表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ガラスの魔王  作者: 久陽灯
第一章 魔術師とバキールの怪物
18/46

第17話 月のない夜

 使者は三日目の夜にも帰ってこなかった。

 明日の戦いの打ち合わせで大詰めを迎えていたセトとラインツは、総指揮官用の天幕で夜遅くまで話し込んでいた。

 と、外から慌ただしい足音とともに栗色の髪の青年が天幕に駆け込んできた。

 キースだ。彼はラインツの前で、まるで一の根源でも拝まんばかりに頭を下げた。


「お願いです、総指揮官。明日の攻撃は中止して下さい!」

「三日と期限は切った。しかし使者は帰ってこなかった。

 ……セトの策も失敗に終わったようだ。計画は実行する」


 ラインツがあっさりつっぱねると、キースは必死の形相になって弁明する。


「アリーは帰ってくるはずなんだ! 何か邪魔が入ったに違いないんです!」

「そう思いたい気持ちはわかる。だが根拠がない」


 総指揮官という重い役目を任されてしまったラインツは、今日の幹部会議でも相当もめたようで、ひどく疲れ果てた声でキースを諭した。


「彼ら『竜の牙』には三日の猶予があった。

 その間に守備を整えているはずだ。

 気を抜いているとこちらがやられる。

 一気に峡谷を抜けて攻め落とさねば」


 もはや決定事項のように語られ、キースは唇を噛みしめ下を向いて黙った。

 セトは、もやもやとした気持ちを抱えながらその光景を見ていることしかできなかった。

 しかし、誰の目にも明かだった。

 明日の戦は、誰にも止められない。


「皆、今日はもう解散だ。明日は一働きしてもらうからな」


 ラインツの言葉にセトは頷き、キースの背を押すように天幕の外へ出た。

 キースは、はた目にもわかるほど落ち込んだ顔をしていた。

 セトは空を見上げてため息をついた。


 もはや西日も消え、この地は燃える松明の明かりだけとなる。

 新月の夜、星は空が青く見えるように降り注いでいた。

 青き太陽が燃えるとき、世界は暗黒に包まれる——セトは、ふとサーガの一節を思い出す。

 そして、その伝承が魔王誕生のときのことを謡ったものだったことに後から気づいた。

 背中から震えるような寒気が襲ってきた。

 キースがぽつりと言った。


「……アリーを敵地に送るべきじゃなかった。このままだと、彼女は処刑されてしまう」

「彼女がこちらを裏切ったと決まったわけじゃない。今はまだ」


 セトは精一杯慰めたつもりだったが、キースは生返事をして自分の天幕へと戻って行った。

 とぼとぼと歩く背中を、セトはやるせない気持ちで見つめていた。






 その夜はひどく冷え込んでいた。もう冬も近い。

 兵達が見張りを除いて皆寝付いてから、どのくらい時がたっただろうか。

 微かな衣擦れの音が聞こえ、寝床の中で目をつぶったままセトは耳をそばだてた。

 誰かが出入り口の布をまくったようだ。

 小さな足音と、息づかいが聞こえる。

 セトは身体を硬くして目を開いた。


 外の松明の僅かな光で、暗い人影が見える。

 その手に金属の何かが煌めいている。


 考えるより先に身体が動いた。

 毛布をはねのけ、足で人影を蹴りつける。

 人影は、きゃっと小さな悲鳴を上げて倒れ、木箱にぶつかった。

 彼は人影に馬乗りになり、武器を取り上げようと手を捻った。

 水のようなものがあたりに飛び散った。

 武器ではない。杯だ。

 天幕に酒の匂いが充満し、セトは相手の意図に気づいた。

 魔術師は、酒を飲むと一定時間魔術が使えなくなる。

 この人影——おおかたメイドのミアだろうが——は眠っているセトに酒を飲ませて、明日の戦いを不利にしようとしたらしい。

 読み通りだ。

 襲撃があるなら、きっと今日だと思っていた。

 なので、彼はわざとエディス嬢の天幕からセトの天幕までの道筋に、見張りを配置しないようラインツに指示させた。襲われる瞬間に捕らえようと待ち構えていたのだ。


 セトは人影を片手で押さえつけたまま、もう一方の手でポケットから炎の魔石をとり出し、明かりの呪文を唱えた。

 手のひらからぱっと明かりが散る。

