57.痛む心と、安らぐ心
海に浮かぶ島国であるケトレアへの交通手段は、当然船以外に選択肢はない。けれど私は非常に船に酔いやすく、酔い止め薬が必須だった。毒薬が効きにくいのと同じように一般に出回っている薬の類も効きづらい体質なので、私は毎回自分で処方した薬を飲むのだが。
薬のストックがなかった。
しかも、そのことに気が付いたのはなんと出発の前日だった訳で。
慌てて温室にこもり、そこで急ピッチで薬を作成するという作業に没頭することとなった。
そして迎えた翌日。
王太子殿下の初めての外遊ということもあって、早朝にもかかわらず港にはたくさんの人々が集まっていた。そんな彼らを船内の一室で、窓越しに見つめながら、そういえば結婚式の時もこんな感じだったなぁとふと思い出す。
まだ一年も経っていないのに、色々なことが短い期間にありすぎて、すごく遠い昔のように感じるなぁとぼんやりとした頭で思いながら、口を開けずに密かに欠伸をしていると。
「シャナ……今欠伸しただろう」
ラドニア様と会話をしていてこっちなんて絶対に見ていなかったはずのレイン様が、確信に満ちた声でそう言ってきた。
「あら、なんのことでしょうか」
なんで分かったんだろうと思いながらとぼけてみると、呆れた顔でレイン様が、
「目の端を濡らした顔で言っても説得力はないぞ。昨日は俺よりもベッドに入ったのが遅かったからだろう。一体あんな時間まで何をしてたんだ」
「えーと、ちょっとした薬を作っておりまして」
「まさかまたあれか? 俺の体質を押さえる目的の薬か?」
そう発言したレイン様の顔に、一瞬苦悶の表情が浮かぶ。それが意味するところを瞬時に理解した私は、慌てて謝罪の言葉を口にした。
「……その節は大変失礼しました」
実は私、以前に一度、彼の体質を軽減できないかと思って試しに薬を作ってみたことがあったのだ。
その時の私は、それは試薬ではあったけど自分の腕にも自信があったので、満面の笑みでそれを手渡した。レイン様もそれに応えてくれて、シャナはすごいなとかなんとか言いながら飲んでくれた。
がしかし。
結果は芳しくないどころかむしろ真逆の効果を発揮し、レイン様のフェロモンは増長され、女性達に一日中追いかけ回されることになった。危うくレイン様のトラウマが増え、女性嫌いが更に加速するところだったけど、そうはならずにすんだのは幸運だったとしか言いようがない。
お優しいレイン様はしかし、そのことを責めたりはしなかった。だからこそ、私もなんとしてもレイン様の為に、その薬を完成させないといけないとその時誓ったものだ。
「ですが次こそは、レイン様のフェロモン分泌が少しでも緩和できるような物を作ってみせます。安心して下さい、今後二度と、前のような失態は犯しませんので」
「その気持ちは嬉しい。だが、例えばお前が昨日遅くまで作っていた薬がそれだとして、クマができて寝不足になる程にお前に無理をされても俺は嬉しくない。俺の為に無理も無茶もしないでくれ」
「分かりました、レイン様に心配はおかけしたくありませんから。あ、ちなみに昨日作っていたのは船酔いに効く薬です。もしかしたらレイン様も必要になることがあるかもしれませんので、その時は声をかけてくださいね。多目には用意しているので」
「ああ。その時は……前のような惨劇にはならないことを期待している」
「……もしかして、まだあの時のこと、根に持たれてます?」
「持ってないと言えば嘘になる。必死で逃げてきた俺の様子を見て、心配するより先に、薬がどんな風に影響を与えたか目を輝かせて聞いてきたんだからな、シャナは。薬のことになると目の色が変わるのは知っていたが、あれは少し傷付いたぞ」
少し拗ねたような口ぶりでそう言うレイン様。
確かに、あれは完全に私が悪かった。自分の作ったもののせいでボロボロになって逃げてきたレイン様に向かって、つい我を忘れて、食い気味に、質問攻めにしてしまったのだから。普段と違ってどれくらい強力になったとか、などなど。
「だ、大丈夫です! 今回のものはレシピもきちんとありましたし、実際に効くかどうかは私が身をもって体験済みですので! 軽い気持ちで何となくで作った前のものとは訳が違います!」
「そんな何となくで作ったものを自信満々にお前は俺に渡してきたのか……」
「あ、…………で、でも、レイン様の尊い犠牲は無駄にはしませんから!」
