食卓
チャイムを鳴らすと、すぐにドアが開く。
出迎えてくれたのは上月蓮子である。
優奈達の母親だけあって相当な美人だが、今日は悪巧みをしている子供のようなニタリとした笑みを浮かべている。
……しかし、それより気になるのは、鼻腔の中に広がる香ばしい匂いだ。
ハンバーグか……。
ケチャップソースの煮込みハンバーグ。
ハンバーグの味だけでいうと、俺はどんな名店よりも上月家のものが一番だと言うだろう。
「ハンバーグならハンバーグって言ってくれれば――」
すぐに来たはずだ。
思わず本音が漏れ出てしまう。
蓮子はそれに気を悪くしたでも無く、満面の笑みで口を開いた。
「ダメダメ。それだと私の楽しみが減るのよ」
「どうしてですか?」
「望君って、ハンバーグの時、すごく嬉しそうな顔するでしょ。その顔が見たかったから」
いつのまにか、俺がこの家のハンバーグを愛して止まないことがバレていたようだ。
蓮子の後ろから優奈と麻里奈が歩いて来る。
「もし断ったら、ドアの隙間からハンバーグの匂いを送り込んで、おびきよせるって案もあったんだけど」
と、優奈
「だから素直に今日はハンバーグだから来いと言ってくれよ」
「お兄ちゃんって、うちのハンバーグが本当好きなんだね。今度お母さんにレシピ教えて貰っとこうかな。お母さん、いい?」
「じゃあ、その時までに二人で話し合っておいてね。この奥義は一子相伝だから、どちらかにしか伝える事が出来ないの」
何でだよという気にもなれない親子の遣り取りを聞き流す。
いつになったら家に入れてくれるんだろう……。
「大変。お兄ちゃん、意識が朦朧としてるみたい」
「禁断症状みたいなもの? お母さんのハンバーグって何かヤバい物が入ってんのかな」
「単純に空腹なだけだよ」
気付けば、昼から何も口にしてない。
それからの頭脳労働を考えれば、エネルギー切れを起こして当然だ。
「じゃあ、望君。いつもの所に座って」
ダイニングのテーブルの上では、料理が湯気を上げている。
俺が帰ってきたのは丁度良いタイミングだったのだろう。優奈がかなり強引だったのも頷ける。
今はただ感謝しかない。
俺は蓮子のイスの隣のイスに座った。
そこは生きていれば、双子の父親の座ったはずのイスだろう。
そんな事を考えてしまった事はおくびにも出さないようにして、食事が始まるの待った。
上月蓮子は料理上手だ。
ポテトサラダにしても、スープにしても、他の名前の分からない料理にしても見た目からして全てが美味い。
ああ、吸い込まれそうだ。
ここで待つのも、それはそれで生き地獄である。
蓮子がお盆の上の茶碗をテーブルに置きながら口を開く。
「じゃあ、望君が本当に気絶しそうだし、いただきますにしよっか」
ついにその時が来た。
もちろん最初は蓮子さん特製のハンバーグからだ。箸で掴み齧りつくと、ケチャップソースと肉汁の旨味が口の中に広がる。
やはり上月家のハンバーグは掛け値無しに美味いと思う。
今まで食べてきたハンバーグの中で間違いなく一番美味い。
ありきたりな言い回しだが、ほっとするというか疲れた心に染み渡るような味だ。
「余った分は、後でおみやげにしてあげるね。冷凍しておけばいつでもチンして食べられるから」
「天国かよ」
「普段偉そうな事ばかり言ってるけど、味覚が小学生のままなのよね」
優奈がそう言った。
俺が優奈と出会ってから一瞬たりとも小学生だったことは無いが、そんな事を言っても仕方ない。
親子三人の和気藹々とした会話を聞きながら、箸を進める。
普段は無口な双子だが、蓮子の前では滑らかに口が動く。
俺も黙っていて疎外感を感じる事は無い。
ここは俺にとっても居心地の良い場所だ。
「お兄ちゃん、お茶取って」
今、気が付いたが麻里奈の呼び方が『お兄ちゃん』に戻っている。
七原の一件以来、その呼び方はしなくなったものだと思っていたが……。
そう思い、よくよく考えてみると、蓮子の前で呼び方を変えて、何かあったんじゃないかと勘繰られるのを避ける為という推測に辿り着く。
「ありがとう、お兄ちゃん」
そう言って微笑む麻里奈には余所余所しさも感じない。そんな演技が出来るタイプでは……いや、演技が出来るタイプか。ガチガチの演技派だ。そもそも、あざといキャラってのも単なる麻里奈の中でのブームみたいなものだった。
今はただ普段通りを取り繕おうという事なのかもしれない。
「ねえ、望君」
唐突に蓮子が呼び掛けて来た。
「何ですか?」
「望君、今日疲れてるって聞いたけど何に疲れてるの? 別に部活とかバイトに励んでるって訳でもないでしょ」
蓮子は俺の親が海外赴任中の監視役を自認しているようで、きらりと目を光らせる。
「大丈夫、お母さん。心配しなくても良いと思うよ。実桜さんって人も一緒だし」
事情を知る優奈がフォローを入れてくれた。
「実桜さん?」
「お兄ちゃんのクラスメートで、七原実桜さんって人。最近は実桜さんといつも一緒だから」
と、麻里奈。
「望君に彼女が出来たって事?」
双子が同時にスプーンをスープの皿に落とした。
蓮子は爛々と輝かせた目で俺を見ている。
どう返答したものだろう。
外では七原を『彼女』という事にすると、双子には言ってある。
ここは外とカウントするのか、内とカウントするのか。
まあ、蓮子という部外者がいる以上、外のカウントで良いのだろう……当然、後での双子への説明が大事になるだろうが……。
「ごめんごめん。何か色々とあるみたいね。でも、みんなして、そんな恐い顔しなくても――ってか、十八歳になったら私を貰ってくれるって約束はどうなったの?」
それを聞いた麻里奈が、はっとした顔になる。
「お兄ちゃんじゃなくて、お父さん……?」
「約束なんてしてねえから」
「で、どんな子なの? 七原さんって」
「優しいし、頭良いし、お兄ちゃんの交友関係の中では割とマトモな人だと思うよ」
麻里奈は真顔で、そんな風に答える。
「望君が遠田さんって子と仲良くなった時はぶーぶー文句言ってたじゃない? 七原さんはOKなんだ?」
「だって遠田さんは不良っぽいし……色々あったし」
小声になっていく麻里奈に、優奈が「私も実桜さんのことは評価してるよ」と加勢する。
どんな立場から言ってるんだよと思うが、予想以上に双子が七原に悪意を抱いていない事に少し安心した。
――しかし、一体何が二人の心を捉えたのだろう。
同じような疑問を持ったのか、蓮子が「二人も七原さんとは仲が良いの?」と問い掛けた。
「うん。何度か話したよ……お母さんと似てると思った」
「え? 私と?」
「そう。うまく説明できないけど、実桜さんはお母さんと似てる」
それは至言であると思う。
確かに何故だか七原は蓮子と似ている。
もちろん容姿ではなく、内面的な話だ。
具体例は思い付かないが、全てが似ている。そんな感覚があるのだ。
「すごく話しやすいの。何を話しても受け止めてくれるような感じがして」
他人の心の闇に触れ続けて磨かれた七原のコミュニケーション能力――それに母性に近いもの感じているという事だろうか。
「そっか。私に似てるのか。良い彼女じゃん。大事にしなよ? 望君」
「そうですね。まあ、あっちがすぐに見限るでしょうけどね」




