教室
七原に口をはさまれる前にと、俺は扉を開けた。
「おっ! 戸山か! おはよう!」
部屋の対角にある委員長の席の前から、守川がバカデカい声を上げる。
こういう守川の行為のせいで、俺が登校して来た事がクラス中に知れ渡るのだ。
「戸山、おはよう!!」
守川が再び声を上げた。
聞こえないフリをしたら、壊れたオモチャのように何度もリピートするなんて事になる。
俺は仕方なく、小さく手を上げて応えた。
守川には悪いが、今、守川に構っている暇は無い。
俺が探さなければいけないのは小深山だ。
小深山はどこだろうか。
教室を見渡す。
始業時間が近いからだろう、もうほとんどの生徒が集まっていた。
藤堂が窓際の片隅で、眉間に皺を寄せて携帯をイジっている。
笹井と柿本は、それと距離をおいて、こそこそと話をしていた。
クラスの情勢は日々変化していくものだ。
――そんな事を考えていると、意外に近い場所で小深山を見つけた。
廊下側の席に座る佐藤千里と逢野亞梨沙の傍らに立っている。
和やかに談笑中といった感じだ。
逢野の視線は小深山の顔から動かない。
これに水を差したら、逢野は確実に憤慨してしまうだろう……。
しかし、そんな事も言っていられない。
あまり良い状況とは言えないが、チャイムが鳴って副担任が来る前に、やるべき事を済ませておくべきだ。
「戸山、おはよう!」
目が合った小深山が、すがすがしいばかりの表情で声をかけてきた。
さすがだな。
俺の所為で文化祭実行委員なんて面倒な仕事をする羽目になったにも関わらず、好青年の対応である。
「おはよう、小深山。ちょっと昨日の話の続きをしたいんだけど、いいかな?」
「続き? いいけど」
「じゃあ、委員長のところで話すから来てくれよ」
小深山はフットワーク軽く、俺に付いてきた。
取り残された逢野が所在なさげにしている姿が一瞬、視界の隅に残る。
気にしない。気にしない。
いちいち逢野のケアをしているわけにもいかないのだから。
これから俺のやるべき事は、文化祭実行委員を三津家から柿本に変えてもらうように訴える事だ。
昨日の柿本との約束を履行する為である。
小さいからと、取るに足らないからと、約束を反故にする事は避けるべきだ。
嘘つきでも、いや嘘つきこそ約束というものを大事にしないといけない。
「委員長、文化祭実行委員の件なんだけど……」
俺が語りかけると、委員長は笑顔を向けて来た。
「何? やっぱり戸山君がやってくれる気になったって事?」
「いや、そうじゃなくてさ。突然の話なんだけど――三津家が転校したんだ」
「え、ええ?」
委員長と小深山が同時に声を上げる。
まあ、驚くのも当然だ。
転校して来て、二日で転校していく転校生なんて、俺も初めての経験である。
「待って。転校って言った? 本当に?」
「こんな嘘ついても意味ないだろ?」
「そうだけど……でも、なんで?」
「詳しい事情は……そうだな。機会があったら話すって事にしておいてくれ」
「え、ああ。そうなんだ……」
察したというように、委員長と小深山が頷く。
この二人が詮索しないでいてくれる事は非常に有り難い。
特に小深山は、ここの所のあれこれで、クラス内での影響力が高まっている。
「で、その三津家の最後の言葉なんだけどさ――」
「戸山君、最後の言葉なんて不穏すぎでしょ!」
後ろにいた七原から突っ込みが入る。
発言に重みを加えようとしたのだが、確かに、やりすぎだったかもしれない。
「転校先でも元気いっぱいな三津家からの伝言なんだけどさ――」
「いやいや、先に言った事のせいで、その発言も意味深になっちゃってるから」
七原の呟きをスルーして、俺は続きを話す。
「三津家は『信頼する柿本さんに実行委員を任せたい』って言ってるんだよ。ってことで、小深山に頼みたいのは、柿本さんと二人で実行委員をやってくれって事だ」
「え。どのタイミングで仲良くなったんだよ、二人に接点は無かっただろ」
「いや、あるよ。三津家は柿本さんの伯母さんである柿本真智子さんにお世話になってたんだよ。その縁で色々とな」
「お、おう」
こんな情報を出されれば、小深山でも何も言えないだろう。
「だから、頼むよ。小深山」
「そっか……しかし、でも、なあ」
小深山が首を傾げる。
釈然としないのは当然だろう。
小深山は困っている俺と三津家を助けようと名乗り出たのだ。
