中谷
「で、戸山君。戸山君には一つ聞いておかないといけない事があるんだけど」
と、七原。
「何だよ?」
「さっき優奈ちゃんがハーレムを作る計画があるとか言ってたけど、あれは何?」
早瀬や樋口の話は見逃してくれるが、ハーレムの話は見逃してくれないようだ。
あの発言は、七原に関わるものだっただけに、追求されてしまうと非常に不味い。
しかし、黙り込んでしまっても駄目だ。何かを言わないと――
「人生一度はハーレムってものを作ってみたいなって話をしただけだよ」
「何で、そんな真っ直ぐな目で、そんな事が言えるのよ」
七原が突っ込む。
「実際、男の三分の二はハーレムを作りたいと考えているらしいよ」
「誰が何の為に採ったデータなのよ。まあ、結構リアルな数字だと思うけど……本当、男の人って意味が分からない」
「別に分かって貰おうなんて思ってないよ」
「だから、何でそんなシリアスな顔なのよ……っていうか、普段優奈ちゃんとどんなこと話してるの?」
「ハーレムの話が主だな」
「おかしいでしょ」
ふと横と見ると、雪嶋が距離を取って微妙な顔をしている。
「全然、会話に入る隙が無いんだけど」
すると、隣の遠田も。
「そうなんですよ。この二人が喋り始めたら、一気に外野に押しやられるんです。私は何度もこの被害を受けてますから」
そんな無駄話をしている内に、目的の店の前に辿り着く。
「今度は多分いるよ。じゃあ、行ってくるから」
と言って、店に入っていった雪嶋は中々出てこなかった。
おそらく中谷がいたという事なのだろうと思って、出入り口をじっと見守っていると、雪嶋が中谷を引っ張るようにして連れ出て来る。
「中谷さん、こっち」
「ああ。わかったよ、エリカちゃん。で、会わせたい人って誰?」
『エリカちゃん?』と思うが、雪嶋はバイト先でエリカと名乗っているという事なのだろう。
「中谷先生、こんばんは」
「ああ、お前は早瀬先生のクラスの……何て名前だったけな? 問題を起こした奴だろ?」
「戸山望です。あの件は冤罪ですから」
「冤罪? ああ、確かそうだったかもしれねえけど」
「ちょっと話をさせて頂きたい事がありまして。ここで話すのもなんですから、あっちの方へ行きましょう」
店の前で話していると目立つので、ビルとビルの間の路地へと移動する事にした。
少し近寄っただけで、中谷からアルコールのキツい臭いが漂ってくる。
中谷はベロベロの状態だった。
「ところで、先生。メールは見ました?」
「メール?」
「岩淵先生からのメールです」
岩淵の名前が出ると、中谷は背筋をピンと伸ばした。
「ブチから? マジか」
身体中をぽんぽんと叩きながら、「どこだろう?」と携帯を探す。
ジャージとタンクトップだから、携帯が入りそうな所なんて二つのポケットしかないだろうと思うが――まあ、それが酔っ払いというものなのだろう。
携帯を取り出した中谷は、指紋認証でロックを解除する。
「……ああ、やばいな。着信が鬼ほど入ってる。メールも来てるな。えーと、ブチからは……ああ、これか……うん? ここに電話をして、早瀬先生の事を話せって? どういう事だ?」
中谷が画面をタップすると、俺の携帯が振動を始めた。
その携帯を中谷に見せる。
「その番号は僕の携帯番号です。話せば長い話なんですけど――司崎先生と早瀬先生の件について聞きたくて、最初、岩淵先生に電話したんですよ。そうしたら、岩淵先生はあまり詳しく知らなくて、中谷先生がこの件に詳しいというので、中谷先生に代わって頂けないですかと頼んだんです。でも、中谷先生は体調が悪くて帰られたって事だった。だから、岩淵先生にメールをして貰ったんです。それがそのメールですよ」
