40.☆王子様とお姫様
馬を走らせ続けるレインの前に現れたのは、1台の馬車だった。きっとあの中にシャナがいる。そう確信しているレインは、彼女の名を叫ぶ。
すると、微かに彼の名を呼ぶ声が返ってきた。
間違いない、あれはやはりシャナだ。彼女は無事だったのだ。更にスピードを上げると、レインは馬車との距離を詰めていく。
しかしシャナの状況が目に入った時、レインは目を見開く。
彼女は何故か馬車の上にいた。しかも誰かに肩に担がれた状態で。
担いでいる人物に見覚えはないが、かなり体つきのしっかりした男であることは分かった。そして、相当の手練れであることも、醸し出される雰囲気から読みとれる。
「シャナ!」
やがて馬車に追いつき共に並走する形になるが、この状態では彼女を奪い返すことはできない。方法はある。かなり危険な方法だが、やるしかない。
意を決したレインは、馬を並走させたまま鞍の上に立つと、バランスを崩す前に馬車に飛び乗る。
そしてすぐに態勢を立て直すと、腰にさした剣を抜き、男にまっすぐ向き合う。
「シャナを返してもらおうか」
「ならば力づくで奪い返してみればいい」
不敵な笑いを浮かべる男。腕に自信がある、そう顔に書いてあるようだ。レインとは体型もまるで違う。普通に見るなら男の言葉通り、真正面からぶつかるのは分が悪い。
しかしレインも一歩もその場から引かない。剣を構えたまま、男に詰め寄る。
そして―――――――――。
後ろを向かされていたシャナには、一体何が起こったのか分からなかった。
「え……と?」
気付けば彼女の体はレインの腕の中にいた。戸惑い気味に目線を上げれば、そこにいたのは確かにレイン。だが彼は、今までシャナが見たことのないような険しい顔をしていた。瞳の奥に見えるのは、絶対零度の冷たさ。見た者をその目だけで射殺せてしまいそうなほど殺意に満ちた表情に、視線を向けられたのは自分でもないにも関わらず、シャナは思わず体を本能的に震わせた。
そして普段とはあまりに違う風貌に、目の前の彼が本当にレインなのかどうか自信が持てなくて、思わず名前を呼ぶ。
「レイン……様?」
彼はシャナの言葉に答えず、代わりに腕にぐっと力を入れ、自身の体にしっかりと抱きよせる。それからシャナに向けた顔は、いつものレインだった。もう大丈夫だ、と言われたような気がして、シャナは安心したようにいつのまにか強張っていた体の緊張を解く。
それを確認したのち、レインは再び険しい顔に戻り男に目線を戻した。
「ほう。なかなかやるな」
「鍛錬は欠かしたことがないんでな。それで、お前の命は今、俺が握っている訳だが」
予想以上の早い動きでレインから攻撃をくらったが、決定的な一撃ではなかった。すぐに態勢は立て直したものの、その一瞬の隙でレインはシャナを奪い返し、剣を男の首元に向けていた。鋭い先がわずかに刺さっており傷口から一筋血が流れ出す。
「実際に戦場で命のやり取りをしたことのない坊ちゃんの剣なんぞ、軽く受け流すつもりだったが。俺も弱くなったものだ」
「そんな分析はどうでもいい。目的は何だ」
「言うと思うのか」
「吐かせるさ。あらゆる手段を使ってな」
しかし、男の顔から笑みは消えない。何かを企んでいるような気がして、レインはとりあえず男を拘束しようと足を進めようとして、異変に気付いた。
まっすぐ走っていた馬車が突然、道をジグザグに移動する。その動きにレインは思わずバランスを崩してしまう。
その隙を男が逃がすはずもない。剣が離れると男は素早く御者台へと姿を消す。
「待て!!」
追い掛けようと男の去った方向へ走ろうとするが、揺れが酷くて前に進めない。おまけに腕の中にはシャナがいる。彼女をその場に放置して行くつもりなど、レインには毛頭なかった。
だから彼が男の行動の意図に気付いた時には後の祭りだった。
今まで馬車をひっぱていた二頭の馬が、二人を乗せた馬車を置いてその場から走り去っていく。あの男は、馬車と馬をつないであった連結部分を離したのだ。
彼の他に誰かが乗っているのは分かったが、残念ながら顔も体型も身長も分からない。ただ、白いフードを被った人間、ということだけは分かった。彼らを乗せて遠く彼方へ去っていく様を、レインはただ見ることしかできなかった。
「くそっ!」
だが悪態をついている場合ではなかった。
馬のいない今、馬車は進むべき方向を見失い、ますます大きく左右に揺れながら足場の悪い道を進む。このままでは馬車ごと転倒し外に投げ出される。
そう予測したレインはシャナに向かって、
「今から飛び降りる。怖いなら目をつぶってろ」
そう言い放つと、迷いない動きで、暴走する馬車の上から飛び降りた。
その直後、馬車は脇道に立っていた大きな木に正面からぶつかり、爆音とともに大破する。あのままでは確実に二人の体もぺしゃんこに押しつぶされていたことだろう。
「っく………」