そんな風な会話をしていると、控えめな笑い声が正面から聞こえてきて、私達は会話を中断するとそちらに目をやる。そこではラドニア様が肩を震わせて声を押し殺して笑っていた。
そうだった。ここにはラドニア様もいたんだった。ものすごく内輪な感じで話をしてしまっていた。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありませんでした、ラドニア様」
しかし彼は別段気にした様子はないようで、
「いいんです、僕のことは気にしないで下さい。それにしても、お二人の結婚の本当の経緯は聞いてますが、随分と仲がいいんですね。レイン様もシャナ様には随分と心を許されているみたいですし、シャナ様も、その立場でしたらレイン様を恨まれてもおかしくないはずなのに、そんな様子は全くありませんし」
「そうですね、まあレイン様が悪い訳ではありませんから。それにこの結婚の話を裏で仕組んだのはあなた様のお兄様ですし。ですので私が恨んでいるのは、あのお方ただ一人です」
「それも聞きました。うちの兄が随分とあくどいやり方を取ったみたいで、申し訳ありません」
「別にラドニア様に謝ってもらう必要なんてありませんから!」
「……そうですか。そんな風に言ってもらえると、僕もほっとします」
そう言って二コリと笑ったラドニア様は、兄だったあの男にそっくりだった。綺麗に整った顔立ちなものの、あの男に比べれば地味な印象を受けてしまうラドニア様だけど、やっぱり遺伝的には兄弟なんだなとこの顔を見ると私はいつも思う。
彼はレイン様のフェロモンのこと、それから私が何故レイン様の伴侶として選ばれたのか、その理由を知っている。ディーゼル卿がいなくなって彼がクライシス家の跡継ぎだと正式に決まった段階で、この秘密をレイン様自身で伝えたのだ。
突然の告白に初めは面食らってたみたいだけど、すぐに理解したラドニア様は、この秘密を口外しないこと、そして同時にアナン姫についても知らせていたので、彼女をいかにして抑えるかの策を色々と講じることを約束してくれた。
クライシス家の血筋はやはり優秀らしく、次期当主として動きだしてからまだ数カ月しか経っていないというのに、彼は上手に立ち回っている。レイン様も彼の能力は高く買っていて、非常に信頼を置いている。隣国の情報集めにはディーゼル卿と同じく苦戦を強いられているようだけど、少ない情報の中でも色々と考えてくれている。
そんなラドニア様は笑顔を崩さず、私たち二人を交互に見つめると、
「レイン様とシャナ様の距離感や、さっきのような会話のやり取りを見ていると、本当にお二人は愛し合って結ばれたっていう、あの噂そのものなんじゃないかって錯覚してしまうくらいに仲がいいですよ。この様子を見たら、きっとあれがまやかしの噂だって気付く人はいませんよ」
「そう……ですか?」
仲は、うん、悪くはないだろう。むしろ良いと断言してもいいかもしれない。だけどそんな風な見え方をされてるなんて思ってもみなかった。
「というか、本当はお二人の間には恋愛感情が芽生えているんじゃないかって、最近陛下や王妃様ともよく話に上がるんですよ。だって誰も入り込めないような甘い雰囲気を醸し出されてますからね、さっきのように」
もしかして最近色んなところから感じる、妙に生温かい視線ってそれが原因なんだろうか。
そのお陰でレイン様に寄ってこようとする女性への抑止力となっているのだとしたら、私としては役割を果たせてるってことだから別にいいんだけど。
それにしても、恋愛感情、か。
周りからどう見えてるかは置いておいて、そんなはずはない。レイン様だってそんなことはこれっぽっちも思っていないに違いない。彼にとって私はきっと心を許せる友人のようなもの。それは私だって同じだ。
それに私が好きだったのは…………。
その時心臓がずきりと痛む音がした。前を向いて歩いていかなきゃいけないはずなのに、過去を思い出してしまいそうになる。あの日決別したはずの、あの人を。
分かっている、彼に悪気なんてないことくらい。だって彼は私やディーゼル卿の前世のことまでは知らないし、そもそも教える必要もない。これは、私とレイン様だけの秘密だから。
けれど不意に、急に彼のことを思い出してしまうことがあるのだ。今のような何気ない会話の時なんかに。
思わず顔が強張って、更にはわずかに体を震えさせてしまった私は、ラドニア様から視線を外してしまった。けれど尚も彼は例の視線を向けながら嬉しそうな声色で言葉を続ける。