「なるほどな」
「でも、中谷先生が中々電話を下さらないので困ってたんです。そうしたら、エリカさんが中谷先生の行きつけの店を知ってると言ったので、もしかしてと思って連れて来て貰ったって訳です」
雪嶋が『エリカ』と名乗ってるならと、ここはエリカで通す事にした。
「なるほど。それでエリカちゃんと来たのか」
「詳しい事情を聞かせて貰えませんか?」
「何のだ?」
「司崎先生と早瀬先生が不倫へと至った経緯です。中谷先生は司崎先生の相談を受けられていたと聞いたので」
「経緯か……」
中谷は渋い顔をする。
「お願いします」
「それは出来ない。お前にそれを語るつもりは無い」
「何故ですか?」
「何故も何も無い。話したくないからだ。もう遅い時間だし、家に帰りなさい」
中谷は頑として考えを変えないといった表情だ。
まあ、これが普通の対応なのかもしれない。
岩淵の方がベラベラと喋りすぎなのだ、あんなにも取っつきづらい感じなのに。
「事情を聞いて下さい」
「事情なんて聞かない。聞いたって変わらないぞ。何があろうと話さない。お前が帰らないのなら、俺が帰る」
「待って下さい」
「仮病を使って、ここで俺が飲んでた事をブチに報告したって構わない。それでも俺は話さないから」
まだ、その話もしていないのだが、先回りされてしまった。
「何故ですか? 何故、言えないんですか?」
「オッサンが一人、不倫してノイローゼになって、仕事を辞めたってだけの話だ。そんな話をして何が楽しいんだよ?」
確かに正論である。
俺も司崎の話じゃなかったら、一ミリも興味は湧かなかっただろう。
しかし、これは能力者の司崎の話なのだ。何が何でも聞き出さなければならない。
「早瀬先生の為なんです。早瀬先生は――」
「聞かないって言ってるだろ」
中谷が俺の話を遮った。
本当に全く聞くつもりが無いらしい。
これは、どうするべきだろう……。
そう思ってると、雪嶋が口を開く。
「中谷さん、お願い。話して」
「うん? エリカちゃんも司崎の話が聞きたいのか?」
雪嶋が頷くと、『あれ?』というくらい、中谷の表情が緩む。
「エリカちゃんが言うなら仕方ないな。話してあげよう」
『おい!』とは思うが、口には出すべきじゃないだろう。
「本当に?」
「ああ、本当だよ。じゃあ、二人で飲み直そう。何だって質問に答えるよ」
中谷が店に戻ろうとする――それを雪嶋が引き止めた。
「待って。それは駄目。戸山君達は入れないし」
「じゃあ言えないな。絶対に言わない」
……なるほど。『俺』だから話したくないという事なのだ。
早瀬が学校に来なくなったのも、あの件の次の日からだから、俺に猜疑心を抱いているのだろう。
「お願い、中谷さん」
「無理無理。それなら、今日の所は帰るよ。また店に顔出すから」
「ちょっと待って下さい、中谷先生。お願いします。話を聞かせて下さい」
今度は七原が中谷を引き止めた。
七原も俺と同じで、俺の所為で中谷が話さないと考えたのだろう――俺をさっと後ろの押しのけ、前に出る。
「うーん。でも、なあ……」
「先生だけが頼りなんですよ。これには深い事情がありまして」
七原は、これでもかというくらいの猫撫で声を出した。
中谷はまんざらでも無いという顔である。
泥酔してる事も相まって、あと一押しという所のようだ。