予想以上に降り立った地面が凹凸が激しい場所だったのでうまく着地ができず、背中を激しく地面に叩きつけられたレイン。衝撃を直に喰らい、あまりの痛みに苦しげな声が閉じた唇の間から漏れだした。
「レイン様、レイン様…!!」
シャナが震える声で、彼の名を呼ぶ。レインが庇ったおかげでシャナに怪我はない。
彼女を抱きしめた態勢のまま、レインはゆっくりと体を起こす。
意識もはっきりしていた。背中は確かに痛むが、骨が折れている風でもない。打撲程度で大きな怪我はないだろう。そこ以外に痛む部分も今のところはなかった。
「大丈夫だ。少し背中が痛むくらいで。それよりもシャナの方は怪我はないか?」
見たところ、いたぶられたりした形跡はない。むしろレインの方がよほど満身創痍に見える。
「いえ、特に危害を加えられたということはないのですが……」
「足はどうだ」
彼女が怪我をしていた足に目を向けると、縄はレインが男から取り返してくれた時に斬ってくれていたため今はない。しかし長い時間、治りかけの傷口に当てられていたため、悪化はしていた。それは素人のレインが軽く見ただけでも分かる度合いであった。
「縄がかなり強く食い込んでしまって。お陰でまたベッドから離れられない生活が続きそうです」
「酷いな」
相当痛むだろうことは、想像に難くない。早いところ医師に見せて、痛み止めを渡した方がいいだろう。
「……って、私のことはいいんです!レイン様、血が出てます!お顔にも、それに服にも。無理なさらないで下さい、どこかお怪我をされたんですか!?」
だがシャナは、自身が敵に捕らえられていた時よりももっと辛そうな、今にも泣き出してしまいそうなほどの表情で、レインの右頬に飛んだ血の跡にそっと手を伸ばした。
こんな顔もするんだな…と、シャナの心配をよそに、レインの心の中は、意外なものを見られたものだという驚きで支配されていた。いつもどこか達観している彼女が、自分のことを心配してこんな顔をしてくれる…そのことがレインにとって、なぜかたまらなく嬉しかった。自分のことを気にかけてくれていたんだと、実感できた。
けれど、こんなに不安そうにしているシャナをいつまでもそのままにしておくわけにもいかない。そう思ったレインは、彼女を安心させるような声色で告げた。
「心配するな、俺は至って平気だ。怪我も特にしてない」
「ですがっ……」
「これは…まあ、なんだ、俺のではない。お前を追いかける時に邪魔をしてきた者の返り血だ」
「え……返り血……」
あまり血なまぐさいことは彼女に知らせたくなかったが、自分が怪我をしてないと分かってもらうには真実を言うしかない。そうしないと、その場で着ている服を無理やりにでも引き剥がして確認されそうなほどの気迫があったのだ。
やはりと言うべきか、今までの表情は一変し、一瞬シャナの言葉が止まる。しかしすぐに状況を理解したらしく、もう血のことには触れず、代わりに神妙な面持ちで頭を下げた。
「この度は助けて頂いてありがとうございます」
「……俺がお前を助けるのは当たり前だ。礼を言われることじゃない。例え仮初めの関係であっても必ず助けに行くのが、妻を守る夫としての役割だ。どんな障害があろうと、俺の最優先はお前の命だ」
「レイン様…」
「だが、今回は本当に、間に合ってよかった。もしお前の身に取り返しのつかないことがあったら俺は………」
そこまで言うと、レインはシャナをもう一度しっかり抱き締めた。夢でも幻でもなく、彼女は確かに彼の腕の中で生きている。シャナの体温と息遣いを感じながら、彼はこの幸運を神様に感謝した。
すると、突然のレインの行動に驚いたのか少しだけ息をのんだのが分かる。けれどその後は彼女もレインと同じように、彼の背中にそっと手を回すと、
「私も……レイン様が助けに来てくれて嬉しかったです。本当はちょっとだけ怖かったんですよ。途中までは、私殺されるのかなと思ったりもして。だけどレイン様の声が聞こえた途端、なんだかほっとしました。なんか、あれですね。レイン様はおとぎ話に出てくる王子様みたいですね。ヒロインのピンチの時にさっそうと現れるそんなカッコいいヒーローのような。……まあ、私は、物語の可愛いお姫様には程遠いですが」
「シャナ、お前忘れてないか?みたいじゃない、俺は正真正銘、王子だぞ」
「あ……そうでしたね」
あははと笑う彼女に、やはり自分は男として見られていないと言われたようでレインは軽くショックを受ける。それは、普段から感じていたことではあったが。
「まあ、カッコいいかどうかと聞かれたら、いまいちかもしれないな。俺はお前にみっともないところを見せてばかりだから」
体を離し、拗ねた眼で半ば自虐的にそう言えば、
「それは否定致しません」
少しだけ意地悪な顔でそう返された。けれどすぐに真面目な顔になると、