 そして、照らされたその顔に、セトは驚きのあまり口をぽかんと開けた。


「あなたは——」


 セトが押さえつけていたのは、金髪を縦ロールにして修道服を着ている、エディス伯爵令嬢だった。


「……どうして、こんなことを?」


 聞いた瞬間、セトの首筋に後ろから冷たいナイフが押し当てられた。

 冷静なミアの声が、背後から聞こえる。


「セト様。エディス様から離れて下さい」

「やめなさい」


 エディスが静かにミアを制した。


「ミア、あなたに手を汚させないために、私は来たのよ」


 しぶしぶといった調子で、ゆっくりとセトの首からナイフが離れる。

 しかし、いつでも刺せるという気配だけは消えなかった。


「セト様。ちょっとどいてくださる? 大丈夫、逃げたりはしませんから」


 丁重に言われ、セトはエディスを捕まえている手を緩め、呆けたようにベッドに座った。

 驚きすぎて、抗う気も起こらなかった。

 エディスは立ち上がり、ぱたぱたとスカートを振って赤土を落として、セトの椅子に腰掛けた。

 そして、真剣な顔でこう言った。


「明日の戦いには、負けてもらわねばならないのです」


 聞き間違えたのか、とセトは自分の耳を疑った。

 戦争は二週間で終わる、と笑っていたあの彼女はどこへいったのだろう。

 セトは何度か言葉につまり、やっとこれだけをひねり出した。


「……明日の戦いに負けたら大勢の兵士や魔術師が死ぬ。わかって言ってるのか?」

「……ええ、もちろん。

 でも、あなたが戦えば、簡単に決着がつくかもしれません。

 それでは困りますの」


 きっと唇をかみしめて彼女はセトを見据えた。


「兵士達が出払えば出払うほど、私たちの逃げる時間が増えますから」


 逃げる。その意味を理解するまでに、しばらくかかった。

 伯爵家の娘だ。こんな不衛生で食べ物もままならない場所にいて、嫌にならないはずがない。

 しかし、他の兵士達を差し置いて、後衛で守られている彼女が一番先に逃げるようとするなんて、貴族としての誇りはないのだろうか。

 セトはだんだん腹が立ってきた。


「あんた、仮にも辺境伯の娘だろう? 皆を戦わせておいて、自分だけ逃げる気か?

 無責任にも程がある」

「エディス様が逃げるのは、戦が怖いからではございません。

 辺境伯のご令嬢だからです!」


 ミアがナイフを持ったまま、厳しい顔でセトの前に立ちはだかった。


「落ち着いて、ミア」


 エディスがミアを制し、落ち着き払った様子で続けた。


「私、この戦いが終われば嫁ぐことになっておりますの。

 一度も会ったことのない、顔も知らない四十歳年上の公爵と。

 そんなの絶対嫌ですわ」

「あんた一人の結婚とここにいる兵達の命、一体どっちが大切なんだ」

「ええ、ですからできるだけ救いましたわ。私ができる分だけは」


 セトは目を見開き、まじまじとエディスの琥珀色の瞳を見つめた。

 優しい瞳の奥に、何者にもたじろがない炎が静かに踊っている。

 敵の魔術師も治療し、『癒やしの天使』として兵士から絶大な支持を得ていた彼女は、どうやらとんでもないものを抱えていたようだ。

 ふと、思いついたことを彼は口に出す。


「ひょっとして、父親のシーラ辺境伯も、暗殺未遂ではなく……」

「……」


 エディスがすっと目線を逸らし、セトは確信した。

 嫌な結婚をしないために、彼女が秘密裏に暗殺未遂を仕組んだに違いない。

 そして、怪我をした父親の代理ということで戦場に赴き、戦いのどさくさに紛れて逃げる計画だったのだ。


「ミアはあなたを殺すつもりはなかったのです。

 父と同じで、少し怪我をさせるだけのつもりだったのですわ。

 私は、魔術師ならばお酒を飲ませるだけでいいと反論したのですけれど……」

「どうかしているにもほどがある!」


 セトは理解できなくなって話を遮った。


「なにも父親に怪我させたりすることはないじゃないか。

 伯爵令嬢ならわがままにふるまって、婚約破棄くらいしても許されるだろう」

「あなたには、わかりませんわ!」


 エディスが叫び、その視線が真っ直ぐ彼に刺さった。


「辺境伯の娘だからといって、私が思いのままに生きてこられたとお思い?

