逢野亞梨沙
俺がロッカーに入ると、程なくして部室のドアが開く音がした。
「実桜、来たよ」
「え、亞梨沙? 亞梨沙だったの? 奏子が言ってた相談相手って」
亞梨沙とはクラスメートの逢野亞梨沙の事である。
そして奏子とは寺内奏子、つまり委員長の事である。
逢野亞梨沙は、教室ではいつも家庭科部の佐藤千里と一緒にいて、七原が藤堂と険悪になって以降は、逢野と佐藤のグループに七原が合流したという感じになっている。
「実桜は誰が来るか知らされてなかったの?」
「うん。奏子が教えてくれなかったから」
「ふーん。そうなんだ……何でだろう? ってか、そもそもどういう経緯なの?」
「私ね、最近悩んでる事があって、それを奏子に相談したのよ。そうしたら、いい相談相手がいるから、放課後に、その人に会う場をセッティングしてあげるって言われて」
「そうだったんだ。私は突然、奏子に拉致られて、実桜が困ってるから相談に乗ってあげてって言われたの」
「へー。そんな急になのに来てくれたんだね、ありがとう。で、奏子はどこ?」
「先約があるからって帰って行ったよ。守川君とアウトドア用品の専門店に行くらしい」
こっちを優先してくれよと思う。
でも、それはそれで良いのかもしれない。
逢野と七原は普段から仲良くしているのだ。二人きりの方が腹を割って話しやすいだろう。
「ところで今日、アレはいないの?」
逢野が七原に訊ねた。
「アレって?」
「戸山のぞむだよ」
「違うよ、亞梨沙。戸山のぞみ君だよ」
「ああ、そうだったんだ。てっきり、のぞむだと思ってた……で、そのアレは? ついに消滅した?」
「消滅しないよ。何だと思ってるのよ。今日は用事があるから部活に出ないって」
「そうか。よかった。アレがいたらどうしようかと思ってたよ」
なるほど……委員長が俺と七原を別行動させた理由も理解できた。俺と七原が一緒に部室に行く所を逢野が見ていて、俺だけがいなくなっていたら、逢野が不自然に思うだろう、という事なのだろう。
単なる思いつきのようで、よく考えている。
「で、実桜が悩んでる事って何なの?」
「最近ね、小深山君の事が気になってるの。同じクラスになって小深山君の事を知ったり、小深山君が私に気があるって聞いたりして。私としても、小深山君は悪くないって言うか、好きになれそうっていうか……でも、小深山君には彼女がいるって話だったでしょ?」
「うん。彼女いるよ」
「それなのに、私に気がある素振りを見せるなんて、どういう事なの? と思ってたら、朝に別れ話をしているって言ってたでしょ? 気になってさ。でも直接本人には聞く勇気がなくて……奏子って顔も広くて色々な事を知ってるでしょ? だから奏子に相談したの」
なるほど。そういう事か。
小深山に言い寄られてるという事にして、詳しい話を聞き出そうとする作戦のようだ。
感心してしまう。これなら無理なく小深山の事を聞き出せるだろう。
……ただし、それで本当にいいのだろうかと思う。
七原は友人の逢野亞梨沙に沢山の嘘をつかないといけない事になる。
そんな事をして大丈夫なのだろうか。
「なるほどね。で、奏子に相談相手を紹介するって言われて、それがまさかの私だったって事ね」
「そうなの。でも、これでなんとなく……理解できたよ」
「何が?」
「奏子が亞梨沙が相談相手だと私に言わなかった理由。千里も小深山君が好きだから、千里と引き離してから話をさせようって事だったんだと思う」
「そうね……それを言うなら、私の方が奏子の意図を理解してると思う」
「奏子の意図?」
「そう。奏子が私を紹介したのは、千里に実桜の思いがバレて気まずい関係になる前に、私が実桜の小深山への幻想をぶち壊すべきって事だと思う」
「どういうこと?」
「私に言わせれば、小深山なんて、ただのモテたいだけのしょうもない男だから。その現実を実桜に教えるのが私の役目なのよ」
「しょうもない?」
「そうだよ。私は幼馴染みだから、小深山のことはよく知ってるのよ」
「幼馴染みだったの? 全然知らなかったけど」
「あんまり他人に言ってないからね。でも実桜が小深山の毒牙に掛かりそうって言うなら、忠告しなきゃいけないでしょ。あの下半身モンスターだけはやめておけって」
