第16話 神殿に住む人々
翌朝も、その翌朝も、『竜の牙』と古代竜は不気味な沈黙を守っていた。
『竜の牙』には使者を送り込んでいるので、攻撃してこないのはある意味当然だ。
そして最終的に講和を承諾するにしろ、時間稼ぎのために回答を最終日まで引っ張るであろうことも想像がついていた。
しかし古代竜にとっては人間の使者など些末事のはずだ。
群れで行動するはずの古代竜が攻め込んでこないのは、こちら側としてはありがたい反面不気味としか思えなかった。
セト達連合軍側は、見張りを増やして警戒していたが、今だ竜達が崖を越えて出てくることはなかった。
しかし一方で、別の問題も持ち上がっていた。
連合軍内の作戦会議を巡り、騎士団と魔術師の間で火花が散っていたのだ。
それにセトが気付いたのは、古代竜が来たときに備え、空を見上げながら散歩をしていたときのことだった。
何の気なしに会議用の天幕の横を通り過ぎたとき、老人の悲痛な叫び声が聞こえてきた。
「一番槍は騎士の誉れ!
先鋒隊を魔術師にするなど、愚行にもほどがありますぞ!」
魔術師と騎士団の幹部達がざわめく中、ラインツのよく通る声がした。
「そしてろくな防御壁も張れず、前指揮官の戦いのような醜態をさらせというのか?」
「防御壁なら後方からでも張れるでしょう! 弓隊のように、後方支援にさせるべきです!
我々騎士団には我々の戦い方というものがある!」
「相手からバベルが来ることを考えろ。
後方からでは対応が遅れる。君の案には賛成できん」
ラインツが言いたいことはセトもわかった。
先日セトがバベルを使ったときは、高度が充分あったから防御壁も一部壊れただけですんだ。
だがあれを直接ぶつけられると、防御壁が六層あっても足りなかっただろう。
魔術師の一団が防御壁を常に八層ほど張りながら慎重に進まねば、相手からのバベルの一撃を防ぐことは難しい。
幹部達の中にも、納得している者はいるようだ。
そうだそうだ、という声も聞こえる反面、いや騎士団長が正しいという声も混じった。
そして、魔術師であろう野太い声が場を混ぜかえす。
「ふん、わしらだって先鋒隊などになりたくはないわ!
どうせ、異教徒なら死んでも構わんとでも思っているのであろう!」
「そうじゃない。ただ、最前線で防御壁を張る必要があると言っているだけだ」
「総指揮官殿は、我らに騎士団の肉壁になれとでもいうおつもりか?」
「臆病者め! 腰抜けの魔術師共は、我ら勇猛な騎士団の後ろについて怯えていればいい!」
もはや会議場は大混乱に陥っているようだった。
セトはそっとその場を離れようとした——つもりだったが、ラインツがこう叫ぶのが聞こえた。
「一旦休憩だ! 飯でも喰って、全員頭を冷やせ!」
不機嫌な顔をした騎士団と魔術師の幹部達が、ぞろぞろと会議場の出入り口から出てきたので、セトは絡まれる前に天幕の影に身を隠した。
幹部達は互いに一言も口をきかず、各々の天幕へと戻っていく。
誰もいなくなったあと、最後にラインツがのそのそと出てきた。
セトは一気に三歳は老けたラインツの顔を見て、思わず声をかけた。
「思った以上に大変そうだな」
聞いてたのか、と言った後、ラインツは口の端を上げて力なく笑った。
「攻め込む順番を決めるだけでこの始末だ。先が思いやられる」
それから、声を潜めてセトに囁いた。
「あのメイドは?」
「今のところ、動きはない」
セトは首を振った。
あれからミアには二人の兵士がそれとなく監視についている。
