消えてしまいたい
「 ブライアン!! バーバラを呼べ! 」
「 御意!」
ルシオが命じる前に異変に気付いたブライアンは、既に御者に馬車を止めるように指示していた。
急な馬車の停止に、異変を察した騎士達が馬車の周りに集まって来た。
騎乗したままで。
「 殿下!? 何か問題でも? 」
「 ドアは開けるな! 今、ブライアンにバーバラを呼びに行かせた!何人かに桶に水を汲んで来るように言ってくれ! 」
「 御意! 」
騎士達が馬から降りて、後方の馬車に向かって駆けて行く。
桶は荷物が入った馬車の中にあるので。
騎士達とすれ違うように、ブライアンから殿下が呼んでいると言われたバーバラが駆け付けて来た。
すこし遅れて、荷物を持ったサマンサ達が馬車から飛び降りて来た。
手にはタオルや救急箱、水の入った水差しとコップが入った木箱を持っている。
緊急事態だ。
何があったのかはまだ分からないが……
直ぐに対処出来るようにと、考え得る全ての事に備えて持って来ているのである。
ブライアンは毛布を持たされていた。
カールや侍従達も異変を感じて馬車から降りて来ていて、辺りは騒然となった。
「 殿下! バーバラです! 何かございましたか? 」
「 早く! 馬車の中へ 」
扉の前にいた御者がドアを開けると、そこには驚くべき光景がバーバラの目に飛び込んで来た。
窓は開けられていたが、据えたような酸っぱい臭いが馬車の中にあった。
そして……
真っ青な顔で口を押さえているソアラと、その前で中腰になって両手を合わせているルシオがいた。
ルシオの手の中には黄色のドロッとしたものが。
ソアラは口を押さえながら涙を滲ませてバーバラを見て来た。
ソアラ様が嘔吐したのだ。
バーバラは瞬時にこの状況を理解した。
「 ソアラ様。 もう、大丈夫ですよ。殿下は外で手を洗って来て下さい! 」
「 ………ソアラを頼む 」
ルシオが馬車から降りるとバーバラが馬車に乗り込んで来た。
「 吐き気は収まりましたか? 」
口を押さえているソアラはコクリと頷いた。
バーバラは自分のハンカチを取り出して、ソアラの口や手をやさしく拭きながら、馬車の中をキョロキョロと見渡した。
ルシオが吐瀉物を受け止めたから、幸いにも馬車の中は無事だった。
ソアラのドレスは汚れてしまったが。
「 私……殿下に……殿下に…… 」
「 殿下は大丈夫ですよ。ソアラ様も外に出て手を洗って……口もすすぎましょう 」
吐瀉物が残っていると、更に気持ち悪くなったりしますからねと言って。
バーバラに抱えられてソアラが馬車から降りると、ルシオが桶で手を洗っていた。
騎士達は既に川の水を汲んで来ていて。
ここは深い林の中だから民家などは無い事から、井戸も無かった。
近くに川があっただけでもラッキーだった。
その横では、サマンサ達が持って来た持ち物を木箱から取り出している所であった。
ルシオの横にはルーナがいて。
タオルを手に持って立っている。
木箱の中からタオルを取り出して。
ルーナはルシオが馬車から降りた時に……
反対側のドアから降りていたのだった。
ルーナからタオルを受け取り、手を拭った後にソアラに気付いたルシオは、ソアラの元に駆け寄って来た。
「 ソアラ……大丈夫か? 」
ルシオがソアラに手を伸ばして来たのを、ソアラは後ろに下がってかわした。
今、私は汚い。
そして……
私は殿下にゲボを掛けてしまった。
我が国の王太子殿下に。
麗しのルシオ王子様に。
どうしたら良いの?
