84.ビアンカを、お願いします。
「大変ですわ、アウラリーサ様!」
ある日の休み時間。教室へ駆けこんできたのは、Cクラスにいる顔見知りの令嬢だった。
特に親しいわけではないが、顔を合わせれば挨拶を交わす程度の仲だ。
「アネット様? そんなに慌ててどうなさったの?」
「ビアンカ様が階段からっ!」
息も切れ切れに伝えてくれた言葉に、私は凍り付いた。
ゲームや小説では、しばしば登場するこのフレーズ。
なのに、実際にその言葉を聞くと、血の気が引いてくる。
「階段……どちらの階段ですの!? ビアンカは!?」
私とアネット様の様子に、クラスの皆が駆け寄ってくる。
「西階段の……っ。アイザック殿下が、救護室へとお連れになったのですが……。わたくし、アウラリーサ様に、お伝えしなくてはって、それで……っ」
今にも泣きだしそうなアネット様を置いて駆け出した。
まさか。まさか。まさか。
誰かに、突き落とされた? 物語の、一コマのように?
嫌な考えが頭の中を埋め尽くしていく。
周囲の驚いた顔も無視して、走る、走る。
廊下の角を曲がると、救護室の前に、ヴァルターが控えていた。
「ヴァルター様っ!」
「アウラリーサ嬢……!」
小走りに、ヴァルター様も私の方へと駆け寄ってくれる。
「ビアンカが、階段、おちた、って……っ」
「ああ。今、殿下が付き添っている。――大きな怪我は無いけれど、頭を打ってるって医師が……。気を失っていて、まだ目を覚まさないんだ。俺が付いていながら、申し訳ない……」
「っ!」
私はヴァルター様を押しのけて、救護室に飛び込んだ。
シン、と静まり返った部屋。
白い、風に揺れるカーテン。
薬品の匂い。
白い看護服に身を包んだ女医が顔を上げた。
傍に付き添っていたアイザック殿下の表情は暗く、悔し気に唇を嚙みしめている。
「ビアンカは……。妹の、容体は……」
「まだ意識を取り戻さないわ。打ち身と擦り傷は、大したことが無かったのだけれど……」
「――誰かに、落とされたんだ」
ぼそ、と低い声で、アイザック殿下が呟いた。
「休憩時間に、ビアンカが……。西の温室で、珍しい花が咲いたらしいって、だから、見に行こうって……。花を見て、少しお茶を飲みながら話をして……。休憩時間が終わるからと、教室に戻ろうとしたんだ。西階段を上がっていて……。そうしたら……。ビアンカの横を駆け上がっていったヤツだと思う。いきなり、後ろから誰かに引かれたみたいに、ビアンカが後ろに倒れこんだんだ。慌てて手を伸ばしたけれど、間に合わなくて……」
「顔は……見て、居ませんの? 誰か目撃者は?!」
「女生徒だった。茶色い髪の……。ビアンカの事でいっぱいになって、そっちに意識が向かなくなってた。ヴァルターも一緒だったんだけど、彼もすぐに私と一緒に階段を駆け下りたから、その女の事は、しっかりと見ていないと言っていた。ただ、こっちも顔は見られなかったんだが、誰か……女生徒が、そいつを追いかけて駆け抜けて行ったんだ」
女生徒――。
茶色い、髪。ありがちな。だけど、真っ先に浮かんだのは、ネイド・シラーに命じてアイザック殿下の不評を流したり、シャーリィを閉じ込めたという、女だった。
あれから、何日も経つというのに。また、動き出したというの?
それとも、別の女?
紙のように、血の気の無い白い顔。頬にうっすらと残る擦り傷。頭に巻かれた包帯が痛々しい。
やっとここまで来たのに。ビアンカは、本当に努力をしていたのに。
「許せない……。許せないわ!! とっつかまえてやる!」
怒りで飛び出しそうになった私の腕を、アイザック殿下が掴んで引き留める。
「ビアンカはこのまま王宮に連れて行く。直ぐに迎えが来る。大丈夫。うちの医師団は優秀だ。知ってるだろう?」
まるで、自分に言い聞かせるみたいに。
視線はビアンカを見つめたまま。
「姉のお前が許せないのはわかる。私だって許しはしない。私の唯一に手を出した報いは、何が何でも受けて貰う。メルディアの名にかけて、必ず探し出してやる」
静かな、でも、こんな風に怒るアイザック殿下を見たのは、初めてだ。
気づいたら、アイザック殿下の身長は、私よりも高くなっていた。
声変わりが始まったばかりの、少し掠れた声。
大人びた口調。静かな怒り。
ふ、と私の力が抜ける。
アイザック殿下は、視線をゆっくり私に向けた。私の両肩をぐっと掴み、まっすぐに、私の目を射抜いてくる。
「アウラリーサ。私はビアンカの傍を離れるわけにいかない。無論私も調査をする。学園で起こった事件だが、落とされたのは次期王妃だ。王宮からも、調査の手は入るだろう。だが、どうせただ待つなど、お前には出来やしないだろう? なら、調査に協力しろ。怒りで闇雲に突っ走るな。冷静になれ。あの女を追いかけて行った女生徒をまずは探せ。他の目撃者を探せ。ビアンカに西の温室の事を伝えたのは誰だ? ――調べることは、山ほどある。……やれるか?」
「……やります」
そうだ。相手が誰かもわからないのに、西階段に向かったって、その女は居ないんだ。
私もアイザック殿下の目を、まっすぐに見つめ返した。
「必ず、探し出します。だから……。ビアンカを、お願いします!」
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