54.別れの最後は、とびきりの笑顔で
2015年11月修正済み
「ん…………」
どこからか小鳥の可愛らしいさえずりが聞こえてきて、私はぼんやりとした頭でゆっくりと目を開ける。
まず飛び込んできたのは肌色。それが何なのか分からなくて、機能しない脳みそをフル回転させて考えてみる。そんな時、耳元で聞こえてきたのは、何かの規則正しい息遣い。
「――――――――――――」
ゆっくりと視線だけを上に動かせば、見えたのは端正な顔立ち。
目の前の肌色は、私もよく見知った人物の鎖骨の辺りだった。
道理で色しか見えなかったはずだ。
私は彼―――レイン殿下にぴったりと密着する形で抱きしめれれていたのだから。その距離0センチ。
そしてようやく覚醒してきた頭が、昨日の記憶を呼び起こしてくれた。
レイン様がやってきて、私の話を黙って聞いてくれて、とても優しくて温かい言葉をくれて。
そして二人して抱き合いながら、わんわん泣いたんだっけ。
あの後の記憶はないので、おそらく私はあのまま泣き疲れて眠ってしまったのだろう。今いるのはいつもの寝台。レイン様がここまで運んでくれたようだ。
「…………」
起こさないようにレイン様の腕からそっと抜け出すと、私は彼をじっと見つめる。
よく眠っている。
そういう私も、久しぶりに昨日はよく眠れた。一人で塞ぎ込んで部屋にこもっていた時も、寝台の上で横にはなっていたけど、ほとんど眠れはしなかった。
身じろぎ一つせず熟睡しているお方を起こさないよう、物音をたてずに慎重な足取りで洗面場へ向かう。
鏡の前に映った顔は、お世辞にも素敵だとはいえない。
化粧が半端に取れかけてるのはみっともないし、体重が落ちたせいで目も窪んでる気がする。もともと可愛くはなかったけど健康的な顔立ちが売りだった私の姿は、それすらも見る影もない。
だけどついこの前…昨日の朝までに比べたらずいぶんとすっきりしている。
まるで憑き物が落ちたかのようだ。
ディーゼル様に真実を告げられた日から、ずっと一人、殻に閉じこもって頭の中を整理しようとしていた。でも現実には、整理どころか受け入れることすらできなくて、ずっと「サツキ」と「シャナ」の間をを彷徨っていた。
けれど永遠に悩み続ける訳にはいかない。それも理解していた。時間を忘れ、闇の中でたゆたいながら、こんな風に現実逃避したって何も解決しない、目の前に現れた真実に向き合わないと……と冷静な自分が言っていた。
そうやってぐるぐる悩んで考えて、でも心は何も考えたくないって拒否して、しかしもう一人の自分はそれを許さなくて………。
………っていう感じに一人で膝を抱えて悩んでいたけど、レイン様に色々話して、ぶつけて、泣いて、眠って、起きたら、なんだかウソみたいに心が軽くなった気がする。
悩みは誰かに話した方がすっきりする、って誰かが言ってたけど、実際そうだった。
自分の心を吐露する、というのは、無防備な自分を晒すってことだからかなり勇気のいることだけど、幸いにもレイン様はこんな私を受け止めてくれた。
まだ完全復帰とはいかないけど……。
うん、大丈夫!
今日から心機一転。新しいシャナとしての人生を歩もうと、そう決意を込めてパチリと頬を叩いた。
と。
「起きてたのか」
服の衣擦れと共に、誰かがこちらへ向かってやってくるのが鏡に映った。
「レイン様、おはようございます」
振り返って挨拶をすれば、眠たげな目をしたまま、レイン様が柔和な笑顔を向けてくれた。
「ああ、おはよう」
それから戸惑ったように言葉を詰まらせる。
「ええと、その……」
「シャナです、レイン様」
昨日、レイン様は私のことをサツキと呼んでくれた。私のことを、サツキの私を認めてくれたのだ。それがとても嬉しかった。
けれど、彼は私に約束してくれたのだ。
サツキとしての私を捨てずに、シャナとしてこの世界で生きる意義を見つけてくれると。
だったら私の今のこの姿は、魂は、サツキの心を宿した「シャナ」だ。
「今日から私はようやく、本当の意味でこの世界で人生を歩んでいける気がします。レイン様のお陰です、ありがとうございます」
「そうか。お前の力に――シャナの力になれたのなら、何よりだ」
そう言ってにこりと笑いかけてくれた。
レイン様は本当に心根がお優しいお方だ。まさにこの国を背負って立つのにふさわしい。そんなお方の側に私はいるのだ。
この恩は返さないと。
ディーゼル様に言われたから、という訳ではないけど、フェロモン体質に悩んでいるレイン様の力になりたい。
