エピローグ 終わりの始まり
どこかから懐かしい呼び名が聞こえた気がして、深い眠りから呼び起こされる。
セトは温かい毛布に包まれていた。
いつの間にかすっかりなじみになってしまった白い帆布の天井が見える。
どうやらまた気絶して運ばれたらしい。自分のことながら、少々うんざりした。
だが、この天幕暮らしももうお終いだ。
戦争は終わった。
セトはベッドからのろのろと起き上がり、天幕から外に出た。
東に高く昇った日を見ると、どうも一昼夜ほど眠っていたらしいことはわかった。
だが、まだ魔力不足の余韻が残っていて、少し動くとくらくらする。
彼は忙しく動き回っている兵士達の間を通り抜けていった。
兵士達は、今なら多少遅いが収穫期に間に合うといった内容を上機嫌で話していた。
「ラインツはどうした?」
その兵士を捕まえて聞いてみたが、はっきりした返事は帰ってこなかった。
残党狩りは昨日あらかた終わったが、後処理があって忙しいようだ。
朝食を食べなければと思ったが、疲れすぎているのか、何も食べられる気がしなかった。
彼はそのまま、傷病兵を収容している天幕のすぐ裏にある墓地へと足を向けた。
ここの気候は、遺体をそのまま運ぶには暑すぎる。
基本帰らぬ兵達は、遺髪を一部切られたあと、土に埋められて杭を立てられる。
魔術教やタクト神教の墓は、場所こそ分かれていたが、手順や見た目は全く同じだった。
魔術師達が忙しく墓穴を掘り、丁寧でありながらも事務的に布に包んだ遺体を下ろしていく。
その向こう側では流れるような作業で次々に盛り土が出来上がり、最後に杭を立て、木槌で叩く。
まるで密集した道標でもつくっているかのようだ。
キースは既に荒れ地の一画の墓地に葬られ、荒れ地に突き刺さる数多の杭の一本となっていた。
セトは不思議な感情に支配されていた。
「キースはここにいるわ」
後ろから声を掛けられて、セトは振り向いた。
黒髪をなびかせたアリーが小箱を持って立っていた。
元々、赤い瞳が目全体に広がったように充血している。
どう慰めればいいのか分からず、ただ沈黙したままセトは彼女の小箱に目を向けた。
表面に『キース・アルシュ/ナタリア地方/カミノ村』と銘が彫られた手のひらに乗るような小箱に遺髪が収められている。
それが今のキースの全てだ。
「小さいでしょ?」
手渡された箱は、見た目より若干重いように感じた。
ただ、キースが死んだという実感がまだ湧かない。涙すら出ない。
天幕の向こうから、今でもふいに人なつっこい笑みを浮かべて出てきそうだ。
「……全て万物は一の根源に返るもの」
いろいろ考えたが、結局、彼は魔術教お決まりの定型句を呟き、アリーに小箱を戻した。
と、近くに停まっていた幌付きの荷馬車の近くにいた兵が、大きな声で言った。
「それも一緒に運ぶかね?」
アリーが頷き、遺髪を入れた箱を丁重に兵に渡す。
兵はひょいと受け取って、荷馬車の中に片手で無造作に置いた。
荷馬車には、同じような小箱がびっしりと詰まっているはずだ。
御者が馬に鞭を入れ、がたがたと馬車は荒れ地を走り出した。
あの馬車は遺髪を引き渡しに、カサン王国全土へ向かう。
馬車が地平線に向かうのを見送りながら、アリーが呟いた。
「……キースも、父さんも、飛竜レースも、私には何もかもなくなっちゃった。
今からどうすればいいのかしら」
「ラインツが何とかしてくれるだろう」
セトは無責任に言ってみたが、アリーはふっと笑った。
「上手くいくとは思えないわ。私は『竜の牙』の首謀者の娘だから」
「上手くいかないとも限らないだろう」
見上げた青い空を、飛竜部隊が編隊を組んで横切っていった。
伝令兵を乗せ、バキール反乱の終戦を告げる『戦況速報』を各地に配りに向かうのだ。
それを見たアリーがぽつりと言った。
「……私、まだ飛竜に乗りたい」
「なんだ。じゃあ今からどうすればいいのか分かってるじゃないか」
セトはため息をついた。
「ラインツに、引き続き直属の飛竜部隊として雇って欲しいと頼むんだ。
お偉方はいろいろ文句を付けるかもしれないが、心配ないだろう。
あいつは他人を丸め込むことにかけては天才だ」
どこまでもつづく荒れ地に、轍の痕を残して馬車が走っていく。
その上を銀色の鱗を光らせながら、五匹の飛竜が小さな点となって空に消えていった。
飛竜を見送ってから、セトは自分の足がまだふらついているのに気付いた。
