優奈
――今日も一日大変だったな。
ようやく自宅に辿り着いた俺は、長い息を吐く。
遠田の排除自体は滞り無く終える事が出来たが、説明に時間を掛け過ぎてしまった……まあ思いの外、遠田の表情がすっきりしたものだったので良かったという事にしておこう。
鍵を開け玄関に入ると、女性物の靴が一組並んでいた。
おそらく優奈だろう。もしもの時の為に、うちの親が蓮子さんに預けた合鍵を引っ張り出して侵入しているのだ。
もちろん、それに文句が無い訳じゃないが、呼び出す手間が減ったのは幸運だと思ってしまった。疲労が溜まっていると何でも有りという感じになってしまう。
しかし、何で電気を付けてないのだろう。
他人の家だから節電、という気遣いなのだろうか。
リビングに着き、電気をつけると、優奈がソファで丸まっていた。
すーすーと規則的な寝息を立てている。
シャンプーの香りが鼻をくすぐった。
何故だろう……何故わざわざ他人の家に上がり込んで寝ているのだろう。
そう思って、その顔を注視すると、表情に強張りが見て取れた。どうやら狸寝入りしているようだ。
……しかし、こうしてよく見てみると、その横顔は言葉を失うくらいに綺麗だと思う。
優奈は麻里奈の趣味と思われる可愛い系のパジャマを来ているのだが、広めに開いた襟から鎖骨ががっつりと見えていた。これは非常にポイントが高い。昼間に襟首の広いシャツから見える鎖骨には何も感じないが、こういう状況下で見える鎖骨には心を揺さぶるものがある。そもそも俺は、首筋から鎖骨、そして肩へ掛けてのラインに、割と強めの嗜好を持っているのだ。鎖骨というものの何がいいのかというと、まずはその形……やめておこう。鎖骨の事を考えていると夜が明けてしまう。
とにかく――今のこの状況は俺と優奈達の関係においても非日常的なものなのである。
優奈達が引っ越してきて三年以上経つが、優奈のパジャマ姿を見たのは、これで二回目である。一回目は、先週の朝の事故的なものだったので、実質的にはこれが初めてだ。警戒心の強い優奈が、こんな姿で夜中にウチにやって来るなんて事は有り得ない事である。
では、優奈のこの不可思議な行動の真意は何なのか。
こういう事での決めつけは非常に危険ではあるが――それでも敢えて推測らしいものを出すとすれば――これは優奈なりの『誘惑』という事なのだろう。
増えていく能力者、七原の台頭。
そんな中で優奈は、戸山望が排除を投げ出してしまわないかと不安を感じてしまったのだ。
俺が形振り構ってられないように、優奈も形振り構っていられない。優奈は俺以外に頼る相手がいないから特にそうなのだと思う。
……まあ、例えそうであろうと無かろうと、俺としてはどちらでもいい。どちらにしても俺の行動は同じなのだ。スルーを決め込むしかない。欲望に流されるなんて事が出来るくらいなら、とうに一連の面倒事から逃げているはずである。
「起きろよ、何で勝手に上がり込んで眠ってんだよ」
俺がそう言うと、優奈は目を擦りながら起き上がった。
不機嫌な顔がこちらに向く。
「あまりにも遅いから寝ちゃっただけ……排除の事が気になったから待ってた」
「それなら終わったよ。だけど、想定外の事があってな」
「何?」
「排除能力者が現れたんだよ」
「うそ……何で? 能力者の情報が無ければ、排除能力者は現れないはずでしょ? 確かに能力者は増えてるみたいだけど、あんたが全部排除してたはず……」
「排除能力者に能力者の情報を提供していた奴がいるらしい。それもごく近くに」
「誰?」
「二年の学年主任の岩淵ってのがいるだろ? おそらく、あいつが情報を流してたんだと思う」
「そうだったんだ……」
「関わるなよ。関わっても良い事なんて無いからな」
「わかってるから。こっちが能力者だって気付かれたら終わりなんだから、そんな軽はずみな事しない。バカにしないで」
「一応、言っただけだ」
「で、どう対応するつもりなの?」
「俺達は普段通りにするしかないだろ。今まで通り、極力誰にも知られないように排除していくしかない」
「それだけ?」
「ああ。それに徹するしかないよ。あとは、優奈達の存在が知れないように一層の注意をして行くくらいかな。それくらいしか出来る事は無い」
「私達が能力者だと知ってるのは、遠田彩音と委員長、あと実桜さんね。あの人達が排除能力者に密告する可能性もないとは言えない。そこら辺の事はちゃんと考えてんの?」
「口止めはしてる。あとは、あいつらを信じるしかないよ」
「あんたの所為だからね」
「いや、七原も委員長も、お前がしゃしゃり出て来た結果だろ」
「そうだけど。遠田彩音は、あんたが白状させられたんでしょ」
「遠田が俺達の会話を立ち聞きしてしまったからだって言っただろ。もう誤魔化す事は不可能だったんだよ。俺だけの責任じゃない」
「そうだけどさ……」
確かにもっと上手く話を逸らす事は出来たかもしれない。でも、結局は俺達三人の注意不足が原因なのだ。
