伍 『ケンケン様』 6/7
◆
時刻は午前零時半。俺は部屋で一人、ヨガをしながら悶々としていた。
インドにはカーマ・スートラという性愛に関する本が昔からある。
その道の造詣は世界のどこよりも深いインドが編み出したこのトレーニング方法こそ、性愛の快感を高める奥義なのである。
究めると陰茎から水を吸うこともできるとかできないとか。
たぶん嘘だが。
普段ヨガなどしないにもかかわらず、これほど常軌を逸した行動をとってしまうのも致しかたのないことなのだ。
なぜなら俺はまだ若い。
人生経験というか、体験人数が乏しい俺がこんな唐突な展開に緊張してしまうのはしようのないことだ。
俺は露天風呂でのしのぶさんの体の柔らかさを思い出しては、精神統一からはほど遠い妄想を脳内に駆けめぐらせていた。
俺のテンションも妄想も最高潮に達していたそのとき、部屋にレッドツェッペリンの『immigrant song』が流れ出す。
ロバートプラントのターザンのような雄叫びに俺は驚いた。
なんということはない携帯の着信音なのだがそこは別にいい。
問題なのは、この曲がかかるということはつまり、井上さんか由花子さんの二人のどちらかから連絡がきているということを意味していることだ。
携帯の待ち受けを見てみると案の定、井上さんだった。
由花子さんがばらしたのかどうかわからないが、たぶんこれ関係のことだろう。
別にばれても井上さんが死ぬ気で妨害してくることはおそらくないとは思うが、それでもやはり電話をとりづらい。
散々迷ったあげく、五回目の着信で俺は電話に出る。
「もしもし。いやー抜け駆けみたいなことになっちゃってすいま――」
「康一か? 何を言ってるのかわからんがすぐにその家から出るんだ!」
井上さんは怒っているでも、僻んでいるのでもなく、ただ真剣に俺にそう訴える。
一体どうしたというのか。
「なんでですか?」
「なんでもさってもねぇ! 後で説明してやるからとにかくその家から荷物を持ってあの神社のところまで来い!」
「なにかあったんですか?」
「くわしくは後で説明するから! いいか。大丈夫だとは思うが絶対に誰にも見つからずにここまで来いよ! じゃあな!」
一方的に電話が切れると、部屋にはさっきまでの浮かれた空気は微塵もなくなっていた。
これは俺を騙そうとしているわけではない。
井上さんの様子はこれが嘘ではなく本気だということを雄弁に語っていた。
俺はそーっと部屋から廊下をのぞく、電気はもう消されているのでそこには暗黒の空間が広がっていた。
音は何もなく、この家にいるのは俺だけなんじゃないかと思えるほどだった。
即行で準備をしてから俺は廊下をそっと歩く。
たまに床がきしむ音が俺を驚かせる。
廊下を歩いて玄関に出ようとするとなにか物音がすることに俺は気づく。
「……シュッ……シュッ」という断続的なその音は台所のほうからしていた。
そんなことをしている場合じゃないのはわかっているが、オカルトサークルで培った病的な好奇心がその物音の正体に俺を近づけさせる。
その台所では老婆が一人かがんでいた。
ボケているこのおばあさんのことなので、なにかしていてもおかしくはないのかもしれないが、その音の正体を知ったとき俺の背筋は凍った。
後姿しか見えないその老婆は黙々と鎌を研いでいるのだ。
機械的にただ「……シュッ……シュッ」という音だけが部屋に響いている。
あきらかに異常な光景だった。
俺は絶対に音を立てないようにしてその場から立ち去る。
ただの考えすぎで、本当はよくある徘徊にしか過ぎないかもしれないが、触らぬ神に祟りなしだ。
――ガタッ
なんということか。
振り返りざまに俺は廊下に飾ってあった額縁にぶつかってしまう。
俺はゆっくりとおばあさんのほうを確認する。
目が合った。
しかもおばあさんは普通にこちらを振り返っているのではない。
背筋をそらして顔を逆さにしながら俺のほうを無表情に見つめているのだ。
逆さの老婆の顔としばらく見つめあったのち、おばあさんは体勢を元に戻し、またもとの作業に戻った。
――シュッ……シュッ……
怖くなった俺は無言でその場から速やかに去る。
◆
玄関の扉を開けるときの音が予想以上に大きかったので、俺は不安になったがどうやら誰にも聞こえてはいないらしい。
使うとばれてしまいそうなので懐中電灯もなしに俺は進む。
空はいつのまにか雲に覆われ、月や星は見えない。
それにしてもあれはなんだったんだ?
ただボケていただけなのか。
つじつまの合う考え方はそれしかなかったが、それだけの理由で済ますにはあまりに不気味すぎた。
門を通り抜けて下に見える民家の灯りを確認すると、心細さがいくらか薄れる。
と思ったのも束の間。
ウォーンという野犬の遠吠えが聞こえてきて、俺はまた昼間の神社のことと夕食のしのぶさんの話を思い出す。
ケンケン様は夜な夜な人を襲う。
もしやそのことと井上さんが言っていたことはなにか関係があるのだろうか?
とにかく俺は神社までの道のりを歩くことにする。
ぽつぽつとある民家の灯りを頼りにして俺は進む。
そしてその途中で、俺は不自然なことに気がついた。
通り過ぎる民家のすべてに灯りがともっているのはなぜだ?
もう深夜といってもいい時間帯にもかかわらず、今まで通り過ぎてきた民家にはすべてまだ灯りがついていた。
ということは、住民はまだ起きているということだ。
おかしいだろ。
都会でもほとんどの人間が寝ているような時間帯に田舎の人たちが起きているなんてことがありえるだろうか?
