59.それはまるで、悪夢ような
多くの人が行き交う街中を抜けると、緩やかな勾配の坂道が現れる。ケトレアの王城はこの高台の上に建っているのだ。
道の両脇にはそれぞれ紅葉とイチョウの木が植えられており、赤と黄色の葉が木枯らしでヒラヒラ舞う景色は、前世ではよく目にした光景だ。
まさかこの世界でもう一度見られるとは思ってもみなかった。最初は単純に嬉しくてはしゃいだ気持ちで風景を楽しんでいた私だったけど、改めて秋の景色見ると、嬉しさと同時に、少しだけ胸につっかえるものがあるのも事実だ。
これを見ると、否応にも思い出してはしまったから。
過去の記憶を、思い出を。楽しかったことや辛かったこと、あの人との、切なくも甘い記憶がゆるりと頭の中を駆け巡って、理由もなく少しだけ泣きそうになった。
馬車の中は相変わらずダンベルト様が、とてもはしゃいだ声でレイン様がいかに素晴らしいかについて語っていた。はじめはそれにいちいち訂正を入れていたレイン様だったけど、結局意味がないと分かったのか、諦めて適当に相槌を打っていた。
秋は物悲しい、とか、アンニュイな気分になるっていうけど、全くもってその通りだと思う。
だから私には、大好きな友人を前に浮かれた気分ではしゃいでいるダンベルト様の様子はむしろありがたかった。少しは気分が紛れるから。
秋色の風景から目を離して馬車の中に視線を戻すと、ふとレイン様と目があった。
彼には、私が前世で暮らしていた日本という国には、この国と同様に紅葉があったことや、それが本当に好きだったってことも船旅の最中の他愛もない会話の中で口にしていた。
だからだろうか。
少し潤んでしまった私の瞳について、何も言わず、気付かないふりをしてくれた。
それからしばらくすると、平坦な道へと変わり、やがてゆっくりと馬車は停まった。
降車してから私達がまず真っ先に向かうのは、ケトレア現国王陛下――ザラン様のところだ。
大理石の床をコツコツと小気味のいい靴音を鳴らしながら、ダンベルト様の先導の元目的の地まで進む私達だったけど、近付くにつれて、あんなにさっきまで楽しそうにニコニコしていたダンベルト様の顔が少しずつ強張っていく。口数も少なくなり、表情がなくなっていくダンベルト様は話しかけるのが躊躇われるほど剣呑な雰囲気をまとっている。
けれど、私もレイン様もその理由を薄々勘付いてはいたので、そこには触れずにいた。
ついでに言うと、レイン様は別の意味で表情が強張っていたんだけど。
ザラン様に挨拶をする――――これが本当の意味でレイン様の初めての海外での公務になるので、少なからず緊張しているらしかった。
まあ、レイン様に限ってミスをしたり不敬なことをしたりなんてことは絶対にないって言い切れるけど、シェルビニアの代表として、という役割・責務が彼の背中にはズシリと重くのしかかっているのだろう。
勿論それは私にも言えたことだけど、彼の背負う重さとは比類できない。
そんな感じで三種三様に緊張感を漂わせたまま、やがて陛下がおられる部屋へと到着する。
ダンベルト様が衛兵に合図をすると、程なくして扉は開かれた。
そこはきらびやかな応接室でもなければ、謁見の間でもなく、ただの部屋だった。造りからして誰かの寝室のようだ。
眩しい日差しは薄いレースのカーテンで遮られているせいか、部屋の中は昼にもかかわらず少しだけ薄暗い。けれど、部屋の奥の窓際の辺りに置かれた寝台に、側に控える従者に支えられながら体を半身起こして横たわる人物こそ、間違いなく今回会いに来た人物、ザラン様本人だ。
白髪が半分以上は混じっているが、後ろに束ねた髪の中には、王族の証である紫色が一筋遠目からでも見て取れる。
齢七十五を越えた現国王陛下は、けれど老いてもなおこちらを圧倒する存在感を持っていた。
