53.☆寄り添う心
2015年11月 修正済み
「シャナ」
部屋に入ると、レインは真っ先に彼女の名を呼んだ。
すると、
「レイン様、私はここにおります」
声をした方を振りかえると、いつもの二人掛けのソファに彼女は座っていた。
ここ数日で、かなり痩せたようだ。顔色もあまりいいとはいえない。
だが、傍目で見れば、今までレインに見せてきた気丈なシャナとあまり変わりないように見えた。
「もう、大丈夫なのか?」
「ええ。その節はご心配をおかけしました。体調はまだ万全とは言えませんが、そのうちに回復致しますので」
「そうか」
にこりと微笑む彼女は、やはりいつもと同じように見える。勿論、本当に見た目通りではないことは、ディーゼルからもらった手紙の内容を考えれば分かる。
レインは彼女の傍まで近付く。すると彼女が横にずれてくれたので、空いた隙間に彼も腰を下ろした。
こうして並ぶのは、本当に久しぶりな感覚に陥る。実際はそんなに空いた日数離れていた訳ではないのだが、それまでほとんど毎日顔を見ていたので、余計にそう感じるのだろう。
「…………」
「…………」
さて。シャナに会いたい。その一心で急いでここまで来たものの。
二人の間に流れるのは、どこか気まずいような無言の時間。
何をどうしたらいいのだろうか。
レインもまだ、明かされた事実に混乱し、彼女にどんな言葉をかけていいのか全く分からなかった。そもそも、シャナとディーゼルの前世にはまったく無関係の自分にかけられる言葉などあるのだろうか……そんなことをぐるぐる考えていた時だった。
「…………全部、ご存知なんですよね」
ぽつりと。
シャナが誰に問うでもないように、しかしはっきりとした口調でそう言った。
その声に、戸惑いのあまり下を向いていたレインは、はっとシャナに顔を向ける。彼女の視線は空を彷徨っており、レインの方を見てはいないが、確かにその言葉は彼に向けられたものだった。
言われた言葉はたったそれだけ。しかし何のことなのか、レインには分かった。
レインは深く息を吐くと、短く一言、
「ああ」
そう呟いた。
「そう、ですか」
シャナもレインに倣ってゆっくり長く息を吐き出しながらそれに応える。
レインは何も言わず、じっとシャナを見つめる。
おしろいで隠されてはいるが、目の下のクマは濃く、頬も少しこけている。頬紅もたくさんつけてはいるが、やはり血色は悪い。
ディーゼルの手紙にあったことが真実なら、彼女が精神的に傷付きこのような痛ましい姿になるのは当然かもしれないとレインは思う。
『シャナがずたずたに傷付いて身も心もボロボロになるだろう、そんな彼女を救ってやってほしい。』
……そんなある種身勝手なことをディーゼルは記し、あまつさえそれを全くの部外者の自分に押し付けるというのだから。
俺はディーゼルでもないし、ましてやレイジという人間でもない。ただ、この国の王子として生を受け、前世の自分のことなど全く知らずに育ってきたただのレインだ。そんな自分が彼女にできることなんて本当はないのに。
シャナの心を癒せるのは、ディーゼルでありレイジしかいない。
だがもう彼らはいないのだ。
この世界の、どこにも。
シャナは前世の記憶を持ったまま、たった一人、この世界でシャナとして生きていく。誰にも言えない大きな心の苦悩を抱えたまま、一人で。
何度でも言う。
確かにレインという人間にできることなんてない。何もできない。癒すことは一生できないかもしれない。
だけども。
レインは思う。
少なくとも彼女がサツキと言う人間であった、ということは知っているし、彼女がどういうことで心を痛めているかも知っている。それは微々たるものかもしれないし、そんなものをシャナは求めてはいないかもしれないが。
彼女の側にいて、話を聞いてあげることはできる。シャナが少しでも楽になれるように、彼女の心に寄り添うことはできるのだ。
「シャナ」
優しくレインは呼びかける。
機械的な動きで呼ばれたシャナはレインを見た。
近くで見たら分かる。
彼女の瞳は何も映してはいない。ただ、虚空が広がるのみ。レインに向ける笑顔だってどこか歪で引きつっている。
いつもの彼女な訳がないのだ。
いや、そもそも『いつもの彼女』とは、一体どの彼女のことなのか。
彼の前で見せていたのは、『シャナ・コキニロ』で、本当の彼女は『サカガミ・サツキ』だ。
本当に『彼女』の心に寄り添うのならば―――――――――。