窓から家の中の様子をのぞいてみたいところだったが、やはり何か恐ろしいのと、さっきの井上さんの電話のこともあり、俺はとにかく神社へと急いだ。
◆
森に入ると本格的になにも見えない暗闇に突入するのでさすがに懐中電灯をつけることにする。
森は懐中電灯で照らされている部分以外はまったくといっていいほど何も見えない。
その限られた視界の中で、俺は道に迷わないように気をつけながら山道を歩いていた。
だが、そのまましばらく歩いていると、何かが後ろからこちらに走ってくる音がした。
――タッタッタッタッタッ
こんな深夜に俺以外の人間が出歩くわけがないと思っていたが、近づいてくるうちにどうやらこれは気のせいではなく、本当に誰かが向こうから走ってきているらしい。
――タッタッタッタッタッ
誰だ?
というか変だ。
なんで懐中電灯もつけずに夜道を走っているんだ?
俺の場合は見つからないように来いという井上さんの指示を守っていたからだが、それも民家があるところまでだ。
これだけ暗い夜道だったら明かりをつけるのが普通だろう。
俺は歩調を早くするが、こちらにくるその音は確実に大きくなってきた。
周りには暗闇だけが広がっている。
するといきなり俺は草むらに引き込まれた。
「うわぁ!」
「しっ! 黙ってるんだ康一」
そこにいたのは由花子さんと井上さんだった。
井上さんは俺が持っていた懐中電灯の灯りを消してしまう。
暗闇がまた俺の目の前に現れたがもう大丈夫だ。
さっきまで不安で押しつぶされそうだった俺は、やっと合流できたことにほっとしてため息をつく。
「ほっとするのはまだ早いよ康一くん」
「何があったんですか?」
「後で説明する。いいから今は黙ってるんだ康一。なにか来るぞ」
――タッタッタッタッタッ
あの音がだんだんと近づいてくる。
俺たちは息を殺して草むらの中でそれから身を隠す。
はっきりと音が聞き取れるようになったとき、それは俺たちの近くで止まった。
だがあまりに暗いのでそれの正体がなんなのかはさっぱりわからない。
それはなかなかその場から去ろうとしないで、うろうろと俺たちがいるあたりを歩きまわっていた。
そして、ウォーンという遠吠えをした。
そうしてからしばらくすると、どこからともなくまたあの何かが走ってくる音が大量に聞こえてくる。
俺はその不気味さから今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。
俺たちはまんじりともせずに息をひそめて草むらの中に隠れていた。
十分か三十分か、はたまた一時間か、そのまま時間がどれくらい経ったかわからなくなってきたころ、ようやくそいつらはそこからじょじょにいなくなり始めた。
うろつく音が消えてからさらに様子を見て、俺たちは草むらから這い出る。
「なんだったんですか今の?」
「わからん!」
そんな力強く言われても困る。
「だってわからないんだからしょうがないだろ。そんなことより早く行くぞ康一」
「行くってどこにですか?」
「この村の外にだよ」
「えっ! どうしてですか?」
「だから説明は後だっつってんだろ」
あまりにも暗いのでまた懐中電灯のスイッチを入れようとすると、急に辺りが明るくなる。
雲のあいだから月明かりが漏れているようだ。
少しは周りが見えるようになったことで俺は安心する。
だがその月明かりに照らされて現れてきたものと、俺は目が合ってしまった。
五十メートルほどさきにいた彼らは、みんな手に鎌をもってこちらを無表情な顔で見つめている。
ざっと見ても十人以上はいるが、なぜ彼らがそこにいるのかわからない。
村人たちがそこに立っている理由が俺にはわからない。
俺たちから一番近くにいた豊大さんは、他の人と同様に鎌を持ち、表情を変えずにいきなりこちらへと走り出してきた。
「逃げるよ!」
由花子さんの声で俺たちは正気にもどる。
なにかわからないが、捕まったら大変なことになるという直感が俺にはあった。
死に物狂いで俺たちは山道を走る。
森からはどこからともなく、またウォーンという遠吠えが鳴り響いてくる。
なにがなにやらわからずに、俺たちはとにかく走った。
神社の階段の前まで来たところで後ろのほうを振り返ると、誰もついてきてはいなかった。
どうやら無事にまけたようだ。
荒くなった呼吸を俺たちはゆっくりと静める。
そのときだった。
「おい。康一。あれ……」
なにかに気づいたのか井上さんは階段のほうを指差した。
俺はその方向へと顔を向ける。
真上に月が見えるその階段の一番上には、しのぶさんが立っていた。
顔は薄暗くてよくわからなかったがその背格好や着ている和服からしのぶさん以外には考えられなかった。
「なんだしのぶさんか」と一瞬だけ思うが、やはりこんなところでこんな時間に一人で階段に立っているというのはやはり異常なことだった。
大声を出してたずねるわけにもいかない状況なので、俺は彼女に近づこうと階段に足をかける。
すると、しのぶさんは真上にある月を仰ぐように顔を天に向けたかと思うと、咆哮した。
――ウォーン
何が起きたか理解できなくなったのも束の間、月はまた雲に隠れ、何も見えない暗闇が俺たちを包んだ。
そして、その暗闇のそこかしこから、大量の遠吠えが俺たちを取り巻いた。
「早く! こっち!」
由花子さんはいち早く懐中電灯のスイッチを入れて俺たちを先導する。
俺は自分の懐中電灯で階段の上を照らそうとしたが、そこに現れてきたものとまた対峙しなければいけないということが、俺にその行動を止めさせた。
俺はとにかく一刻も早く、そこから逃げることにした。