それがシャナとして生きる意義のひとつかもしれないな、と思った。
「? なんだ、急ににやにやして。俺の顔に何か付いているか?」
「いいえ、そういう訳ではありません。心配せずともレイン様はいつも男前ですよ」
「それは……どうも」
「あれ、もしかして照れておられます?」
「照れてない」
そう言いながらもそっぽを向いたレイン様は、耳まで赤い。分かりやすい人だ。
男前、だなんて褒め言葉言われ慣れてるだろうに。そんなレイン様はやっぱりとても可愛らしく見えた。そんなことを男の人に言ったら嫌がるだろうので、心の中だけでそっと留めておくだけ。
けど何かしらを私から感じ取ったのだろう。少しばかりのジト目で私の目を覗きこんできた。
「……何か言いたげな顔だな」
鋭い。
「いいえ、別に何でもありません」
「その割には口元が緩んでいるぞ。いいから言ってみろ」
「……怒りませんか?」
「怒らない」
「絶対に?」
「ああ」
「じゃあ。………そっぽを向いて照れてない、って言い張ってたレイン様が、なんだか可愛らしいなって」
「……………」
「やっぱり怒ってるじゃないですか」
「……怒ってない」
「ではなんでそんなに不機嫌そうな顔なんですか」
「これは……その、色々複雑なんだ」
なにが複雑なんだろうか。何かと葛藤しているような素振りのレイン様を見ながら小首を傾げるが、詳しくは語ってはくれなかった。
しかし、可愛い、という女子には有効な褒め言葉は、やはり男性には嬉しくないものらしい。それだけはひしひしと伝わってきた。
だから言いたくなかったんだけど。
「……可愛いか。そういえば、あいつにもよくそう言われてからかわれてたな」
依然釈然としない表情を浮かべながらしゃがみこんだレイン様が、ぼそりと呟く。
「あいつ……って」
「あ……。……まあ、その。………あの男だ」
バツが悪そうな表情で苦々しげに言い放つレイン様に、私はすぐにその正体を突き止めた。
あの男、か。
名前を出さなかったのはレイン様の気遣いか。確かに今でも彼のことは嫌いだ。大嫌いだ。憎々しい。
けれど昨日よりも、随分その負の感情は薄らいでいた。
彼が私に対して行った仕打ちについてずっと考えてはいたけれど、あれがディーゼルさまの立場としては、一番の手段だったのだ。
彼が死んだ後、一番の心残りはレイン様のことだった。
ディーゼル卿として、レイン様を守る。限られた時間の中で、彼は最善の策を打ったに過ぎない。
一番大切なものを守るためには、生半可な覚悟では足りない。
誰かに恨まれても憎まれても、ぶれなかったディーゼル様の生き方は、ある意味敬意をはらう。
「シャナ」
名前を呼ばれてレイン様の方を見ると、彼の顔色は完全に元に戻っていた。
ただ声と同様に表情も少し硬く、何かを言い淀むように逡巡していたが、意を決したように口を開いた。
「今日はあいつの告別式がある。俺は立場的にも出席しない訳にはいかないし、どんなに最低な男でも俺にはやはり大切な親友だ。ただ……お前には出席は無理強いしない」
ディーゼル様の告別式。
それはつまり、レイン様とも最後の別れを意味する。
昨日までの私なら、行かないと言っていたかもしれない。立場的には参加するべきにも関わらずだ。
けれど、今は違う。
「………行きます。私も共に、参加させてください」
この国では、日本と同じく、亡くなったら火葬して土に埋められる。
その前に行うのがこの『告別式』だ。
クライシス家の屋敷は、黒い服で埋め尽くされ、慟哭の声で満たされていた。
私たちは入り口で渡された白い花を持って、ディーゼル卿が眠る部屋へと案内された。
部屋の奥にひときわ大きな棺が横たわっている。
あの中に故人が眠っていて、その棺の中に一人ずつ受け取った花を入れながら、故人と最後の別れをするのが習わしだそうだ。
部屋には誰もいなかった。
少しでも周囲に気を遣わずにディーゼル様と対話をして別れられるようにとの、レイン様への特別な配慮から、人払いを命じたそうだ。
勿論私も邪魔をする訳にはいかないので、外で待機する。
厚手の扉の向こうでどんな話がなされているのか聞こえないので分かりようがないが、出てきたレイン様の目が涙で濡れているのとくぐもった声からして、彼がどれだけディーゼル様を好いていたのかよく分かった。
家族同然の、大切な親友だったのだから。
大嫌いな相手ながら、レイン様にこんなにも慕われていたディーゼル様の死が悔やまれた。
「すまない、随分長居してしまった」
「いいえ、そんなの当然です」
そう言って、私は殿下と入れ替わりで扉に手をかける。