「いや、サツキ、と、呼んだ方がいいのか」
彼女の笑顔は変わらない。壊れた心でシャナとしてレインに笑いかけている。
レインはそっとサツキの肩を抱くと自分の方に引き寄せる。そして優しい手つきで彼女の頭を撫でた。
「俺は知ってるから。お前が『サツキ』だってことを。だから……無理して『シャナ』を演じる必要なんてない」
まるで幼子に対するかのように、ゆっくりとした口調で。
小さい子供をあやすように、レインは何度も頭を撫で続ける。
「……私、死のうと思ったんです。ディーゼル様がレイジさんだって知らされて、その彼がレイジさんごと、この世からいなくなっちゃうって聞いた時」
やがて。
顔から何の表情もなくなった彼女――――――シャナの顔形をしたサツキが、静かに語り始めた。
「私ね、初めてここで生を受けた時から、この世界に興味が持てなくて。だって私はサツキなのに、いきなりシャナとして生きるなんて無理があると思いませんか? だから適当に生きて、前世でのような苦労とは無縁の生活を送ってやろうって。そう決めてたんです。………サツキの心が入ったこの器、シャナっていう少女がどんな人生を歩もうと、私には関係ない。あくどい策略でレイン様と結婚させられた時はさすがに焦りましたけど。でもこの結婚だって、適当な時期になんとか解消して、表舞台から消えるつもりだったんです」
「……………」
レインは何も言わず、黙ってサツキの話に耳を傾ける。
「…………私の夢はね、レイン様。女のやっかみとか嫉妬とかない世界で、平凡で普通の、地味な生活を送ることだったんです。でもそれは表向きの理由で。本当は私、レイジさんを捜したかったんです。私たちが運命の赤い糸で結ばれているのなら、絶対に会えるって、心の奥底で実は思っていたんですよ。だけどもし会えなかったら辛いじゃないですか。そんな現実を目の前に突きつけられたら、私はこの世界で生きていく意味を失ってしまう。だからあんな平凡でささやかな夢を、自分の本当の望みだと。レイジさんは、そんな生ぬるい生活を送りながら半ば夢物語のようになんとなく捜せばいいって、無意識に言い聞かせてたんです」
「……………」
「そのことを、―――――ディーゼル様と仮面舞踏会の夜にお話をした時に、私、気が付かされたんです。平凡な生活を送りたいとかいいながら、私は妃の地位をなんとか辞した後、この世にいないかもしれないレイジさんを、捜しに行きたいって、本気で自分が考えてたんだって。だけどね。あの人がそんな私のふわふわした幻想を粉々に砕いちゃったんですよね。傍から見たら馬鹿みたいな夢物語が、私にとってこの世界で生きる糧だったんです。けれど、唯一の希望を木っ端みじんに打ち砕かれて、これから先、生きていける訳、ないじゃないですか」
淡々とした口ぶりで、まるで他人事のように話すサツキ。でもそれは強がりだ。そういう風に喋らないと、きっと彼女は壊れてしまいそうなほどに深く、心がえぐられている。
それをなんとなく読みとったレインは、自分のことのように唇を噛みしめる。だが自分が思っている以上にシャナの心はもっと張り裂けそうなほどに苦しんでいるのだ。
なのに張本人でもない俺が彼女以上に傷付く訳にはいかない。
そんな想いで胸の痛みを堪えると、少しだけ強くサツキの体を抱きしめた。
「多分ね、死んでたと思います。もしもディーゼル様が、自分がレイジさんの生まれ変わりだってことを利用して、これからもレイン様の隣にいてくれって言わなければ。知りたくなかった。ディーゼル様の中にレイジさんがいて、もうすぐ死んでしまうなんて。知らなければ……この世のどこかにいるかもしれないって淡い期待を持ったまま、ぎりぎり心の平穏を保てたかもしれないのに。最初は苦しくて悔しくて、自分でも訳が分からないどす黒い感情が体の中で暴れ回って、なんで、どうして!?、ってずっと問いかけてました。神様は私に何か恨みでもあるんじゃないかって。だってなんにも悪いことしたつもり、ないのに。前世の記憶だって望んで持ってた訳じゃないし。それからレイン様のこともちょっぴし恨みました。レイン様がそんな体質でなければ、私とレイジさんは出会わなかったし、私も微かな希望を持って幸せな夢を見ながら生きていけたのに」
少しだけ、サツキの体が震えている。だが彼女はそれには構わず続ける。
