沼澤の理由
教室のドアが開き、自分の席に座ってる沼澤の元へと俺が歩み寄って来る。
「やっと来てくれたね、戸山君」
「悪かったな。遅くなって」
「これ、文化祭当日の流れだから目を通して。この赤い線を引いてるところが戸山君の仕事だよ」
「わかったよ」
俺は沼澤の隣の席に座った。
沼澤は机に資料を幾つも広げ、一つ一つ細かく確認している。
「進行は何割くらいだ?」
「把握しててよ。確かに戸山君に負担が掛からないようにするって言ったけど、全く仕事しないとは思ってなかった」
「悪かったな。こっちも色々あってさ」
「まあ、いいけどさ――デザートの盛り付け方の勉強会は終わったし、衣装も進んでる。今は終わりが見えて、少し寂しいってところかな」
「で、笹井には近づけたか?」
「……なるほど。今回は渋らずに来てくれたと思ったら、それを聞く為だったんだね」
「まあな」
「頑張ってるよ。今日は久しぶりに瑠華と話が出来た。嬉しかったな」
「そんなんで涙ぐむなよ」
「色々な事が良い方向に動き始めてるからさ。目が合わせられなくても、何とかなるんだと思った。全ては気持ちの持ち方次第なんだね」
「まあ、全てがそうだと言わないが、大体の事はそんなもんなんだろうな」
「戸山君に出会えて本当に良かったよ。コミュ力に関してもだけどさ、一番大切なのは踏み出す事なんだね。一回でも踏ん張れば、あとはちゃんと耐性が出来る。上手くいく事ばかりじゃないけど何とかなるというか、我慢できるようになる――戸山君、本当にありがとう。明日からは、瑠華に近づけるようにもっともっと頑張るよ」
俺は沼澤の顔をじっと見た。
視線は合わないが、口元の微笑みは柔らかい。
――だが、それに誤魔化される訳にはいかないのである。
「なあ、沼澤。いっそのこと笹井と目を合わせたらどうだ?」
「え?」
「転校まで時間も無いだろ。笹井は沼澤を避けるばかり、沼澤は笹井と目も合わせられない。このままじゃあ何も変わらないだろ。取り敢えず腹を割って話す為にも、目を合わせてくれ」
「強引なこと言わないでよ。何度も言ってるように私は自分の力で何とかしたい。この力で無理に仲良くしても、それは偽物だから」
沼澤は強い意志の籠もった口調で拒絶した。
「時間が無いのはどうしようもないだろ」
「どうしても目を合わせろって言うなら、もう一度、あれを試してみて。また失敗したとしても、私は大丈夫だから」
「やめておくよ。無駄だと分かってるのに他人のケツを叩くような趣味は無いからな」
「…………」
沼澤が沈黙する。
「どういう事ですか? 無駄って」
「無駄は無駄だよ。このままじゃあ排除は出来ないと思ったんだ」
「ですが、試す価値はあると思います。本人が望んでる事ですし、沼澤さんはクラスメートに躊躇しなくなったと言ってましたよね?」
「それでも結果は変わらないと思ったんだよ」
「もしかして、沼澤さんの力を排除しなかったって事ですか?」
「慌てるなよ。このまま、能力を得た理由が有耶無耶な儘では排除できないってだけの話だよ」
「沼澤さんが能力を得た理由ですか……? それは沼澤さんから聞いた話で分かってるはずです。笹井さんに見放されて、強い孤独感の中で力を得たというような事を言ってたじゃないですか」
「それが不可解なんだよ」
「不可解?」
「何なら七原に聞いて見ればいいんじゃないか? たぶん七原には分かってるよ」
三津家は七原に視線を向ける。
「え? 私?」
「ああ。七原が思ってる事を言ってくれ」
「うん……じゃあ言うけど、沼澤さんの当時の状況や性格からして、こんな能力を持つのはおかしいと思う。沼澤さんはもっと別の理由で、力を得たはずだよ。たとえば……」