「下半身モンスターって」
逢野は大人しそうに見えて、かなり毒舌家のようだ。
「でも正直言うと安心したよ。小深山に惚れるなんて、実桜も割と普通の感覚を持ってるんだね。私はてっきりアレと付き合ってると思ってたから」
「違うよ。戸山君とは付き合ってない……」
「そうだよね。あんな根暗で根暗で根暗な奴が好きなわけないよね」
「亞梨沙、同じ事三回言ってる」
「あんな暗くてジメッとした奴は明るいところに出てこないで欲しい」
奇しくも、俺は今そういう場所にいる。
「藤堂さんがアレに絡んでるとハラハラする。アレは絶対復讐とか考えてるよ」
「言い過ぎだよ!」
「そうだね。ごめん。実桜はそれでも一応友達なんだよね? っていうか、さっきも言ったように付き合ってるのかと思ってた。まあ、勘違いで安心したんだけど」
「……そう。私は小深山君が気になってるんだから……」
「でも、小深山のどこに惹かれたの?」
「格好いいし」
「格好いいだけなら、隣のクラスの谷口君でもいいでしょ?」
「どことなく影がある感じとか……私ってね。実は家族と色々あったんだ。それを小深山君に話したら、俺も同じだから分かるって言ってくれてさ」
七原は嘘を重ねた。
確かに、その嘘は家族の事を聞くキッカケになるだろう。
しかし、今後、逢野と友だち付き合いを続けていく上で、そんな嘘をついたら大変だろうと思うが……。
まあ、七原が決めて、七原が言っていることなのだ。
俺が止めるべきでもない。
「そうなんだ。知らなかった……でも、こんなこと言ったら悪いけど……実桜、思いっきり引っ掛けられてるよ。小深山の家族、そんなに仲悪いって訳でもないから」
「そうなの?」
「両親も優しい人だし、裏表がある感じでもない。小深山には兄もいるけど、その人も穏やかな人だから。むしろ弱気すぎるってくらい。あの家族の中で一番勝ち気で根性が曲がってるのは小深山章次だよ」
「小深山君って、お兄さんがいたんだ。名前は?」
「シリウス」
「え? 小深山シリウス……って名前なの?」
「そう。青い星と書いて青星だって」
「凄い名前だね」
「いわゆるキラキラだよね。こういう名前って生きていくの本当に大変だと思う」
「だろうね」
「言っておくけど、小深山の親はヤンキーじゃないよ。ただのロマンチストって感じだと思う……でも、さすがに反省したんだろうね。二人目は章次っていう割と普通の名前だから」
「そうだね」
「ちなみに青星さんは、この高校の卒業生だよ」
「そうなの?」
「うん。わたし達が中三の時、高三だったから時期は被ってないけど」
「へー。じゃあ今は?」
「大学生。大学一年生だよ」
「それって……」
「一浪してA大に入ったの」
逢野は誰でも知ってる大学の名前を挙げた。
「A大!? 滅茶苦茶、頭良いじゃん。じゃあ今は、東京で一人暮し?」
「って何で青星さんの話になったんだっけ?」
「小深山君の家庭の事情を聞いてて」
「ああ、そうそう……とにかく、あの家はどこにでもある一般の家庭だから」
なるほど。話を聞く限りでは、家族が原因じゃなさそうだな。
「そうだったんだ……」
「小深山の影に惹かれてるなら、やめておいた方がいいよ。あいつは苦労知らずだから。あの容姿で、あらゆる才能に恵まれている。コミュ力も高い。そんなあいつに影なんて出来ようがないよ。実際、あいつの悩みなんて聞いた事もない。あいつが悩んでるような姿を見せるのは、単に女を落とすテクニックだから」
「そうなんだ……少し幻滅した」
「でしょ? もっと幻滅する事実をいうなら、小深山はただの巨乳好きだよ」
「え? ちょっと待って……え?」
「歴代の彼女見ても分かるから、真剣に付き合った相手はみんな巨乳」
「そうなんだ」
「げんなりするでしょ」
「……だね」
補足するならば――七原も逢野も胸は控え目である。
「今の話だと、亞梨沙は小深山君の歴代の彼女を知ってるってこと?」
「知ってるよ。今のはミサキっていう子。中学まで一緒だったんだけど、高校は女子校に行ったの」
「へー」
俺も小深山が彼女らしき人と道で擦れ違った事がある。
小深山の彼女は、着ているニットの生地が胸部だけペラペラになりそうなくらいの巨乳だった。
そう……そういう事だったのだ!