「だから今回のケトレア行きは、僕も賛成だったんです。あの国は観光業で成り立っている国なだけあって見どころはたくさんありますから、公務ですけど実質新婚旅行みたいな気持ちで行ってもらったら、とも言ってて……」
「そんなことよりラドニア。俺達が留守の間、くれぐれも頼んだぞ。特にダルモロの、そしてアナン姫の動向についてはしっかり目を光らせておいてほしい」
いつの間にか私の手を安心させるように軽く握っていたレイン様が、強制的に会話を終わらせて別の方向へと誘導する。するとラドニア様は心得たとばかりに、
「任せて下さい」
と頼もしく返事をしてくれた。
そう、彼は船内にはいるけど、この旅に同行はしない。出発する前に、留守を預ける彼に最後の確認の意味も込めて、人払いをしたこの部屋で話をしていたのだ。
それからアナン姫についてのことや、留守中の伝達事項についての話を二、三したところで、船の汽笛が大きく鳴った。出発を知らせる合図だ。
「では僕はこれで。外にいる民衆と一緒にお見送りをしますね」
「俺達も甲板に出よう」
やっぱりいつの間にか今度は手を離していたレイン様と、ラドニア様が立ち上がる。私もそれに倣ってその場から立ち上がった。
「あの、レイン様」
微かな震えは、もうなかった。私の細かな異変を察知したレイン様が手を優しく握ってくれたお陰だ。
このお方は、私が見せるどんな小さなことでも決して見逃さない。特にディーゼル卿とレイジさんのことがあってから、それが顕著に表れている。
落ち込んだり弱音を吐きたくなった時、気付いたらレイン様は何も言わず、側にてくれる。私が過去に呑みこまれず強く生きていけるのは、レイン様の存在が大きいのだ。
前までは私が守ることばかりだったのに、今は私の方が色んなことから守ってもらっているような気がする。
せめてお礼は言いたいと思って、ラドニア様の後に続いて船内を歩きながら私は隣を歩く彼の名を呼んだんだけど。
「気にするな」
最近よく見せる優しげな微笑みを浮かべたレイン様は、私の言葉を察知してかそう短く言葉を紡ぐと、元気を出せとばかりに肩を軽くポンと叩いた。
レイン様のお陰で気持ちも浮上し表情も戻った私は、甲板に出るとラドニア様他大勢の民衆に、結婚式と同様手を振って束の間の別れを告げる。
陸地が見えなくなると、これからは青い海と空だけが視界に広がる四日間の海の旅の始まりだ。
「これが海か。裏の山から見えてたから知ってはいたが、実物をこんなに間近で見たのは初めてだ」
海は見たことはあっても船に乗るのは初めてなレイン様は、感激したように言葉を漏らす。
「綺麗なものだな」
「ええ。私、船での旅が一番好きなんです。確かに陸路に比べたら危険もありますけど……」
航海は確かに大変で不便なことも多い。
天候はここ数日は穏やかだと言われているけど、海の天気は気まぐれなのでいつ変わるか分からない。それに海賊もいたりするから、その辺りも用心が必要だ。
「だけど、ずっと先に見える水平線とか、そこから見える朝陽や夕陽はとても綺麗なんです」
「そうか。今日は雲もないし快晴だから、いい絵が見られそうだな。楽しみだ」
「はい、そうですね」
本当に待ちきれない様子で嬉しそうに破顔するレイン様に、思わず私の表情も綻ぶ。
ちなみにこの船はコキニロ家が作った特注品のもの。大商家なせいで常に海賊など敵に積み荷を狙われやすいコキニロ家特製の船なだけあって、全てにおいてスペックは高い。
少々砲撃を受けてもびくともしない造りをしているし、それどころか嵐の中でも突き進むことができるくらいにしっかりとした船なのだ。それにもしも襲われても敵が追い付けない速さで逃げられるくらいにスピード面も強化されている。
大国シェルビニアの有能な若き王子を運ぶ船として、これほどふさわしいものはないだろう。
それから天気も特に崩れず、怪しい海の賊に遭遇することもなく。船は問題なく海路を進む。
あ、強いて言うなら一つだけ問題はあった。
「……気分が悪い、それに頭がひどく痛むんだが」
「レイン様、それが船酔いというものです」
初めての海にテンションが上がってウキウキしてたレイン様だったけど、早速船旅の洗礼を受けていた。
だけど私の作った酔い止めの薬を飲んだレイン様はすぐに体調を回復させていた。そう、惨劇は二度と繰り返されることはなかったのだ。
そして四日後の午後。太陽が空の頂点に達した頃、船は無事にケトレアへと到着した。