「沼澤って、都合が悪くなったら黙るよな」
七原の声を遮るように、当時の俺が喋り始めた。
まあ、あとの説明は当時の俺に任せよう。
「そんなこと……ない」
「今のままじゃ、どうやっても能力を消す事は出来ないよ。沼澤が本当の意味で能力と決別する意志を持たないと」
「…………」
「もう許してやったら良いんじゃないか? 笹井がどれだけ苦しんでるか知ってるだろ。笹井は沼澤や藤堂との間だけじゃなく、他のクラスメートとの間にも溝が出来ていってる」
「…………」
「俺は沼澤が力を得た理由を単純に考えすぎてたんだ。唯一の友人である笹井に見捨てられた沼澤が、この力を望むのは当然だと思ってしまった。だけど、その時の沼澤の精神状態からすれば、むしろ放っておいて欲しいと望んだんじゃないか?」
何も答えを返してこない沼澤に、俺は話を続けた。
「それで、俺なりに色々と考えてみたんだ。勝手な推測で言わせて貰うけど――たぶん、この力は笹井への復讐という意味合いもあったんじゃないかと思う。この力があればクラスメート達の心は簡単に掌握できる。それで、沼澤を切ってまで笹井が手に入れたかったものを奪い取り、笹井を追い詰める――そういう願望が含まれてるように感じるよ。それが意識的か無意識かは分からないけどな」
「……確かに戸山君の言う通りかもしれない。今まで自分で自分を誤魔化してきたけど、それが一番理屈が通ってる……私って最低だね。そんな事の為に、こんな力まで……」
「でも、それだけじゃないはずだよ。復讐という理由だけでは全ての説明が付かない」
「え?」
「今まで沼澤は笹井に力を使う事を拒否してきたよな。それを普通に考えれば、笹井に力を使えば復讐にならなくなるからって事なんだろう。だけど、沼澤が『笹井を騙したくない』と語る言葉には感情が乗ってるというか、真実を語ってるという気がしていた。それで俺が考えたのは、この力は笹井へのアピールという側面もあったんじゃないかって事だ」
「アピール?」
「この高校に入ってから、沼澤はいつだって思い詰めた顔をしてたよな。どうしようもない惨めさや孤独感に打ち拉がれてるって感じの顔だった。寂しいと感じるのは、惨めだと感じるのは人を求めてるって事だろ――つまり、心を許せる唯一の友人である笹井に、自分の価値をもう一度認めて貰いたいという欲求が、沼澤の力を生み出した理由の核心の部分だと思うんだ」
「戸山君……」
沼澤は掠れた声で呟いた。
いきなりあれこれと言われて、頭の中の整理がつかないのだろう。
「別に復讐だっていいんだ。動機の善し悪しを言うつもりはないよ。重要なのは嘘や誤魔化しを捨て、力との決別を誓う事だよ。沼澤が望むなら、能力は簡単に消えるはずだ。この文化祭の準備期間で、沼澤も色々と考え方が変わっただろ。今ならそれに良い思い出を書き足す事が出来るかもしれない――その為に沼澤の力を消させてくれないか?」
「戸山君、色々と考えてくれてありがとう。全部戸山君の言う通りだと思う。今なら絶対に能力が消せるはずだよ。だから戸山君、お願い」
こちらに視線を向けてくる沼澤。
その目からは今にも涙が零れ落ちそうだった。
沼澤の力なんて大したことは無い。こんなのは幾らでも耐えられる。
俺はその視線に応え、首を縦に振った。
そこへドアが開く音がする。
他の生徒の鞄は残って無いので、基本的にはもう誰も戻って来る事は無いはずだ――そう思いながら、ドアの方を見ると、そこには笹井が立っていた。
笹井は怒りを湛えた強い足取りで歩み寄って来る。
何故、今なのだろうか。
何故、こんな最悪のタイミングなのだろうか。
笹井の間の悪さを呪うしかないのだった。