今まで感じていた言葉に出来ない違和感の正体はそれだったのだ!
あの彼女から七原に乗り換えるなんて、温度差がありすぎるのではないかと……まあ、どちらがいいかは別として。
「偶然の再会で運命を感じて付き合いだしたって聞いたけど、私の推測では、小深山はしばらく会ってない内にミサキの胸が大きく育ったのを見て、付き合おうと思ったんだと思う」
「……そんな事って」
「そんな事があるのが男ってものだから。巨乳の事しか考えてないの」
補足するならば――それは偏った意見である。
「信じられない。信じたくない」
「でも、それが現実なのよ。じゃあ今から彼女に電話してみようか? そうすれば、小深山がミサキと別れて実桜と付き合おうとしてるかどうかが分かるかもしれない」
「そんな事……」
「大丈夫。上手くやるから。スピーカーフォンにするから黙っててね」
そして、しばらく呼び出し音が鳴った後、相手が電話に出た。
「ミサキ、久しぶりだね」
「ああ、亞梨沙。久しぶり。どうしたの?」
ミサキは優奈より更に甘ったるい猫撫で声である。
「ちょっと聞きたい事があってさ。昨日の夜、えっと10時過ぎだったかな。ミサキを見かけてさ。辛そうな顔してたから大丈夫かなって思って電話したの」
「ああ。そうなんだ? 見られてたんだ。恥ずかしい」
ミサキは思いの外、明るい声で答えた。
「何があったの?」
「えっとね。何も無かったっていうか……小深山君って。格好いいじゃん。共学でモテてるだろうし。だから不安になっちゃってさ。それを電話で伝えたの。そうしたら、小深山君は何か忙しくて手が離せなかったらしいんだけど、駆けつけて来てくれて、抱きしめてくれたんだよね。それで全て解決したから」
「何だ……そういう事ね。惚気を聞く為に電話したんじゃないのに。まあ、それならそれでいいよ」
「じゃあ、また今度じっくり話そうよ」
「そうだね。その時は、ちゃんと惚気を聞きに行くよ。またね」
電話を切った逢野は低い声で言う。
「つまりは、こういう事だよ。彼女と揉めていたって話は嘘。サッカー見てただけなのに忙しいとか言う。そして、見ていた番組を録画に変えただけなのに、全てを捨てて駆けつけて来たような顔をする。これが小深山章次という人間なのよ。皆、見事に引っ掛かってる。ミサキも賢い方じゃないからね」
女、こええ。
「今の聞いて思ったよ。小深山君、無理だね」
七原の発言には二つの意味が含まれているのだろう。
一つは、彼氏として『無理』という事。
もう一つは、小深山を覆面と疑うのは、もう『無理』だという事である。
「でしょ? 小深山って、そういう奴なのよ。被害者の会が発足しないのが不思議なくらい」
「そうだね。これからは小深山君が何て言って来ても受け流す事にするよ」
「そうした方がいいよ。じゃあ、もう悩みは消えた?」
「うん」
「じゃあ私、そろそろ帰るね。ちょっと用事があるの」
「そうなんだ。忙しいのに本当にありがとう」
「友達の為だよ」
「うん。ありがとう」
「実桜、一つ言っておくけど、小深山が駄目だからといって、アレと付き合うのはやめてね」
「分かったから」
「本当に駄目だから。ダメ絶対」
「うんうん。分かったから」
そしてドアが開く音がする。
「亞梨沙、本当にありがとうね」
「うん。じゃあ、また明日」
その声から、逢野が部室から遠ざかっていっているのが分かった。
ふぅっと大きく息をつく。
やっと、ここから出られるようだ。