人払いは王太子殿下のための配慮。けれどそれは私にも適用してもらえるようだった。
手にした可愛らしい花を少しだけ力を入れて握り直すと、静かに彼の眠る部屋に足を踏み入れた。
今までかなりの数の人間が、彼の死を悼みここにやってきたのだろう。棺の中は既に大量の花で埋め尽くされていた。
少しくらい、悲しいとか憎らしいとかいう感情が湧きでてくるんじゃないだろうか、と若干覚悟はしていたが。
悲しみはレイジさんへの感情。
憎しみはディーゼル様への感情。
そのどちらも、考えていた以上に胸を締め付けるには至らず、驚くほど冷静な自分がそこにいた。
「本当に、あなた様には脱帽です」
今日、この屋敷に向かう途中の馬車の中で、レイン様がどうやって私とディーゼル様の素性を知ったのかを聞いた。
その時に、レイン様がぼそりと言った言葉があった。
曰く、ディーゼル様が私に、惚れていたと。
少なくとも、それはレイジさんとしてだったと私は認識していた。レイジさんとして振舞うために、ディーゼル卿の顔でそういう素振りを見せていたと。
だけど本当は違ったらしい。
はっきりとレイン様に宛てた手紙にそのことを書いてあった訳ではないらしいけど、ディーゼル卿はレイジさんとしてではなく彼の意思で、私に好意があったんじゃないかと。
今となっては死人に口なし。それが事実なのか確かめる術はない。
けれど、もしそれが本当なら、ディーゼル卿はやはり一筋縄ではいかない相手だった。
彼はレイジさんの記憶を、最期までディーゼル卿の立場でレイン様を守るため利用した。自身の気持ちを押し殺して。
「結局、私はディーゼル様の掌の上でしたね。一度もその鼻を明かせなかったのが一番悔しいです。勝ち逃げなんて卑怯じゃありませんか?」
物言わぬ肉体に、そう問いかける。当然答えなど返ってはこない。
「……もしもディーゼル様が本当に自身の心で私のことを好いてくれてたとして。それを一瞬でも私に向けて曝け出してたら、私は心の底からあなたを軽蔑していました」
けれどそれをしなかった。してたのかもしれないけど、私は最後まで気付かなかった。
そこだけは、彼のことを認めてもいいと思った。
「あなた様から受けた仕打ちは一生忘れません。ですが…………ディーゼル様がいてくれたから、私はこの先、シャナとしてこの世界でしっかり足をつけて生きていくことができます」
もしも出会ったのがこんな状況ではなかったら、良い友人になれたかもしれない。
けれど運命は残酷だ。
しかし決して無意味な運命はない。私はそう思っている。
こうしてこのような状況下で、レイジさんの魂を覚醒させたディーゼル卿と出会ったのは、もはや宿命なのだろう。
「安心して下さい。あなた様にいわれなくても、私は私の意志で、レイン様の側で彼を守ります。それから――――――」
冷たくなってしまったディーゼル様の手に少しだけ触れると、私は初めて彼にするであろう種類の微笑みを向ける。
「ディーゼル様。こんな私のことを好きになってくれて、ありがとうございます」
そう言うと手にしていた花のうちの一つをそっと、上に積み上げた。
これはディーゼル様の分。
そして―――――――――――――――――。
「レイジさん……」
彼は逝ってしまった。私を置いて。
寂しくないと言えば、苦しくないと言えば嘘になるけれど、彼の後をすぐに追うつもりは今の私にはない。
レイジさんのいないこの世界を好きになれるかはまだ分からないけど、彼の想いを無駄にしないよう、精一杯シャナとしての人生を生きてみようと思う。
もう一本、手にしている花。
これは、心から愛したあなたに手向けます。
レイジさん、そしてディーゼル様。
どうか安らかに。
最後は涙より、笑顔で送った方がいいでしょう?
とびっきりの笑顔を静かに眠る彼らに送ると、私は棺にくるりと背を向けて歩きだす。
後ろは振り向かない。
だって私は、未来に向かって進んでいくって決めたのだから。
外に出ると、私を待っていたはずのレイン様の姿がどこにもない。
だけどそう遠くない場所から、レイン様の名を呼ぶ若い少女たちの声が聞こえる。
どうやらまたフェロモン関係で厄介なことに巻き込まれているみたいだ。
こんな告別式という色々慎むべき場所だっていうのに、ところ構わず振りまかれるレイン様のフェロモンはもはや凶器だ。
さて、お迎えにあがりましょうか。
おそらく彼女たちから逃げているであろう王子様を。
それが今、シャナに与えられた、この世界で生きていく理由の一つなのだから。