うちの父様も、それからシェルビニア国王陛下も、国の長として、また家の長としての貫禄を備えながらも(最も父様は陛下とは違い、メタボ気味なので、体型的に貫禄があるってことだ)どこか柔和な雰囲気を漂わせていたけど、目の前のザラン様はその真逆をいく。
年相応の皺まみれの顔はピクリとも動かず、ともすればお怒りになられているんだろうかと勘違いしてしまいそうに険しい顔つき。ぎろりと一瞥されたら、気の弱い人間はその場で息が止まってしまうんじゃないだろうか。勿論、ザラン様は決して怒っているとか機嫌が悪いとか、そういう訳ではないことは分かっている。
この国を何十年も自身が主導して引っ張ってきたザラン様の功績は、シェルビニアどころか大陸中に知れ渡っている。
この国は島国であった為に他国からの侵略にはほとんどあわなかったけど、それは海に囲まれていて侵略がしにくかった、以外にも、ここを侵略しても旨みがないという理由もあったからだ。
鉱山や資源などが豊富にある訳でもなく、自然のみが漠然と広がる国。けれどそれを逆に強みにして、他にはない四季と、それらからの恩恵で生まれる景色というものを売りにして、観光大国へと押し上げたのがこの方なのだ。
ケトレアががシェルビニアのような巨大な大国と同等の力で同盟を結べたのは、彼の力があったからだ。
ただ、彼のやり方は相当に強引だったようで、一部の人間から反感を買ったこともまた事実だ。それでも、そういう人間を切り捨て、力でねじ伏せてでも改革を推進していったからこそ、結果がこれなのだから、誰も文句は言えない。
そんな、独裁者として長く歩んできたからこそ、ザラン様の表情は他人を寄せ付けないくらいにあんなにも険しく、ともすれば傲慢にすら感じられるのだ。
そして、そんな彼とは全く違う方法で、この国をさらなる飛躍へと導いているのがダンベルト様だ。
同じ国を盛り立てる立役者同士であり、また親子でもありながら、二人のやり方はあまりにも違いすぎた。だからダンベルト様が結果を出してもそれを認められず、この歳になってもザラン様は王座を明け渡さなかった。譬え高齢の為公務に支障をきたし、実質ダンベルト様がその執務を全てこなしていてもだ。
しかもようやく王座を明け渡す決意をされたのは、ザラン様が病に侵されてしまったから、というのが理由だって噂ではまことしやかに囁かれている。決してダンベルト様が認められたからではなく。
そんな確執が二人の間にはあるが故に、ダンベルト様は陛下の自室へと向かう途中からこんなにも険悪なな雰囲気を纏って豹変してしまったのだ。
ダンベルト様はやっぱり固い表情のまま足を止めると、ザラン様に声をかける。
「陛下。シェルビニアの王太子レイン様、並びに王太子妃シャナ様を連れて参りました」
するとザラン様は顔だけをこちらに向けると、
「こんな姿でシェルビニアの王太子、並びに妃殿下に会うことしかできない老いぼれの私を、許してほしい」
ザラン様は日によっては寝台から動くことすらままならないこともあるという。それでもその声は病人だとは思えない程に力強いものだった。
本当はそんな状態のザラン様に無理をさせてまで挨拶をする必要はないんじゃないかと私達は思っていたんだけど、それでもとこの面会を望んだのは、他ならぬザラン様だった。
ちなみに、数年前から病気の為遠くへ外出ができないザラン様と、国外に今まで出たことのないレイン様は、当然ながら初対面だ。なのになんでそんなに体調をおしてまでレイン様にお会いしたいのか、理由が思い当らなかった。
シェルビニアとケトレアは確かに同盟国だし、ダンベルト様の留学を受け入れるくらいに両国は密接な関係性にあるけど、両国間の同盟関係期間はかなり浅い。
今は色々あって疎遠になりつつあるダルモロ国との方がよっぽど縁は深く古い間柄だ。