彼自身も、寝るときにはやむを得ず杖を出して見張りを頼んでいる。
杖には金輪際喋るなと散々説教しておいたのだが、命の恩人に向かって失礼な、と逆に怒られた。
しかし、メイドはいつも通りに振る舞っていて、セトの天幕には近づきもしなかった。
彼は考え考え言った。
「彼女が私の命を狙っているとしてだ。おそらく、動くとしたら総攻撃の前になる」
「まあ、使者のアリーが帰ってきてからだろうな。それで戦況ががらっとかわる」
俺の読みでは今日帰ってくる予定なんだがな、とラインツは言い、目を細めて北の崖を眺めた。
青空の下に立ちはだかっている巨大な崖は、敵と味方を分断する壁のように延々と地平線まで続いていた。
『竜の牙』は、巨大な古代遺跡をまるで自分たちの神殿のように取り扱っていた。
連合軍の天幕と比べれば、アリーにとって『竜の牙』の居心地はいいと言わざるを得なかった。
毎日入浴できるほどのたっぷりの水が湖から湧き出ていて、汁気の多い果物の数々が周りの森からもたらされた。湖のほとりには、籠城してから作ったのだろう小麦畑さえもある。
何より、彼女は『ガンドア卿の娘』として姫に等しい扱いを受けていた。
部屋には魔術師見習いの使用人がつき、部屋の外に出ると様々な人物が和やかに挨拶をしてくれる。連合軍とは大違いだ。
最初のうち、アリーは、使者として遺跡に入り込めたことにとりあえず安堵していた。
しかも、かなり歓迎されていることに驚きすら覚えた。
最悪、あの父親になら殺されるかもしれないと心のどこかで思っていたのだ。
ここまでこちらに好意的なら、三日の間に説得すれば、講和について真剣に考えてくれるかもしれない。
そう思いながらも、多忙な父親と話す機会がなく、既に二日が経っていた。
父親をどう説得すべきか案を練りながら、二階の吹き抜けの回廊を歩いていたときのこと。
聞き覚えのある声でアリーの名が呼ばれた。
下の階を見下ろすと、去年飛竜レースを引退した先輩が笑っていた。
親しげに手を振ってきて、アリーは背筋に悪寒を感じながら手を振りかえした。
今まで相手にしていた敵は、父親以外、どうせ会ったこともない他人だとたかをくくっていた。
だが、魔術師の世界は狭い。
死んだ人や舌切り刑を受けた捕虜の中にも、どこかで出会った誰かがいたかもしれないことに、今思い当たったのだ。
アリーは上階から声をかけた。
「どうして、こんなところにいるの!」
彼女は下の階からけらけらと笑って答えた。
「だって、私も『竜の牙』の一員だもの。
去年引退したのも、あなたの父上の教えに感銘を受けたからよ。
『貴族の金に仕えるな、神なる一の根源に仕えよ』と」
その返答に、彼女はますますぞっとした。
それこそ、アリーが親子喧嘩で家出までした元凶だったというのに。
彼女は思わず叫んだ。
「どうしてそんな……父の馬鹿みたいな意見を鵜呑みにして!」
と、手すりからぐっと身体を引き戻された。
がっしりした男の魔術師が、彼女の肩をしっかりと握っている。
「アリー様。お父上の高邁な思想に向かって、何をおっしゃっているのですか」
黒いフードに半分隠れた顔は笑顔だった。しかし、目は一切笑っていなかった。
「魔術師だけの国なんて、そもそも馬鹿げているでしょ!」
「ほう、しかし」
魔術師は目を細めた。
「あなたは腐敗した貴族連中に支配されている今のカサン王国が、馬鹿げていないとでも?」
アリーは肩を掴む手を乱暴に振り払った。
「少なくとも、父がやろうとしていることよりましよ!