 この戦いのせいで、領地はめちゃくちゃ、家もとうに借金まみれです。

 私は、花婿候補者の中で一番お金持ちの公爵に嫁げと命令されたのですわ。

 金で買われたも同然です。

 一挙手一投足、それこそゆりかごから墓場まで、全てを貴族のしきたりに支配され、私の人生は全て私の手を通り越していくのです」


 ぞっとしますわ、と彼女は肩をすくめて話を続ける。


「私は、民のように暮らしたい。

 貧しくとも、慎ましく暮らそうとも、私が選んだ大切な人と一緒に生きていきたい。

 その願いを叶えるためなら、どんなことでもしますわ。

 たとえあなたが魔術を使えなくて戦況が不利になるとしても」


 そこまで一気に言うと、エディスは長くため息をついた。


「……でも、これで私の夢も、もう終わりですわね。

 ミア、もう帰ってもよろしくてよ。

 私が責任をとりますわ。彼女は、私が巻き込んだだけですもの」


 しかしミアは首を横に振って動かなかった。

 ぎこちない沈黙が天幕の中に漂った。

 エディスが一旦落ち着いたように思えたので、セトはゆっくりと言葉を選んで話した。


「……その夢物語が本当になったとしてだ。

 あんたみたいな伯爵令嬢が市井で生きていけるとは思えない」


 そんなことはございませんわ、と金髪の頭を振って彼女はメイドの手を優しく握った。


「私、ミアさえそばにいれば、他は何ひとつ要りませんのよ」


 そういうことか。

 この瞬間、全てのことが腑に落ちた。


 メイドがいちいち見せていた警戒心。

 かたくなに結婚を嫌がる伯爵令嬢。

 自分が選んだ大切な人と一緒に生きていきたい、と彼女が言った意味。


 身分違いで女同士。

 家柄的にも、何より宗教的にも、どう考えても許されはしない。

 それでも、この二人は既に突き進んでしまっているらしい。

 そのために他の全てを犠牲にする覚悟で。

 なんてことだ、とセトは頭を抱えた。

 そして、深呼吸をして立ち上がった。


「ラインツ様を呼ぶのですか?」


 エディスの言葉に、セトは首を振った。


「……いや、飛竜乗りのキースを起こしてくる。

 幸い今夜は新月だ。運がよかったな」







 夜中にたたき起こされたキースは最初動揺していたが、セトが計画をじっくり説明すると、神妙に頷いた。

 こっそりと小屋から飛竜を出し、警備兵の目を盗みながら荒れ地の外れへ連れて行く。

 そして、エディスとミアも僅かな荷物だけを持ち、天幕の群れをひっそりと抜け出した。

 野営地から離れた岩陰で飛竜に乗った彼女たちは、まだ何が起きたのかわからないといった顔をして、セトを不思議なものを見るような目で見ていた。


「ありがとう。でも、どうして協力してくれるのですか? 私たち、あなたを……」

「あんたたちは戦死した。そう思うことにする。さようなら」


 理由を言いたくなかったセトは無理矢理会話を終わらせ、キースに手で合図した。

 キースは手綱を引き、飛竜は羽音をさせて冷え込んだ空気の中へ舞い上がった。

 セトは星空を隠しながらだんだん小さくなる黒い影を見送った。


 あの二人は死んだことになり、南へと逃げるのだろう。

 自分の父を手にかけようとしてまで手に入れた二人だけの世界を満喫し、慎ましいながらもささやかな幸せに満ちた生活をおくる。

 物語のような駆け落ちだ。


 いいことをしたような気がする反面、セトの心にはどうしてもかさついた何かが残った。

 随分昔についた古傷を手ひどく引っかかれたような気分だった。

 どうしてあのときこうならなかったのか。

 あのひとが手を離しさえしなければ、あるいはセトが説得できたなら、彼女たちのように、幸福を手に入れることができたのではないだろうか。

 二人が乗った飛竜が見えなくなった夜空を、セトは黙って眺めていた。


 その夜明け前、一本の火矢が降ってきて、エディス嬢の天幕が突如として燃え上がる事件が起こった。

 見張りの兵士すら気付かぬ間に敵が迫っていたに違いない、と兵士達は慌てて鐘を打ち鳴らして照明用の魔術を打ち上げたが、敵の姿は既に消えていた。

 敵襲だ、と皆がざわめく中、そっとキースが帰ってきてセトの肩を叩いた。

 燃える天幕を眺め、複雑な顔をしているキースに、セトはこっそり尋ねた。


「二人は無事に逃げたのか?」

「ああ、ファルンに下ろしたよ。今頃馬車に乗って南へ一直線だ。

 でも、どうしてエディス様の天幕が燃えているんだ? もしかして、セトが燃やしたの?」


 セトは黙って頷き、人垣を指さした。

 兵士達は、少ない樽の水ではどうすることもできず、燃える天幕を前に立ち尽くしている。

 魔術師の水を出す魔術も、この乾燥した地域ではたいして期待できなかった。

 あれだけ仲の悪かった騎士団と魔術師達が、双方とも涙を流して口々に叫んでいた。


「エディス様が、我々の天使が死んだ!」

「『竜の牙』が殺したんだ!」

「我々が、エディス様の敵をとろう!」


 赤々と燃える炎の前で、兵士たちと魔術師たちの吼えるような叫びが大きくなっていく。


「彼らに正義の鉄槌を!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