第9話 悪夢と飛竜乗り
目を開けると、大きな月が出ていた。
セトは目を擦ってみた。さっきまで、飛竜に乗って戦っていたはずだ。そして極体魔法のバベルを使って——そこからの記憶がない。バベルは本来、百人以上の魔術師が三十分はかけて魔力を練り上げ、繰り出す技だ。呪文を多少我流で変えたものの、一人で使うにはやはり魔力の消費が大きい。セトも実戦に使うのは初めてだった。
一時的に魔力増減症になり、魔力不足で眠ってしまったのだろうか。
それにしては、地面の上にしっかりと立っているのが不思議だった。月光に映え、地面はキラキラとまるで水面のような輝きを放っていた。
一歩踏み出すと、足の下でジャリッという音がした。
荒れ地じゃないな、と彼は思った。荒れ地の砂は、こんなに澄んだ音はしない。
もう一歩踏み出そうとしたとき、足が急に動かなくなった。
何気なく足もとを見て、彼は凍り付いた。地面から手が生えていて、彼の足首をしっかり握りしめている。
その手は、ぬめぬめと妖しく光っていた。思わずもう一方の足で蹴りつけると、澄んだ音を立てて粉々に砕けた。
が、手は一本だけではなかった。よく見るとそこかしこから生え、おいでおいでをするように揺れ動いている。
うめき声と一緒に、腕まで出てきた者がいる。
そして、がらがらと周りのガラスを崩しながら、やはりぬめぬめとした光沢の顔が現れる。
見覚えのない顔だった。しかし、そのガラスの顔はセトを恐ろしい目つきで睨みつけている。
そのときセトは気付いた。
これは悪夢だ。はやく目覚めますように。
そう願いながら目をつぶろうとするが、まぶたがいうことを聞かない。
ガラスの名もなき人々は、上半身まで出てきている。
皆恨めしそうな眼差しでこちらを見つめてなにかを話したそうにしているが、その声はくぐもっていてほぼ聞こえない。
しかし、セトにはわかっていた。彼らは今まで倒してきた元魔物達——そして、今撃ったバベルで死んだ人々も混ざっているのだ。
自分の中の罪悪感がこんな夢をみせるのか、それともこれも呪いの結果なのかわからない。
ついにガラスの人々の一人が地面から完全に這い出た。長い銀髪で、魔術師姿をしている。
月の光に体を透かし、ふらふらとこちらへ歩いてくる。不思議と足音はしない。
あれは、アレクサンダー・リュシオン先生だ。
セトの師であり——そしてセトの持つ剣で死んだ一人。
長い髪で瞳は隠れている。しかし、彼も皆と同じような顔をしているのだろう。
恨みのこもった、恐ろしい形相を。
一歩下がろうとしたが、無数のガラスの手が地面から生え、足首を捉えて離さない。
冷たい息がかかるところまで顔が近付いてきて——
そこでやっと目が覚めた。
風が耳元で吹き抜けている。
目もくらむような高さから、彼はうつぶせになって茶色い地面を見下ろしていた。
ぼつぼつと生えている植物が緑色の小さな点となり散っている。
——落ちる!
思わず頭を思わず引っ込めた。が、落ちることはなかった。
身体は大きくうねる鱗の上に乗っていたからだ。
そこでやっと自分の置かれた状況がわかった。
セトは、まだ飛竜の上にいる。
「目が覚めた?」
身を起こすと、前で手綱をとっている青年がゆったりした調子で聞いてきた。
「きっと魔力増減症だよ。無理もない。
あれは、バベルだろう?
僕も見たことがなかったけれど、独りで撃てるものなんだね。
もう少しでガスウェルに帰り着くから、ゆっくり休んでくれ」
そうそう、と青年は後ろを向いて笑いかけた。
「セト、あらためて礼をいうよ。僕はキース・アルシュ。
怪我をした僕を助けてくれたのは君だって、エディス様がこっそり教えてくれたんだ。
助けてくれてありがとう」
やはり、あの伯爵令嬢は口止めの意味がわかっていなかった。
苛立ちを覚えながらセトは不機嫌に言った。
「礼なんかいらない」
「そういうわけにもいかないよ。君は命の恩人だ」
「おまえを助けたのはただの気まぐれだ。
安易に魔力を使うなと、後でラインツにも怒られた。
もし同じことが起こっても、今度は助けない」
「それでも、僕を助けてくれたのは確かなんだから。君は優しいんだね」
「優しい?」
その瞬間、セトは苛立ちの正体に気付いた。
彼が不満なのは、口の軽い伯爵令嬢ではなく——彼自身だ。
思わずとげとげしい言葉が飛び出した。
「馬鹿なことを言うな!