魔術師の王国なんて作ってしまえば、世界中の魔術師が暮らしにくくなるに決まっているでしょ!」
「排斥された魔術師達は皆、この王国に入ればよいのです。
魔術師の国は魔術師には常に開かれているのです。
我らは八百年前のヴィエタ帝国のように、世界制覇を目論んだりする国家ではないのですよ。
カサン王国はカサン王国で、他国相手に勝手に戦争をすればいい。私たち抜きで」
アリーは言い返そうとして、ふと周りを眺めた。
いつの間にか、魔術師の円陣が彼女を取り巻いていた。
老若男女、フードを被った魔術師達だ。
彼らはじりじりと距離を狭めてアリーを囲みながら、顔だけがにこにこと笑っている。
「かわいそうに」
「まだ貴族社会に未練があるのね」
「ここはすでに魔術師の国なのよ」
群衆から次々飛び出す言葉を聞く度に、顔から血の気が引いていくのがわかった。
「……どいて!」
アリーは冷や汗をかきながら、集まってきた群衆をかき分けて走り出した。
ここにいてはいけない、と頭の中の何かが囁く。
ここは優しい牢獄だ。
皆、父の意見に賛同して集まってきた者達。
彼らの見ているのは『首領の娘』だ。
彼女がこの排他的な『魔術師の国』に違和感を覚えていることなど、全く考えもしていない。
一刻も早く、講和文書を持って帰ろうとアリーは思った。
文書は無理矢理父の机の上に置いてきた。
あの頑固な父親でも、目くらいは通しているに違いない。
アリーはサンダルの足音を響かせて、父の書斎へと向かった。
昼間でも薄暗い石造りの神殿の中、ランプの光を頼りにペンを走らせる。
ガンドア卿は、古代竜と対話した内容を読解しようと机の上に文書を広げていた。
一旦発音を神聖ヴィエタ語で全て書き起こし、初期言語の似た単語に片端から当てはめていく。
当然外れるときもあり、何を言っているのかわからないこともしょっちゅうだ。
しかし、個体差はありつつも、何とか意志の疎通は計れるようになってきた。
冬を越す間に、もっと古代竜と話し込めるようになるに違いない。
古代竜の力を意のままに扱えるならば、『竜の牙』の独立は今よりも簡単になる。
しかし、今回の翻訳の内容は、あまり芳しくなかった。
『我々の 死んだ 仲間』
『人間に 手を貸す こうなる』
『我々は 避けた 今まで』
『彼は 逆らった 私に』
『彼は 離れた 群れから』
ガンドア卿は髭の中で口をゆがめ、片眼鏡を外して目をこすった。
彼は今日、古代竜に会い、彼らの仲間が一匹、連合軍のせいで死んだということを伝えた。
死んだ仲間のためにも、ぜひ一緒に戦って欲しいとも頼んだ。
その返事がこれだ。
確かに、死んだ古代竜は好戦的で、ガンドア卿の話にも一番興味を示していた。
しかしその裏で、群れ全体としてはその行動に反対の声が上がっていたようだ。
出撃の鐘で出てきてくれる古代竜の頭数が段々減っていったのも、死んだ古代竜が孤立していったさまを思い起こさせる。
しかし、と彼は首を振った。
峡谷に敵軍が入れば、古代竜達も危機感を覚えるに違いない。
聖なる峡谷が襲われれば彼らも戦わざるを得ないだろう。
と、バタンと扉が大きく開き、アリーが息を荒くして入ってきた。
乱暴に机の脇の書類をばらばらとめくり、ガンドア卿にくってかかる。
「講和文書はどこ?」
ガンドア卿は炉を指さした。
「ああ、あれか。あれは焼いた」
「焼いた? 焼いたですって!」
目を丸くして、彼女はかみつかんばかりに父親に迫った。
「私、持って帰らなきゃいけないのに!」
「貴族ごときの使い走りなどしなくともよい!」
ガンドア卿は聞き分けのない娘に腹を立て、今しがた訳し終えた紙にペンを叩きつけた。
ペン先からインクが飛び散る。
しかしアリーはなおも言いつのった。
「貴族の話なんて、今は関係ないでしょ!
父さんの作ろうとしている魔術師の国なんて、この世に必要ないのよ!
