覆面
「もう少しで目的地だ」
遠田が言った。
校舎裏の山道を登り始めてから、かなり歩いたように感じる。
昼間だったら、ちょっと散歩というくらいの距離なのだろうが、鬱蒼とした木々が作り出す深い闇が、実際よりも長い道のりに感じさせるのだ。
暗視スコープが無ければ絶望的だった。
「ここからは出来るだけ小さい声で会話してくれ。声が響いて第二グラウンドの方に聞こえるかもしれないから」
遠田の言葉に、俺と七原は頷いた。
更にしばらく歩くと、視界が開けた場所に出る。
暗視スコープを取ると、月明かりで薄らとグラウンドが確認できた。
「もう人がいるのかな?」
七原の問い掛けに遠田が答える。
「もういるよ。多分部室棟の裏に隠れていると思う。さっき私が来た時には既にいたからな」
「そんなに早くから?」
「私に情報を提供してくれた奴は、司崎に『一時間前に待機しろ』と言われたらしい。実質的には司崎の子分だ。異論なんて許されない」
そんな会話が為された後、携帯のLEDだと思われる光がチラチラと見えた。
それは部室棟の方へ向かって行き、やがて屋外照明が付けられた。
その光の中、大柄な男と細身の男が部室棟から出て来る。
大柄な方は三十代、そして細身の方は二十前後といったところか。
「がたいのいい方が司崎だよ」
「話に聞いていた通り、強そうだな」
司崎達は会話もせずに、突っ立っていた。
そしてしばらく待つと、グラウンドの入り口から、歩いて来る人影が見える。
光に照らされると、それが『覆面』だと分かった。
話に聞いていた通り、帽子とゴーグルと手袋で、更には服も真っ黒だった。
小深山とは服装が違っているが、小深山が覆面だとするなら、あのダボッとしたジャージの下にそれを着ていたのだろう。持っていたスポーツバッグの大きさから言えば、帽子とゴーグルと手袋、そして靴くらいしか入れられなかったと思う。
覆面が司崎に近付くと会話が始まる。
……だが、距離の所為で、声が微かに聞こえる程度で、内容が聞き取れない。
もう少し近付きたいが、道から第二グラウンドへの傾斜は激しい。無理をしない方がいいだろう。
話が聞こえなくても、確かに緊張感が伝わってくる。
――そんなとき、七原が俺の腕を掴む。その手は震えていた。
「恐い」
七原が呟く。
そうだ。何かが起こる。とんでもない何かが起こってしまう、そんな空気だ。
それに身震いしていると――唐突に司崎が覆面に掴み掛かる。
体を前のめりにして、その一瞬に全てを賭けたかのような動きである。
しかし覆面は、それをあっさりと躱した。
それが合図だったのか、部室棟の裏や木々の陰から、厳つい男達がわらわらと湧いてくる。
司崎を含めれば、司崎側は十人――鉄パイプを持っている奴もいた。
覆面に考える隙を与えるつもりはないのだろう、彼らは猛烈な勢いで覆面に向かっていく。
もう歯止めはきかない。
七原が俺の腕を強く握った。
……だが、覆面は一歩も動かなかった。
それどころか、微動だにしていない。
だからといって呆然と突っ立ている感じでもない。
いくら人が増えたところで形勢は変わらない――その余裕が感じ取れた。
覆面は雪崩れ込んでくる男達の攻撃を次々と往なしていく。
最初から、どういう攻撃を仕掛けられるか分かっていたように、無駄のない動きだった。
適度な距離を保ち、相手の攻撃を躱しては打撃を繰り返す。
拳ではなく、掌を使い、肘を使い、膝を使う。
ヒットアンドアウェイの戦法ならリーチを優先するものだろうが、後に痛みの残らない戦い方をしているのだ。
――すると、中の一人がナイフを取り出した。
ナイフを引き、腰の辺りで持つ、その構えは自然で、ナイフを持ち慣れているのがわかった。
武器格闘技の経験があるのだろう……いや、遠田が言っていた近接格闘術をやっていたという奴かもしれない。それだけの威圧感がある。
それならば覆面としても対処が難しいはずだ……そう考えながら見ていると、覆面は男のナイフをあっさりと叩き落とした。