それを見て、俺は遠田に目線を送る。
『私もか?』という顔をするが、遠田なら十分な効力を発揮するだろう。
遠田は渋々といった感じで口を開く。
「先生、お願いします。頼れる人が先生以外にいないんです」
「お、何だ何だ? 君も俺に頼みたいのか。いいね。もう一回言ってくれ」
「頼れる人が先生以外にいないんです」
「んー。そうかそうか。俺しか頼れないか。なんかいいな、これ。ハーレムみたいだ……って、急にそんなシラッとした目で見るなよ。確かに今のはセクハラかもしれない。悪かったよ。でも、仕方ないだろ。男ってのはそういうもんなんだ。男の三分の二はハーレムを求めてるからな」
七原が「何で、そんなところでシンクロしてるのよ」と小さく呟いた後、俺に視線を送ってくる。
その表情から読み取るに、ここからは任せろということなのだろう。
俺は一歩引く事にした。
七原なら俺が聞きたい事を聞いてくれるはずである。七原がいてくれて本当に良かった。
「中谷先生、実は私、早瀬先生の従妹なんですよ。で、早瀬先生の主治医の樋口先生って人と話したんですけど、その人が言うには、繭香お姉ちゃんは、今もあの不倫の件で悩んでいるらしくて、繭香お姉ちゃんの問題解決の為には、その経緯を知る必要があるらしいんです。それで樋口先生に頼まれて、調べる事になったんです」
「そうだったのか……それを早く言ってくれよ」
聞く耳を持ってなかったじゃねえかと思うが、口にはしない。
七原も従妹だと名乗った事で、血縁関係が急に込み入って来て、後で追求される確率が上がったが、それもこの際、仕方がないだろう。
「聞かせていただけますか?」
「わかったよ。だが、俺が喋ったとは言わないでくれよ。早瀬先生に嫌われたくないからな」
……なるほど。
中谷が早瀬に好意を持っているという事も、喋るのを渋っていた理由のようである。
思い返せば、あの時、指導室にいたのは早瀬に媚びる為だったのだなと思う。そういう私情が持ち込まれていたのだ。まあ、そんな事はどうでも良い事だが。
「もちろん。中谷先生から聞いたって事は絶対に言いません」
「そうか。じゃあ、君を信じるよ。えーと、君は?」
「七原実桜と申します」
「そうか。七原を信じるよ。七原は信じる。だが、後の奴は……」
「大丈夫です。戸山君にも、ちゃんと約束を守らせますから」
「本当か?」
「はい」
「……わかったよ。仕方ないから、話すよ。あんまりごねるのもダサいからな」
「ありがとうございます。じゃあ、司崎先生の事を聞いてもいいですか?」
「ああ、もう辞めた奴の話くらいなら何でも話してやるよ。しかし、司崎の事なんて、大した話は無いぞ。クソ真面目で本当につまらない奴だったからな」
「真面目ですか……」
真面目か……またも真面目という話である。
雪嶋も岩淵も皆、司崎が真面目だという話をする。
しかし、七原も首を傾げてるように、俺達がそれに納得できないのは、受験直前の小深山兄への電話で、暴言を吐いたという話を聞いているからだ。
真面目な人間が、たとえ玖墨に強要されたとしても、そんな事をするだろうか?
「ああ、あいつはどこまでもクソ真面目で小心者なんだ」
「今までに司崎先生が荒っぽい言葉を使ったって事は無かったですか?」
「俺の知る限り、一回もないよ。あいつとは何度も飲みに行ったが、どんだけ酔っ払っても、あいつはずっとあのままだった」
「……そうですか」
となれば、小深山兄への電話での暴言は本当に何なんだろうか?