まあ、その一件以来、優奈達と行動を共にしないようにしようという事になって、動きやすくなったので、俺としては不満はないというのが本音の所である。
「遠田に関しては、下手に言い逃れするより、仲間に取り込んだ方が良いと思ったんだ。遠田は正義感が強くて、ハッキリした性格だから扱いやすいだろ? 結果的に、遠田の協力が無ければ排除できなかっただろうって事も多い。七原の件なんか特にそうだ」
「まあね」
もちろん優奈に遠田が能力者だった事を告げるつもりはない。
また一つ、優奈達への秘密が増えた。
「それよりも問題なのは、その排除能力者が聞いて来た事だよ」
「何?」
「何が原因で俺が排除能力に目覚めたのか、って。排除能力者になったからにはその理由となる能力者がいるはずだ――という事らしい」
「そんなの答えなければいいでしょ」
「だったら裏で調べるという感じだった。もちろん、優奈達が原因だって答える訳にもいかない」
「それで、何て答えたの?」
「まだ答えてない。だけど次に聞かれたら『七原の力を排除する為に』と答えるつもりだよ。七原も口裏を合わせる事に同意してくれたから」
「何で実桜さんなの?」
「俺の周りに七原以上に機転が利く奴はいないだろ。こんな事を引き受けてくれるのも七原くらいのもんだ」
「まあ、そうかもね……でも、そんな事までやるんだ?」
「ああ、何でもやるし。何でもやるしかない。これも全部優奈の為だからな」
「そんな事をして私が喜ぶと思う?」
「そうも言ってられないんだよ。これからもっと厳しい状況になる。その排除能力者は俺の事を不審に思っている。だから何としてでも騙しきらないといけない」
「……出来るの?」
「ああ。この事態は絶対に乗り切れるはずだ。乗り切って見せる。その排除能力者も種々の事が解決したら、この街から去ると言っている。それまでの辛抱だよ」
「希望もあるんだ……」
「そうだよ。だから優奈が心配する事は無いんだ。今までのように目立たないようにしていれば、恐れてるような事は起きない」
「だけど、いよいよ排除能力者が現れたってなると、どこかに隠れるべきかもしれない……」
「やめておけ。さっきも言った通り、情報提供者がいる。今、学校から消えれば、岩淵はお前らを怪しいと思うだろう。追跡される可能性もある」
「じゃあ、どうしろっていうの?」
「俺を信用しろ。お前の味方なんて結局俺だけだからな。俺の言う通りにしておけばいい」
「……そう」
優奈の瞳がゆらゆらと揺れ動く。
自分の嘘に息が詰まりそうだ。
それでも七原だけは本当の事を知ってくれている――それが俺の救いだった。
「不安になったら、また来れば良いよ。ただ、俺と会う事にリスクがあるってのは覚えておいてくれ」
「わかった――つくづく、あんたが普通の排除能力者じゃなくて本当に良かったって思う」
「俺はいつだって優奈が第一だからな」
「でも、いつ裏切るか分からないから、それが恐い。あんたは人との約束を守る事を優先しないでしょ」
「そんな事はねえよ」
「どうかな……今は、あんたが排除能力者を遠ざけてくれている。でも、いつかは私達の力を排除しないといけない時が来る……そうなんでしょ?」
「確かに、いつかはそんな時が来るかもしれないな。でも俺は最後の最後まで、お前達が他の排除能力者に排除されないように守り続けるつもりでいるよ」
「どうだか……まあ、わかったよ。何が起きてるか確認できたら、それでいい」
優奈はそう言って部屋を出て行った。
ドアが閉められた後、鍵を締める音も聞こえた。
俺が疲れている事に気付いて早めに切り上げてくれたのだろう。
あんなのでも、気が利かないという訳ではないのだ。
「未来を見る能力か……」
誰もいなくなった部屋で呟く。
例え玖墨が本当に未来を見る力を持つ能力者だったとしても、どうでもよかった。
俺が知りたいのは過去なのだ。
今この街で何が起きているのか?
それは何に起因するものなのか?
それを突き止めなければ、優奈達の件は解決に至らないだろう。
司崎が稼いでいた金は、玖墨の生活費に消えていただけなのか。
それとも、何かの資金になっていたのか。
真相は闇の中である。
他にも気になる事がある――元市長の孫娘である陸浦一華である。
七原の勘が鋭い分、本心を隠すのが癖になっていて、ついついしらばっくれてしまったが、俺も陸浦栄一という名前を聞いた事があるし、彼に興味を持っている。
収賄事件後に失踪した陸浦栄一は今どこにいるのか。
彼もまた能力者だったのか。
陸浦一華は祖父の居場所を知っているのか。
まあ、今更何を言っても無駄だ。
ミツヤ達もまた俺の敵である。自分の思い通りに動いて貰えるなんて思ってはいけない。
取り敢えず明日以降をどう乗り切って行くべきか。それを考えてなくてはいけないだろう。
今はまだ、七原に言えてない事もある。
優奈達の能力を巡る重すぎる現実。
そして、俺が優奈達に何をやろうとしているのか。
それを知ったら、七原は俺を許せるのだろうか。
そんな事を考えていると、どこまでも気持ちが沈んでいくのである。