どうして私の話を聞いてくれないの!」
「おまえこそ、ワシの話を聞くべきだ!」
ガンドア卿はいらだちを押さえようと、立ち上がって部屋をぐるぐると歩き回った。
「ワシは魔術師の二十年後、三十年後を見据えて行動しているのだぞ!
ここ数年で、魔物の数が急激に減った!
我らは危機感を抱かねばならぬのだ。
魔術師が魔物退治を生業にしていた時代は、もうすぐ終わる。
新しい世では何が起こる? 人同士、国同士の戦いだ!
その戦いの最前線に立たされるのが、我ら魔術師だ!
魔物退治という生活の糧を失った我らに、今のような連盟が維持できるとは思えない。
今までの宮廷魔術師は、連盟から派遣されるという体面を保つことができた。
しかし資金がなくなれば、我らの力も弱くなる。
やがて国際魔術師連盟は解体され、貴族に安い賃金でこき使われることになる。
我らは一の根源のみを崇拝する魔術教徒。
なぜ、異教徒のために同族を殺し、命まで投げ出さねばならないのだ?
国を越え、身分を越えた国際魔術師連盟を作り上げた我らの先祖の意志はどうなる?
魔術師を貶め、卑しい身分として扱ってきたタクト神教徒共は、遅かれ早かれ我らに同族殺しをさせようとしているのだ!」
「だからといって、ここに魔術師だけの国を作って何が変わるっていうの?
戦争が起こるだけじゃない!
たとえ魔術師の国が出来たとしても、一生この荒れ地から出ずに暮らすなんて、絶対に無理よ!
王国から独立するなんて夢物語にもほどがあるの!」
「夢物語だと? そんな浮ついた言葉で済まされるものではないわ!
独立国家は、我ら魔術師達の昔からの悲願なのだ!
それを阻止する者は、我が娘でも許さぬぞ!」
怒り狂った目をしたアリーが叫ぶように言った。
「もういい! 私、連合軍側に帰るわ!」
「そうはさせぬ」
ぱちん、と手を鳴らすと、この騒ぎを聞いていたのであろう魔術師の二人組が扉を乱暴に開けて入ってきた。
そして嫌がるアリーを無理矢理捕まえ、引きずり気味にガンドア卿の書斎から連れ出した。
二人の魔術師は、アリーがどんなに叫いても力を緩めることはなかった。
ついに杖を出そうと呪文を唱えたとき、彼女はぞっとした。
正しく詠唱しても、杖が出ない。
日々の食事に、酒が少量入っていたことを、このとき彼女は始めて知った。
最初から、父親に信用されていなかったのだ。
放り込まれたのは、豪華だと思っていた自室だった。
錠をかける金属音。そして、靴音が遠ざかる。
彼女は部屋をよくよく眺めて、気付いた。
この神殿は窓が少ない。片手がようやく通るような小さな隙間が壁に空いているだけだ。
明らかに、彼女を閉じ込めるための部屋だった。
アリーはぐるぐると何周も部屋を周った後、鞄から巻いた羊皮紙を取り出した。
あまり使いたくはないが、あの魔術師崩れから渡された第二の講和文書を試してみる気になったのだ。
一通目がどうしても通用しなかったとき、誰もいない場所で見ろ、と言われたことを思いだしながら、くるくると茶色い紙を広げる。
最初の行には、几帳面に揃った字でこう書かれていた。
『竜の巣に近い場所で、増幅の呪文をかけて以下の文言を唱えよ』
その後は、ナヤーナ・レル・マイエ……と、意味不明な配列の文字が終わりまでびっしりと書かれていた。
最後まで意味不明な文言を眉をしかめながらざっと黙読した後、彼女はもう一度部屋を見回した。
扉には錠、窓とは言い難い明かりとり用の隙間。
こんな状態で『竜の巣』へ行けるわけがない。
「……役立たず!」
彼女は、力任せに紙切れを机に叩きつけた。