「けど、気が付いたんです。……ううん、本当はもっと前に気が付いてたんだけど、見て見ぬふりをしてたのかな。あの時のレイジさんね、ディーゼル様に利用されていたけど、あえてディーゼル様のいいなりになってたんですよ。私がサツキという人間の過去に囚われてて、レイジさんが死ぬとなったらどんな行動をとるのか分かってて。いつまでもサツキの呪縛に縛られてないで、シャナとして、人生を歩んでほしい―――――そういう想いで。ふふ、笑えますよね。レイン様のフェロモンに当てられて、愛情に狂ってしまう女の子達と、結局私は何ら変わりなかったんですよ。レイジさんへの愛に縛られて、執着して、生まれ変わって新しい人間として人生を歩んでるのに、前の記憶と魂に操られて。きっとそれがレイジさんは辛かったんじゃないのかな。まして自分はもういなくなってしまうのに」
「笑わないよ、俺は。それだけ好きだったんだろう? 誰かに操られた感情ではなく、サツキの意志で」
「…………好きでした。そう、好きだったんです! なのに!」
震えが大きくなる。
体だけではない。吐きだされた大きな声すらどこか震えていた。
「そんな、簡単に、サツキを捨てることなんてできませんよ!! 私の心の一部なんですよ? このシャナという人間の、何十倍も長く時を過ごしてきた……」
「ああ」
「分かってるんです。レイジさんの優しさも、私のことを想っていてくれたことも。だけど頭では納得できても、心が追い付かないんです。一人でずっと考えて、消化しようとして、でもうまくいかなくて……」
そこまで言うと、サツキは涙で言葉が詰まったのか、嗚咽を上げながらレインにしがみついた。それをレインは黙って受け止めた。
「……すみません。私、あんなに泣いたのに、まだ涙が止まらないなんて」
「我慢するな。泣きたいなら泣けばいいんだ、思う存分。その為に俺がここにいる。一人でこの部屋で泣くのも辛かっただろう。もっと早く側に来られたらよかったな」
「レイン様は何にも悪くないです。むしろ、私自身が誰も寄せ付けようとしなかったんですから」
少しだけ涙の引いた彼女の目に、活力が戻ってきた気がした。
「ほんの少し、気持ちが軽くなりました。レイン様が話を聞いてくれたからですかね」
「逆に俺にできるのはそれだけだ。実際に苦しい思いをしたお前と代わることができたらいいんだが」
「やっぱりレイン様はお優しいんですね。………大丈夫です。この壁はきっと、自分の力で越えてみせますから」
目の前の彼女は強い。
普通なら壊れてしまってもおかしくない状況なのに、それを乗り越えようと言うのだから。
彼女の言葉は強がりではない。本心だろう。
『自分の力で乗り越える』
そう言って微笑む彼女は、もうシャナの肉体という入れ物に入れられた抜け殻ではなかった。
やはり彼女は強くて美しかった。思わずレインはその眩しさに目を細める。
今までもそうだったのだろう。
途中で、今回のように弱音を吐いたりくじけそうになっても、最後には与えられた試練から決して逃げず立ち向かう。
例えどんな姿をしていても。
それがサツキであってもシャナであっても、他の誰であっても。
目の前の彼女の持つ魂は、誰よりもまっすぐで美しい。
だからこそレインは、その存在に惹かれたのだ。
そんな彼女のほんの少しでもいい、力になりたいと。
そう心から思った。
「………サツキを捨てる必要なんてない。だって前世の彼女だってお前の一部分だ。それを完全に切り離したら、お前はお前じゃなくなると思う。今まで空っぽのシャナとして生きてきたのだと言うのなら、今日から新しいシャナを作っていけばいい。レイジを愛した記憶も、サツキとしての魂もその内に残したまま」
「レイン、様……」
「それでも過去の自分と向き合う中で、今日みたいに苦しんでもがくこともあるだろう。その時は俺を呼べ。レイジはいないが、代わりに俺が側にいる。人生これからまだまだ長いんだ。ゆっくりとこの世界に馴染んでいけばいい。だから」
自分を見つめる彼女の顔を両手でそっと包み込むと、レインは己の額を彼女の額にこつりと当てた。
「だから死ぬな。お前が、シャナがこの世界で生きる意義を、一緒に捜してやるから」
「………っ、そんな台詞、は、反則です…」
せっかく止まっていたのに、と口ごもりながら彼女は再び大粒の涙を流す。
けれど泣いていたのは彼女だけではなかった。
――――――――目の前で慈しむように彼女を抱きしめる腕の主もまた、同じように涙を零していたのだから。
誤字脱字修正しました。
ご指摘ありがとうございます。