「私はまだ寝たりないみたいだ。もう天幕に帰ることにする」
馬車から視線を外さずに、アリーが答えた。
「私はあの馬車が消えるまで、見送るわ。
キースは私の友達だったから」
友達ねえ、という言葉が出かかったが、やめておいた。
彼女は本当にそう思い込んでいるのだ。
今、ここでキースの本心を話しても、彼女がつらいだけだろう。
セトは黙って踵を返し、自分の天幕へと歩き出した。
それにしても、野営地は随分騒がしかった。
天幕に覆われたそこかしこから、馬の蹄の音や、酔っ払い特有のどっと笑う声がひっきりなしに聞こえてくる。
気の早いことで、もう祝勝会の準備が始まっているらしい。
準備の段階で既に酔っ払うのは全国共通だ。
と、東部訛りのどら声が響いた。
「みんな喜べ! 辺境伯シーラ様から、ティルキアンワインが半ダース届いたぞ!」
歓声が上がり、辺境伯を称える万歳がこだました。
辺境伯はかなり豪放な贈り物を持ってきたようだ。
ティルキアンワインはティルキア王国の王室農園で作られる高級ワイン。
味は濃厚、香りは芳醇らしいときいている。
セトは、自分が久々に頬を緩めたことに気がついた。
ティルキアンワインは飲んだことがないし、興味があるわけでもない。
そもそも、魔術教で酒は禁止だ。
ただ、ティルキアという懐かしい単語に反応してしまった。
美しい町並み。溢れる緑。真っ青な海。そして、真っ赤な髪をなびかせてたたずむあのひと。
思い出す度に息苦しくなる、もう二度と帰れない生まれ故郷。
感傷的になってしまった頭を切り換えようと、セトは頭を振って妄想を追い出そうとした。
そのとき、大声で兵士達が話し始めた。
「いやさ、これは取っておけば価値が上がるかもしんねえよ?
伝令が言っていた話、聞いたか?」
「おお。そうだなあ。
ティルキアがそんなことになってちゃあ、もう新しいワインは作れんからなあ」
「そうか? 名産品だから、新政府名義で作るんじゃないか?」
「いやいや。何せ国を上げての革命だろ? 王室のブドウ畑なんか焼き払われとるだろう」
口が一瞬にして乾いた。
血が頭から音を立てて消え失せていくのが分かる。
セトはよろよろと自動人形のように進み、樽を乗せた馬車のそばにいる兵士の元へとたどり着いた。
案の定、東部の鎧を纏った体格のよい兵士だ。
彼に気づいたとたん、兵士はひっと声を上げ、騒いで申し訳ねえですというような謝罪の言葉をもごもご呟いた。
どうも大声で騒ぎすぎて怒っていると思っているようだ。
セトはそれが聞こえなかったように兵士に近づき、怯えて後退する兵士の胸ぐらを捕まえた。
「……話せ」
「な、何をです?」
「ティルキアについて、知っていること全て!」
一際豪奢な瑠璃色の天蓋の中で、ラインツは苛々しながら書簡を見ていた。
奴は何をしているのだ、と彼は心の中で愚痴を吐く。
彼の手の中に収まっているカサン王からの書状には、娘が亡くなったことは痛恨の極みだと書かれていながらも、バキールの内戦を収束させた感謝の言葉が綴られていた。
ラインツはもちろん、バキールの怪物と称される魔術師にも報奨金とフォクセル勲章の授与がなされるということも書いてある。
異教徒の外国人に対しては十分すぎるほどの名誉だ。
……それとは別に、もう一つ重大な情報も伝えたかったので、すぐにこの天幕へ来るようにと使いを出した。
だが、使いが戻ってこないところをみると、またどこかふらふらと出歩いているに違いない。
ため息をついたとき、使いに出した兵士があわてふためきながらラインツの天幕へ入ってきた。
「大変です! セト様をお探ししたのですが、天幕にも、陣営のどこにも見当たらず……」
「そんなはずはない! よく探せ!」
ラインツは思わず立ち上がって兵士を叱った。
「いえ、それでもう一度天幕内を探しましたら、ベッドの上にこれが……」
兵士は震える手で小さな紙切れを手渡してきた。
地図の端を破りとったその紙には、たった一言、走り書きされていた。
『帰る』
「……」
沈黙の後、ラインツはくしゃっと紙切れを握りつぶして吐き捨てた。
「あの馬鹿が!」
帰る場所など、とうにないくせに。
恐らく、今日伝令が持ってきた話を知ってしまったに違いない。
ラインツは歯がみし、目を閉じ、そして祈った。
どうか、危惧していることが起こりませんようにと。




