 セトは口を開きかけ、また閉じてを繰り返した。そして、やっと小さな声で言った。


「それはあなたの自己満足だ」


 彼女は、そっと彼の両手を握った。


「そうかもな。だがそうさせてくれ」

「どうしても?」

「どうしてもだ」


 セトは、伏目のまま、もう何も言わなかった。

 沈黙の中で、彼らはどちらともなく近づき、腕を互いの背に回して抱き合った。

 しんしんと冷える冬の寒さの中、相手の体の温かさだけが強く伝わってきた。

 昔々、ネフェリアがまだ英雄赤騎士であり、セトが本当の十五歳だった頃と同じように。


「死にゆく者の三つの願いを聞いてくれるか?」


 腕をまわしたまま、ネフェリアはセトの耳元で呟いた。

 彼の後頭部が頷くのを見て、彼女は続けた。


「一つ目。ティルキアの民を、もう殺さないでほしい」


 背中に回った彼の手の力が少し強くなったが、彼は素直に頷いた。


「二つ目。絶対に、魔王になるな」

「ならない」


 かすれた声で、セトが言う。

 彼女は、にこりと笑って腕にいっそう力を込めた。


「最後に——」






 早朝、処刑係はびくびくしながら塔の上の小部屋へ向かった。

 小部屋へ通じる道々には、鎧や槍の持ち手が転がっている他、ガラスの破片がそこら中に落ちている。

 処刑係が一歩踏み出す度に、それはパリパリと軽快な音を立てて割れた。

 そのガラスに似た物が、元は人間であったことを、彼はその腫れぼったい目で確かに見ていた。

 昨日、伝説の悪魔のような格好の魔術師が、手当りしだいに兵をガラス片へと変えていったのだ。

 処刑係は隠れていて一命を取り留めてはいたものの、もしかするとあの悪魔はまだ塔の上にいるのではないかという不安は拭えなかった。

 いっそ、女王と一緒にどこかに消えていればいい。

 そう思いながら処刑係は階段を上りきった。


「遅かったな」


 急に声をかけられて、処刑係はびくついた。

 扉が無くなり、朝日の差し込むその小部屋には、堂々と立つ元女王の姿以外、誰の姿もなかった。


「へ、へえ」


 処刑係は間の抜けた返事をした。


「遺書は別の者に託した。もう用意はできている」


 女王はきびきびとした声で告げた。

 疲れた様子はどこにも見られず、まるで処刑係が使われているかのようだ。

 処刑係はひょこひょことうなずき、彼女の腰に細い紐をくくり付けた。


「では行こうか!」


 元女王は出陣するときのように、高らかに宣言した。



 露にぬれた広場には処刑場が作られていた。

 とはいっても、囲いの中に木を組み合わせた舞台があるだけの質素なものだったが。

 囲いの回りには、多くのやじ馬たちが集まり、処刑を出来るだけいい位置で見ようと頑張っていた。

 やがて、城へ続く道から荷馬車が出てくると、民衆たちは喝采と罵声と投石をそれに浴びせかけた。

 荷馬車は布で覆われていて中を見ることは出来なかったが、彼らはそこに元女王が乗っていることを知っていた。

 ごとごとと音を立てて荷馬車が処刑場へ着くと、民衆のお祭り騒ぎは最高潮に達した。背をぐっとのばした立ち姿で元女王が馬車から現れると、怒号と小石が飛び交った。

 それを鎮めるために、兵たちは走り回ってはお調子者達を小突いた。


 やがて、判事より長々しい罪状が読み上げられた。

 曰く、国費の横流し。民衆への増税。魔術教への不当な差別などだ。

 だが、まともに聞いている者など一人もいなかった。

 皆、題目になど興味がないようだった。

 ただ処刑というドラマティックな演目を見たいという一念だけが、観客たちをこの処刑場へと向かわせたのだ。


 ついに、長い長い罪状は死刑の宣告をもって終わりを迎え、彼女は壇上へ上り、跪いて台の上に首を差し伸べた。

 その脇には、はさみをもった処刑係が所在なげに立っていた。

 女王の髪の毛は邪魔にならないよう、短く刈られた。

 英雄赤騎士の名の元となったその見事な赤褐色の長い髪は、一塊の毛束となって地面に落ちた。


「何か、言い残すことはあるか?」


 処刑係ははさみを置くと、鈍く輝く斧に持ち替えた。

 そして、しきたりにのっとって、小さい声で彼女に尋ねた。


「ティルキアに、繁栄と栄光を」


 彼女がそう答えると、処刑係は目を丸くして驚いたようだった。

 いよいよ刑が執行されることを知り、うるさかった会場はいつの間にか静まりかえった。

 誰も口をきかない。

 針の落ちる音も聞こえるほどの、恐ろしい沈黙が辺りを支配していた。


「目隠しは」

「いらない」


 彼女は静かに答え、壇上から見える顔の列の群れを見渡した。

 どの顔にも恐怖と共に、残酷な好奇の表情が浮かんでいる。

 だが、一人そうでない顔を見つけ、彼女の目はそこで止まった。

 彼は少し遠く、広場の外れの階段にいて、フードを目深にかぶり、顔を隠していた。

 が、彼女の視線に気付くとフードを後ろへずらした。

 セトだった。

 その顔には、悲しみや怒りといった感情は見られなかった。

 ただ、その澄んだ空のような青い瞳と視線が合わさった時、彼女は確かに、そこに本当の自身の姿が映っていると知った。

 今のみじめな姿でもなく、堂々たる女王でもなく、赤き聖戦士でもない、彼女自身の姿が、彼の目にはいつも映っていたのだと。

 彼女はその青をじっと見つめた。セトも、目をそらさなかった。


 処刑係の斧が振り上げられる。

 彼女は声を出さずに唇を動かした。

 彼がかすかに頷くのを確認すると、女王は安らかに微笑み、目を閉じた。

 鋭い刃を持った斧が、彼女の首に振り下ろされた。

 このとき、約八百年続いたティルキア王朝は終わりを告げ、新政府による新生ティルキア共和国が誕生した。

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