そのどちらともが仕事を放棄した挙げ句、柿本と委員をさせられるなんて納得いくはずもない。
しかも、それを頼んでるのが、七原と登校してきた俺というのも更にポイントを下げている。
「小深山には本当に悪いと思ってるよ。でも、こんな事を頼めるのは小深山しかいないんだ」
「……うーん」
腕組みをする小深山。
さすがに、このまま押し切るのは無理なように思える。
どうするかなあ。
――と、そんな時、委員長の隣で、守川が複雑な表情をしているのが目に入った。
「委員長、オレは小深山が羨ましいよ。オレも戸山に頼られる男になりたい。俺に言ってくれれば、どんな要求でも聞くのにな」
教室に響き渡るほどのデカい声で委員長に耳打ちする守川が、また話をややこしくする。
さらには柿本が、ここぞとばかりに目をギラつかせながら小深山に体を寄せた。
「小深山君、私と一緒にがんばろうよ」
幸い、こういう時に一番に絡んで来そうな藤堂は絡んでこないが、幾人かの小深山ファンの女子生徒からの視線が激しく厳しい。
さらにさらに、その刹那、ぎぃっとイスを引く音が静かな教室に響き渡った。
方向からいえば、逢野の居るあたりだ。
振り返るのが怖いほどの、負の波動が伝わって来る。
状況は悪化しているようだ。
マイナス点が多すぎる。
この形勢で、柿本が小深山と実行委員を務める事なんて出来るのだろうか。
――なんて風に、俺が他人事のように考えているのは、柿本には悪いが、今回の件に何が何でもという気持ちが無いからである。
俺の言うべき事は言った。
柿本から見ても、俺が約束を果たしてないとは言えないだろう。
あとは、もう巡り合わせだけだ。
俺は成果にコミットはしないのだ。
小深山と一緒なら、委員をやっても良いって奴は沢山いる。
小深山の一言で、どうとでもなるだろう。
そう思いながら、小深山を見る。
「さすが戸山だよな」
小深山は苦笑いを浮かべた。
「うん?」
「仕事もしないクセに、仕切り出すなんて、そうそう出来る事じゃない」
「俺だって、悪いと思ってるよ。出来る限り、委員の仕事は手伝うから」
「そっか……わかった。じゃあ、聞いてやらない事もないよ」
「本当か?」
「ああ、本当だよ。ってか、戸山の頼みだし、最初から聞くつもりだったよ。ただ、戸山から『俺も手伝う』って発言を引き出そうと思ってな」
そう言って、小深山が楽しげに笑った。
それだけで静まりかえった教室内の重たい空気が蒸散していく。
やはり小深山は懐の深さが違う。
小深山の苦笑と、その後の発言がなければ、クラスメート達の心に蟠りが残っただろう。
細やかな配慮をひしひしと感じる。
「小深山、ありがとう。助かるよ」
「別に気にしなくていいからな。友達が困ってたら、助けるもんだろ?」
「俺は、その時の状況によるけどなあ」
「ああ。それ、戸山らしいわ」
小深山が、またクククと笑う。
どこまでも良い奴だなと少し感動したが、考えてみれば小深山を俺と同じクラスにしたのは楓だ。何をやろうが、何を言おうが、このクラスで起こる事は、造物主である楓の手の平の上なのだ。
感謝こそすれ、ヘドも出る。
まあ、これで朝のちょっとした用件も終わりだ。
俺は自分の席に着こうと、振り返った。
すると、逢野亞梨沙が一際厳しい表情で俺を睨み付けて来ている。
今にも、ぐぬぬぬと声に出しそうな顔だ。
「ぐぬぬぬ」
声にも出したようだ。
気持ちは分かる――と、心の中で呟く。
七原にも語った通り、俺は逢野の神経を逆撫でするような事ばかりしている。逢野をターゲットに嫌がらせをしていると思われても仕方がないくらいに。
しかし、当方には本当にまったく、これっぽちも悪意は無いのだ。
俺は逢野に視線を返す。
不自然に目を逸らすわけにはいかない。
俺に後ろめたい思いがあると捉えられると、それはもう既成事実になってしまう。
出来るだけ何も無いフラットな表情で二秒だけ目を見た後、さっと元の行動に戻ろう。
少なくとも他意が無いと示す努力くらいは、しておかなければ……。
しかし――まさに、その瞬間、チャイムが鳴り始めた。
これが俺と逢野の血で血を洗う凄絶な戦いの始まりであり、その幕開けを打ち鳴らす鐘――でもないのに。
はからずして、五秒ほど睨み合う形になってしまった。
間が悪いというのは、この事をいうのだろう。
どうして逢野とは、こうも噛み合わないのか……。
まあ、どうでもいいか。
うん、どうでもいいな。