「冗談です、すみません。………レイン様は確かに女性を見かけると体をぶるぶる震わせるし、恐怖のあまりその場で卒倒しそうな顔になってるし、そもそも最初の印象なんてかっこいいとは程遠いものでしたけど。でも、いつだってレイン様は私のことを気遣ってくれて、今日だって一番に助けに来てくれました。あなた様は誰が何と言おうと、間違いなくカッコいいです」
そう言ってにっこりと笑うシャナを見た途端、レインの心臓の最奥部分が、ぐっと誰かの手で強く握りつぶされるかと思うくらい苦しくなった。苦痛を感じるのだが、ただ苦しいだけではなく、燃えてしまいそうなほど熱くて、それなのに頭の芯を痺れさせてしまいそうな甘美さも備えている。
シャナといる時間が長くなるにつれ、こんな訳のわからない感覚に苛まれることは徐々に増えていたが、ここまで強いものは初めてだった。
この感覚が一体何なのか、レインはなんとなく理解していたが、いまだ彼女に守られるために結婚したという事実から抜け出せていない以上、情けない自分と決別するまでは絶対に抑えてみせる…と誓い、今までは鋼鉄の精神で抑えていたのだが、今日はその自信がなかった。
シャナを誘拐され気が高ぶったからなのかもしれない。
ごちゃ混ぜの感覚に呑まれて、目の前で無邪気に微笑む彼女をめちゃくちゃにしたい、と、レインの存在の更に奥底の暗闇の中に存在するもうひとりの自分が暴れ出そうになるのを、彼は必死に理性で抑える。
「顔が赤いですが大丈夫ですか?」
しかしこんなにも必至でレインが己の中の何かと戦っているというのに、目の前の彼女は相変わらずの無防備な表情で、顔をぐっと近づけると額同士をピタリとくっつける。
「うーん、少し熱いですね…………って、レイン様?どこへ行かれるんですか!?」
顔はすぐに離れたものの、なぜかレインはすくっと立ち上がると道を逸れて木々の奥へと消える。それから何か固いものがぶつかったような音がしたかと思ったら、ゆっくりとした足取りで彼が戻ってくる。
そして帰還した彼の額からは、なぜか血が一筋流れ出ていた。
「ちょ、あの、頭から血が……!?」
当然シャナは驚いたように声を上げたが、当の本人は至って冷静な声と表情で
「問題ない。頭を冷やしてきただけだ」
「冷やす!?意味が分からないんですけど…?というかお怪我されていますけど…」
「気にするな、ちょっと戦ってきただけだ」
「えと、敵がいた、ということでしょうか」
残党でもいたのだろうか…と状況がつかめないシャナが困惑気味に尋ねると、レインは少しだけ言葉を詰まらせながら視線を逸らし、彼女の質問に対して肯定の返事をする。
しかしそれ以上のことは何も語らず(というより聞いてほしくなさそうな顔をしていたので)シャナはレインの頭の流血について尋ねることを諦めた。
再びシャナの前にしゃがみこんだ彼は、自分の着ていた服を躊躇いなく破ると、シャナの怪我が悪化した足の部分に巻きつけた。ついでに余った布で頭から流れる血を拭うと、
「間もなく俺の後を追ってきている応援が来る。とりあえずは傷の手当てが先だな。ここはその者たちに任せて、戻るか」
「はい」
そう返事をしたシャナは、あろうことかその足で自力で立ち上がろうとする。だが予想以上の痛みに途中で動きが止まってしまう。
「無理するな」
「い、いえ、これくらいは別に」
「脂汗が出ているが。いいからお前は大人しくしておけ」
レインはひょいとシャナの体を抱えると、先ほど来た道を戻る。
もう一人の自分を力づくで抑え込むことに成功したレインは、シャナの体が自分の腕の中にあるという事実にももう動揺することなく、身じろぎするシャナに構わずどんどん歩いていく。
「レイン様、私歩けますので、お、お姫様だっこは恥ずかしいです!それに重いですし……」
「知ってる」
「知ってる!?」
「……というか、覚えてないだろうが、熱で倒れた時も怪我した時も、意識を失ったシャナを俺は同じ抱き方で何度も運んでいる。だからお前の体重は知ってる。あ、あと勘違いしてそうだから言うが、お前は別に重くない。むしろもう少し肉をつけた方がいい。軽すぎるぞ」
「……そ、う、だったんですね。でも意識があるとやっぱり恥ずかしいですね」
「何を恥ずかしがることがある。俺が王子なら、お前はお姫様だろ?だからこの抱き方だって間違っていない。堂々と俺に抱かれていろ」
「……………あの、そういう台詞は、ちょっと、いえ、大分心臓に悪いです。さすがにこの態勢でそんなことを言われたら私でも顔から火が噴きそうなほど恥ずかしいんですけど…!」
珍しくシャナがうろたえている。顔どころか耳まで赤いから、恥ずかしがっているというのは間違いじゃないらしい。
不意打ちの見たことのないシャナの様子に再び何かが奥底から込み上がって来そうになったが、やはり先ほどよりは冷静なようで、その何かを意識の最奥に押し込むと、表向きは何でもない風を装いながら暗い道を進んでいく。
やがて道の先に、彼の馬が主人を待っていたかのように道の端に止まっているのが見えた。レインはシャナを抱いたまま馬に跨ると、屋敷に向けて一目散に駆けて行った。