それはあまりにもあっさりであった。
ナイフ男が弱かった訳では無い。彼が持つあらゆる戦術を、覆面は全て想定した上で、その隙を縫って勝負を決したのだ。
そして覆面はナイフを手に取ると、グラウンドと俺達のいる場所の中間くらいの木々の中に投げ込む。
圧倒的に司崎側が劣勢である……
それでもプライドがあるのだろう。厳つい男達は、覆面に立ち向かっていった。
戦意を保つ為に大きな雄叫びを上げながら。
「それで、『覆面』は何の能力なの?」
七原が俺に問い掛けた。
七原には、もう怖がっている様子が無かった。
覆面に、あまり害意が見受けられない所為だろう。
まるで大人が子供をあやしているように見えるのだ。
「見ての通り『速さ』だろうな。相手が動いた瞬間に、何をするか全部予測し、次の動作が始まっている感じだ」
「速いのは、そこなの?」
「そうだよ。覆面は思考を高速化している。一秒あたりの脳の仕事量を増やしているって感じかな。それによって反射と同じくらいのスピードで次の行動に移れる。それが覆面の能力だ」
「それだけ?」
「ああ、それだけだ。その違いが大きな差を生むんだ」
「でも覆面は滅茶苦茶速く動いてるんだけど」
「それは初動が速いから、そう見えるだけだ。元来の身体能力もある。更にそれにプラスして、動体視力。そして敵との間合いの取り方、躱し方が体に染みついている」
覆面を小深山だとするならば、それはサッカーで鍛えられたものだろう。
人体の弱い部分をしっかり心得ている所を見るに、格闘技の経験もあるのかもしれない。
そういう経験があるかどうかを、逢野に聞いておけば良かったなと思う。
「戸山、私も一つ聞いて良いか?」
「ああ」
「だとするなら、覆面は何であんな覆面をしているんだ? もちろん、素性がバレないようにする為もあるんだろうが。首も手首も執拗に隠して、完全に肌を覆ってる。覆面の能力が思考のスピードアップだけなら、そんな必要は無いだろ?」
「いや、あの格好である必要はあるんだよ。元々、脳ってのは、かなりの量の血液を必要とするんだ。その脳を高速化するって事は、血流量を増加させてるって事だ。そうなると、体中の毛細血管が広がって皮膚は赤みを帯びる。あの覆面の下は赤鬼のように異常に赤くなっているんじゃないかと思う。目を隠しているのも、眼球も充血した上に、思考のスピードに合わせて異常な速さで動いているからだろう」
「なるほどな」
「たぶん覆面はわざとあまり動かないようにしているんだろう。能力だけで体に相当な負担が掛かっている状態だ」
「そうだな。能力が有るとは言え、生身の人間が十人もの敵を相手しているんだしな」
相手は十人だ。
どんだけ速くても、判断を間違えれば命取りになる……その点では、思考の高速化ほど優れた能力は無いかもしれない。
まあ、高い身体能力があってこそではあるが……。
そんな話をしていると、眼下では、あまりにも一方的な展開になってた。
覆面は的確に人体の急所を狙っていく。
よく見てみれば分かるが、覆面は一切手加減をしていない。体の負担を減らす為に、最小限にしか動かないから手加減しているように見えただけなのである。
既に三人が地面に突っ伏していた。
その痛みに、絶望的なまでの力の差に立ち上がれない者が出始めていた。
そして最後に残ったのは、やはり司崎だった。
今にも崩れ落ちそうだが、司崎はそれでも立っていた。
執念……その言葉だけでは説明が付かない。
何故なら、司崎のスピードが初めよりも上がっていっているからだ。
少しずつ、少しずつ、司崎は覆面の速さに対応して来ているのだ。
あんなにも消耗しているのに。
こんな化け物を相手にしているのに。
それでも。
「戦いの中で成長しているってやつだな」
「おかしいよ。何で、そんな事が出来るの? 相手は能力者でしょ?」
「となると、答えは一つだ――おそらく司崎も能力者なのだろう。つまりこれは、能力者と能力者の戦いなんだよ」