いいか、あの砂漠には他にも敵兵が転がってた。
私が魔術で飛竜もろとも撃ち落としたんだ。
けれど、私はそれを助けようと思いもしなかった。
今だってそうだ。バベルをまともに受けたなら、飛竜もそれに乗っていた魔術師達も木っ端微塵になっているはずだ。
優しい人殺しなんてどこにも存在しないんだ!」
「……そうだね。僕も君も、国のために人を殺していることに変わりはないからね」
彼があまりにしょんぼりと肩を落としたので、セトは慌てて話題を変えた。
「優しい、なんて言葉はエディス様にでも言ってやれ」
少し気を取り直した声でキースが答えた。
「ああ、あのお嬢様は優しいよ。
魔術師の間でも、タクト神教の兵士と同じように丁寧に扱ってくれると評判だ。
それに美人だし」
「おい、相手は辺境伯のご令嬢だぞ。本気になるなよ」
ラインツに言われたことをそのまま繰り返すと、キースは陽気な声で笑った。
「事実を述べたまでさ。
王都で行われる王国主催の飛竜レースのときも、あの伯爵令嬢は目立っていたからね」
そうそう、と彼は思い出したように続ける。
「僕はこれでも王都で飛竜レーサーをしていたんだよ」
そんな職業があったとは知らなかったセトは、目を丸くした。
「レーサー?」
「元、だけどね」
キースの声に寂しいものが混じった。
「僕が飛竜に乗れるのは、この戦いが最後なんだ。背も伸びてしまったし」
セトは少し機嫌が悪くして、前に乗っているキースの背中を眺めた。
こちらは背も伸びない上に毎回酒場では子供扱いだ。
身長が高くなることのなにがいけないのだろう。
「自慢?」
「いや、自虐だよ」
やはり寂しそうに彼は言った。
「飛竜の乗り手は騎手と同じさ。
身が軽くて小さくなければ勤まらない。
前から僕はレーサーの中でもギリギリだと言われていたんだ」
僕は、とキースはとつとつと語り始めた。
「ナタリア地方の小さな村で育ったんだ。
親父は山野の魔術師で、薬の行商をしに、よく王都へ出かけていた。
まだ子供のころに、親父と一緒に連れて行ってもらったことがあってさ。
そこで、偶然飛竜レースを見たんだ。
圧倒されたよ。
何頭もの飛竜が目で追えないような速さで空中を割って進むんだ。
気がついたら夢中で手を叩いていた。
大きくなったら絶対に飛竜乗りになりたいと思って、魔術の修行を始めたんだ。
まさか、大きくなりすぎて諦めることになるとはね」
補給線が襲われたときだって、僕がもっと素早く御せていたら結果は違っていたかもしれない、と彼は悔しそうに言った。
「僕の失態で後ろに乗っていたナスカも、飛竜のネミルも死んでしまった。
飛竜部隊の隊長も、おまえは戦争が終わったらもう飛竜に乗るなというんだ」
まだ杖を手に入れていなかったころ、年齢が足りないから諦めろと何度も言われたセトとしては、キースの気持ちが何となくわかった。
彼は、今まで努力して積み上げてきたものを、身長というただ一つの要素のために奪われようとしている。
「レーサーになれないからといって、飛竜に乗ることまでやめなくてもいいんじゃないか?」
「それは余計につらいよ。飛竜に乗ったら、やっぱりスピードを出したいと思ってしまうから」
キースがことさら明るい口調で続けた。
「大丈夫。隊長の言うこともわかるしね。
軍務が終われば家に帰って家業でも継ぐよ。
小さな村で、薬作りでもして生きていく」
さあ、着いたよ、と彼は言い、いきなり高度をぐっと下げる。
そして飛竜の手綱を引いて、飛竜小屋の前の空き地に着陸させた。
ラインツが相変わらず渋い顔をして、セトの帰りを待っていた。
セトが飛竜から降りるなりずかずかと近づいて話しかけてくる。
「おい、いきなり極体魔法を味方の上空に撃つな。防御壁がまだ破られていなかったからよかったものの、他の兵が不安に思うようなことをするんじゃない」
早々、セトはまた機嫌を損ねた。
ラインツはこちらに何を期待していたのだろう。
信頼できる仲間としてならともかく、便利な兵器として指示されるままに利用されるのはごめんだ。
「私に期待していたのはこういうことだろう? で、満足したかな、総指揮官殿?」
「……ああ、まあな」
「今のは皮肉だ」
「わかってる」
そう言ったラインツの瞳を見つめて、セトははっとした。
この結果を望んだのは、確かにラインツだ。
しかし、彼の目にはこちらに対する哀れみが混じっている気がしてならなかった。
そして、指揮官であるが故に、厳しいことを言わねばならない苦悩も垣間見えた。
迷ったあと、セトは潔く認めた。
「……ごめん。ちょっと疲れてるんだ。少し休ませてもらう」