ソアラは泣きそうになるのをぐっと堪えた。
「 水で口をすすいだらすっきりするわ 」
その時、ルーナが水の入ったコップをソアラに差し出して来た。
フワリとルーナの香水の香りがする。
バニラのような甘い香り。
「 オエッ 」
ソアラはまた嘔吐いた。
片掌を口に当てて必死に吐くのを我慢するが。
「 オエッ! 」
やはり吐いてしまった。
「 まあ!? まだ吐き気は収まらないのね? 可哀想に…… 」
ルーナはそう言って少し後ろに下がった。
吐瀉物が掛からないように。
「 我慢しないで……全部吐いたら楽になる 」
踞りながら嘔吐するソアラの背中を、ルシオは跪いてさすり出した。
背中にあるルシオの手が優しくて。
そして……
コップを持ったルーナがその様子を見ている。
もう……
消えてしまいたい。
こんな情けない姿の自分がたまらなく惨めだった。
***
身体も心も鉛のように重かった。
「 殿下……申し訳ありません 」
「 もう、謝らなくて良いから。そこに横になっていなさい 」
何度も何度も謝るソアラに、ルシオは馬車の椅子の上で寝るようにと言った。
王族の馬車は車輪が普通の馬車よりも大きく作られている事から、揺れも少なく椅子はソファーのように広く大きくフカフカだ。
宿までにはまだ距離があるから、少しでもソアラの身体を楽にさせたいと思って。
「 もう大丈夫ですから…… 」
ソアラはルシオが寝るように言っても頑として受付無かった。
しかし、そうは言っても……
暫くするとコックリコックリと船を漕いでいる状態になるのだ。
可愛らしいからこのまま見ていたいが、やはり身体を休めさせなければ。
「 早くそのクッションの上に横にならないと、僕が膝枕をするよ 」
ルシオはそう言って自分の膝をパンパンと叩いた。
「 !? 」
ソアラは慌てて上半身を倒した。
頭をクッションの上に乗せて。
「 じゃあ、横になるだけ…… 」
実はもう限界だったのだ。
駄目だわ。
瞼が重い。
もう……
眠くて仕方が無い。
頭すら動かせない。
「 殿下…… 」
「 ん? 」
「 寝顔を……見ないで下さいね 」
ソアラはクッションに顔を埋めながら、トローンとした瞳でルシオを見つめている。
「 僕は今から本を読むから、君は早く寝なさい 」
ルシオはクスリと笑って、横に置いてあった本を手にした。
暫くは本を読んでいた。
いや、読む振りをしていた。
本越しにソアラを見やれば……
直ぐに瞼を閉じてスヤスヤと寝息を立て始めた。
良かった。
眠ってくれた。
可哀想に。
しんどかっただろうに。
あの後、状況を見ていたカールからは……
「 もしかして妊娠?……ソアラ嬢に手を出したのですか?いつの間に?……痛い…… 」
「 そんな訳あるかっ! 」
ルシオはカールの頭に拳骨を食らわした。
キスだって1回しかしていないと言うのに。
それも触れただけの口付けだ。
旅が始まってからは……
移動の時間には寝ても良いと何度も言っていたが、ソアラは寝る事は無かった。
「 殿下の前でそのような所為は出来ません 」と言って。
ソアラの寝顔を見るのは初めてだ。
いや、ルシオは女性の寝顔を見るのも初めてなのである。
なんて可愛い生き物なんだろう。
こんなに無防備に自分の前で眠るソアラが愛しくてたまらない。
ソアラは……
王太子である自分には考えられない事を経験させてくれる。
ルシオはソアラの寝顔を見ながら、この日にあった事を思い返していた。
急にガタガタと震え出したソアラに、どうして良いか分からなくて、気がついたらソアラの吐瀉物を受け止めていた。
少しも嫌では無かった。
それよりも心配で心配でたまらなかった。
心が痛い程に。
僕の婚約者。
僕の妃。
僕の妻になるソアラ。
ルシオはソアラの前に跪いて、その白い頬にそっと唇を寄せた。
いつの間にか……
こんなにも大切な存在になっている。
アメリアやリリアベルと結婚しても、大切にするつもりでいた。
しかし……
きっと彼女達にはこんな想いは抱かなかっただろう。
可愛い僕のお嫁さん。
ルシオはソアラを頬を指でつついた。
その時……
ソアラの目がパチリと開いた。
いきなり。
「 !? 」
「 ……… 殿下? 」
目の前にはルシオの美しい顔がアップであった。
ソアラはガバッと状態を起き上がらせると、真っ赤になってルシオを睨み付けて来た。
「 女性の寝顔を……こんな近くで……殿方が…… 」
口がパクパクとして。
「 顔を見ないで下さいと、言ったでは無いですか! 」
ましてやこんな至近距離で見られていたなんて。
鼾をかいていたら?
寝言を言っていたら?
いや、そもそもこんな狭い馬車の中で寝るんじゃ無かった。
つい、睡魔に負けて……
クッションの誘惑に負けて眠ってしまった。
もしも寝っ屁なんかをしていたとしたら……
うううっ……
恥ずかしくて消えてしまいたい。
ソアラは顔を両手で覆った。
「 ごめん、ごめん…… 君の寝顔があまりにも可愛かったから…… 」
「 か……可愛いとか止めて下さい! 」
顔を真っ赤にして……
顔を両手で隠して、首をブンブンと横に振るソアラを見てルシオは安心した。
良かった。
ソアラが少し元気だ。
明日には……
いよいよビクトリア王太后のいる離宮に到着をする事になる。