けれど、ザラン様本人が強く希望されている以上、こちらとしてはそれを断る理由もない。
「御加減の事は私も聞き及んでおります。ご無理はなさらないで下さい」
レイン様がそう言うと、少しだけザラン様は表情を緩め、手招きするような動きをすると腕を伸ばす。
「顔を、見せてもらってもよいか?」
その言葉に従い、レイン様はザラン様のに顔が見える位置までゆっくりと歩を進める。後ろからなのでよくは見えないけど、しわがれた手をそっとレイン様の頬に伸ばしているのは見てとれた。
「あぁ、よく、似ている。あの男に。レイン様は父君よりもむしろガディアン似だな」
「祖父に、ですか?」
ガディアン様は、シェルビニアの前国王陛下……つまり、レイン様の祖父に当たる方だ。ザラン様がシェルビニアと同盟を結んだのはガディアン様統治の時代だったはず。
「ガディアンは私にとてもよくしてくれてな。いきなり台頭してきたこんなちっぽけな島国が突き付けた、同等の力で結ぶ同盟にも応じてくれた。それから私のことを、友人とも呼んでくれたものだ。いやはやあれはもう何年前になるのだろうか」
懐かしむような声を出しながらレイン様の頬を撫でるザラン様。
その様子を、私と同じく後ろで見つめていたダンベルト様は、絞り出すような声で小さく呟く。
「私にはあんな優しげな表情、見せたことがないのに」
しかし呟きは聞こえていないのか、ザラン様は尚もレイン様に向かって言葉を続ける。
「懐かしいものだ。彼とはよく一晩中飲み明かしたりした。私にとって、人生において一番の友人であると言っても過言ではない」
そこから、ザラン様の声は小さくなり、彼が何を言っているのか全く聞きとれなかった。ただ時折、レイン様が「それは……」とか言っている声が聞こえてくるだけ。それでも台詞の全容は掴めなかったけど。
やがて会話が終わったのか、レイン様は再び私の隣へと戻ってくる。
彼の表情は極めて複雑な様相を呈していて、ザラン様とどんな会話をされたのか気にはなったけど、私よりも息子であるダンベルト様の方がよっぽど気になっているに違いない。
それでもこの場でそのことを言及することはせず、その場を辞そうとした時、突如ザラン様が咳き込んだ。
「陛下」
隣でずっと見守っていたザラン様の従者の男が、素早く水を差し出すと陛下に手渡す。
けれど、私は突然、体が雷に打たれたようにその場から動けなくなった。
それは、たった一言だった。
「陛下」と、耳が心地よくなる爽やかな春風のような、それでいて頭の芯が痺れるような甘さの含まれた青年の声で紡がれた、たったの一言。それなのに、そんな従者の男の声が私の時間を止め、息をすることすら忘れさせ、その場に繋ぎとめる。
「シャナ?」
突如動きを止めた私に異変を感じたレイン様が、訝しげに声をかける。
理解している。頭の中で、私の名前を呼ばれたことを、そして、今まさに私達はこの場を退出すべくくるりと踵を返す場面なんだということも。
それでも、体が動こうとしてくれない。いや、動きたくないって言う方が正しいのかもしれない。
そんなこと、ありえないってシャナとしての私が言っている。
そう、ありえないことだ。
なのに、サツキとしての自分が、ありえないことだけどそれは間違いなく、飽きるほど間近で聞いてきた声だと訴えかけてくる。
停止した私に、レイン様からだけでなく部屋中の視線が集まる。
その中に、従者の男の目も視線もあった。彼は今まで横を向き、顔を俯かせていたので、今初めて彼の顔を目にすることができた。
そして、それは疑惑から核心へと変わった瞬間でもあった。
「レイジ……さん…………」
奇しくも日本と似たこの島国で。
薄暗い中でもわずかな光を浴びて輝く金色の髪を、後ろに軽く撫でつけたその彼は、髪色も、そして瞳の色も違えど、顔も、声も、間違いなくレイジさんと同じものだった。




