THE W と粗品の話。
存在は知っていたが、これまで見たことがなかった大会「THE W」。昨晩、初めて途中から見た感想を少し。
「女芸人No.1決定戦」と銘打たれた大会のようだが、ピンとコンビを同列に扱う方式にまずビックリ。筆者は「とんでもあや」という、放送事故のようなピン芸人のネタ途中から視聴したのだが、審査員の面々にも唖然。
各ブロックの暫定ないしは勝ち残りと、ひとネタごとに比較し、投票するシステムのようだが、とんでもに二票入り、「正気か?」となった(先に暫定席にいたコンビはどんなネタをしたんだ?)。
その後、紺野ぶるまが登場し、安心したわけだが、大会全体を通して気になったのが、「粗品、お前は何様になったつもりだ?」という点。
粗品といえば、「ピン芸60点、コンビ芸70点芸人」だが、よしもとの強烈な後押しからタイトルホルダーにされてしまった、ある意味、悲運の芸人でもある。
小藪、ラッセン永野、とろサーモン久保田、三浦マイルド、中山功太などのいわゆる「ルサンチマン芸人」の系譜に連なる男だが、なまじっかM-1最年少王者などの箔をつけられてしまったため、未だに絶賛迷走中であるらしい。
攻撃的な人間というのは、得てしてメンタルに非常に脆い部分を抱えており、それを守るための「過剰防衛」が攻撃性に繋がるわけだが、粗品もこれに漏れない。相手から攻撃される前に攻撃し、反撃されないために、必死に踏みつける。
これまでは自分よりも上の立場にいる人間に対する噛みつきであったため、見逃されてもきたわけだが、いよいよ審査員という「上からの立場」で踏みつけを始めたものだから、許容範囲も超えている。
どの寸評も、ロジカルにネタの構造的欠陥を指摘しているように語っていたが、致命的なズレとして、なぜか「自分はセンスのある人間」というスタンスから論じていたのも気になった。
ロジックに走るのは「感性が鈍いから構造で誤魔化す」人間の習性であり、笑いの波の配置論は、天才にはなれない秀才の戦術でしかない。ノンスタイルの石田は、これに自覚的なわけだが、粗品はそれでも天才を演じようとしており、少々精神が錯乱しているようにも映った。
ハイライトは「客の質の低さ」の指摘か。
性質の悪い固定ファンのおかげで、ギリギリ生き残っている芸人が、他人の客の質の低さを指摘していたのは、いったい何の冗談だったのだろうか。これに対し、ギャル芸人がガチギレし、「出て行け!」と言っていたシーンは、さすがに手を叩いて笑ってしまった。
そもそも大会というのは、大前提としてプレイヤーのものである。なぜイチ審査員でしかない男が、主役面し、ひとりで大会を掻きまわしていたのか。あの松本人志ですら、ここまでの厚顔は見せてこなかったわけだが、粗品に至ってはほとんど腫瘍みたいな状態になって、大立ち回りを演じていた。よくもまあ、こんなモンスターをよしもとも作り上げたものである。
バカは「偉そうな人間」を偉いと勘違いする。
だから偉そうに振舞うバカも増えるわけだが、たまにそれに加担する勢力が現れ、「バカの祀り上げ」が行われると、こういった醜悪な妖怪が社会に産み落とされる。上は首相から、下は芸人まで。よくもまあ、こんなのばかりが、のさばる社会になったものだ。この永遠の世紀末感は、国家の窒息の気配ともリンクしているのかもしれない(なんかいきなり話がデカくなったな)。
個人的には、シンプルにエルフが優勝で良かったんじゃね?という感想。個の力量でいえば、紺野ぶるまだし、ニッチェは敢闘賞くらいの評価か。
あと、やたらとよしもとの審査員が多いなと思ったら、よしもとと日テレの共同主催の大会なのね。そりゃ、まあ粗品も偉そうに振舞えるわけだわ……。
粗品の振る舞いを見ていて思い出したのは、プロ野球の球審・白井か。あいつもプレイヤーを差し置いて、自分を主役に置きたがる勘違い審判なわけだが、黒子になれないのは、二流・三流の証しであると、一生気付くことが出来ないのも、おそらくこういった人種の共通点なのかもしれない。
構造論の話をしだすと、ミルクボーイのテンプレがひとつの完成系。テンポと数で誤魔化す、ノンスタ、霜降りの方式は、永遠に90点の出ない戦術なのだから、あまり自慢げに語るべきロジックでもない。
あと低学年のこどもたちに対し、五・六年生の理論で説教する姿も、自己客観性の眼鏡が壊れているとしか言えない。