電話で声だけだから、別人だったってことも考えられなくはないが、そんなに都合良く声が似てる人間が見つかるとも思えない……。
「七原、何か気になる事があるのか?」
「いえ、大丈夫です、中谷先生。司崎先生の話を続けて下さい」
「ああ、わかったよ――司崎は本当に小心者でな。いつも細かい事でグズグズ悩んでたよ。何をするにしてもトロくて……だけどブチや他の教師からは評価が高かったな。俺よりもずっと高かった。俺からすれば信じられない話だったよ。しかも、ムカつくのは、あいつは何故か女と縁があるんだ。本当に不思議だよ。あんなののどこがいいんだろうな……って、エリカちゃん、どうかした? そんな恐い顔して」
「あ、別に何でも無いから……」
おそらく、司崎の事を悪く言われて、どうしようもなく腹が立っているのだろう。
雪嶋にしては、よくビンタを堪えたと思う。
「エリカちゃん、心配しなくても大丈夫だよ。俺は別に司崎の事を羨ましがってないから。俺はエリカちゃんと縁があればいいんだよ。本当は毎日でも店に――」
「そうだね。来て欲しい。だけど今は七原さんや早瀬さんの為に司崎先生の話をして」
「わかったよ」
こんなのを見せられると、雪嶋の仕事は本当に大変だと思う。
「で……何の話をしてたっけな」
「司崎先生が女性と縁があるって話です」
「ああ、そうだな。そうだった。司崎は女と縁があるけど、女運は悪かったんだよ」
「どういう事ですか?」
「何年前だったか、あいつは学校事務の女の子と結婚したんだ。俺も狙ってた子だったから、何で司崎なんか選んだんだって思ったりもしたんだけど、それが相当な貧乏クジだったみたいでな」
「貧乏クジ?」
「ああ、司崎も結婚当初は幸せそうにしてた。だけど、月日が経つにつれ、段々と奥さんのメッキが剥がれていったらしいんだ。奥さんは仕事を辞めて主婦になったんだが、家事のウエートがどんどん司崎に移っていって、全部司崎がやらされるようになったそうだよ。仕事を終えて帰った後、食事の準備、掃除、洗濯だ。残業が長引いた日でも、そんなのが待ってる。司崎がどんなにあくせく働いても、奥さんはずっとダラダラしていて何もしなかった。それで、司崎が少しでも休むと、叱責されたらしい。それが司崎の生活だったんだよ――生活だ。終わりなんて無くて、それが毎日毎日続くんだ。俺だったら即離婚してただろうな。しかし、司崎は優柔不断な上、我慢強かった。ある意味尊敬するよ」
「そうだったんだ……司崎先生は奥さんの事を一度も悪く言っていなかったし、上手くいってるものだと思ってた」
中谷が一瞬『うん?』という顔をするが、七原が「って話を、司崎先生のクラスの生徒から聞いたんですよね? エリカさん」とフォローした。
「ああ、そういう事か――そうなんだよ。そういう所がまた司崎のクソ真面目な所なんだよ。司崎は絶対に人の事を悪く言わない。でも、よくよく聞いてみると、そんな話が出てきたりする」
「そうなんですか……」
「ああ。そんな感じでの結婚生活で、司崎が一番、許容できなかったのは子供の事だったらしい」
「子供って?」
「司崎は子供が欲しかったんだ。まあ家庭を作るって事は普通そういう事だと思うよな。だが、奥さんはそうじゃなかった。奥さんは結婚前、『子供が好き』とか『子供は二人が理想』とか言ってたらしいんだが、結婚後は『他人の子供は好きだけど、自分の子供を育てるのは嫌だ』とか、『理想は語ったが、子供を作ると約束した訳じゃない』とか言ったらしい。さすがの司崎も、それには納得できずに、抗議したらしいんだが、奥さんは『私が結婚してあげたんだから、あんたが合わせるべき』とか言って、それ以降は全く取り合わなかったらしい」
「そんな感じなのに、司崎先生は離婚しようと思わなかったんですか?」
「さあ。そこは俺が聞いても、はぐらかされたな。もしかしたら、離婚しようとしても出来なかったのかもしれない」
「どういうことですか?」
「司崎の腕に痣があったんだよ」
「痣?」
雪嶋の顔が曇っていく。
「司崎は打つけただけって言ってたけど、二の腕の内側だぞ。そんなもん何をどうやって打つけるんだよって位置だった」
「家庭内暴力があったってことですね」
「まあ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だが、聞くところによると、奥さん、格闘技を囓ってたみたいでな。気性が激しい一面もあったらしい――まあ、本当の所はどうだか分からない。そればっかりは聞き出す事が出来なかったからな。俺は間違いないと思ってるが」
「そんな事をされているのに司崎先生は誰にも言わなかったんですか……」
「ああ。言えなかったんだと思う。言えないよ。奥さんに暴力を振るわれてるなんて、男として情けなくて」
雪嶋が俯く。
その顔は泣き出しそうに見えた。
「今思うと、司崎の奥さんは真面目で小心者の司崎が自分の思い通りになると思って、司崎を選んだんだろうなと思う。一生自堕落に生きていくつもりだから、司崎じゃなきゃいけなかった。だから、俺じゃなかったんだよ」




