薬師と調香師
「せっかくのお休みなのに、こんな老いぼれと一緒で良かったのかしら」
グラスから滴る水が、テーブルに水たまりを作る。クリスティが目の前に座るマリアを見つめると、マリアはにこりと微笑んだ。
「せっかくのお休みだからこそ、ゆっくりお話したかったのです」
(本当に、嬉しいことを言ってくれるわね)
クリスティは、先日初めて訪れたレストランでマリアとランチを楽しんでいた。
昨日まで港町に旅行していたというマリアのお土産を受け取る代わりに、ランチをご馳走したい、とクリスティが申し出たのだ。はじめは遠慮していたマリアも、クリスティが申し訳なさそうにしている姿にいたたまれなかったらしい。結局、クリスティの泣き落としが成功し、マリアはそれを渋々ながら承諾した。
レストランは相変わらず品の良い味で、マリアとクリスティの舌を満足させた。
「せっかくだから、家に寄っていってちょうだい。好きに見てくれてかまわないわ」
クリスティの言葉に、マリアは小さく頭を下げる。
「それじゃぁ、お言葉に甘えて……」
「えぇ。遠慮しないでちょうだい。あなたはもう、孫みたいなものだもの」
クリスティは美しく輝くエメラルドグリーンの瞳をきゅっと三日月型に細める。目尻に刻まれたしわが、クリスティの優しさを際立たせた。
レストランの会計をクリスティが払うと、マリアは深く頭を下げる。
「やだ。私からお願いしたんだもの。顔を上げてちょうだい。お土産代と思って」
「ありがとうございます、クリスティさん」
「ふふ、良いのよ。私がマリアちゃんにしてあげられるのは、これくらいだもの。素敵なお土産、ありがとうね」
マリアから受け取った紙袋をクリスティは軽く持ち上げる。中には、南の島で採れるフルーツが入っている。港町らしいお土産だ。食べ物であれば、クリスティが扱いに困ることもないだろう、とマリアは考えたのだった。
レンガ造りの町並みを歩き、二人は見慣れた扉の前で止まる。
「お邪魔します」
マリアがペコリとお辞儀すると、クリスティはにこやかにうなずいた。マリアにとっては三度目の訪問だ。何度見ても、クリスティの家は美しい。マリアは濃い緑が影を落とす部屋を見つめた。
クリスティがお茶やお茶菓子の用意をしている間、マリアは再び、クリスティの調香部屋を見ていた。珍しい釜が気になっていたのだが、クリスティに話を聞くと、どうやら香りを抽出するために作った専用の釜らしい。マリアが普段鍋でやっている方法だが、釜の容量は大きく、より効率的に抽出することが出来そうだった。
「あら……?」
マリアは見慣れない瓶に目を止めた。ミントグリーンの液体が美しい。
「カントスさんの精油と、同じかしら」
カントスに、植物から色を採る方法を教えたのはクリスティだったはずだ。それであれば、同じ方法を使っていてもおかしくはない。マリアは思わずその瓶を手に取った。
「……イニュラの香り?」
聞いたことのない単語にマリアは首をかしげた。
「あら、見つかっちゃったわね」
いたずらがばれてしまった子供のような、そんな笑みを浮かべたクリスティが、入り口に立っている。
「すみません、勝手に……」
「いいのよ。好きにしてくれてかまわないわ。その精油が気になる?」
クリスティの問いに、マリアは素直にうなずいた。クリスティは机の下から椅子を引き出すと腰をかけ、マリアにも座るよう勧めた。
「イニュラは花の名前よ。珍しい花でね、この辺りだと南に浮かんでいる島々に生えているの」
「それじゃぁ、港町で手に入ったかもしれませんね。少し残念です」
クリスティの説明に、マリアは惜しいことをした、と顔をしかめる。
「色と香りは……ちょっと待ってね」
クリスティは、椅子から立ち上がると、後ろの薬棚の扉を開ける。
「この上にあるのがそうよ」
クリスティが指さした先には、美しいブルーグリーンの瓶が置かれている。マリアの瞳がキラリと輝く。
「イニュラはね、抽出する容器の材質や、その時々の状況によって色が変わるの。同じ色は一つとしてないのよ。綺麗でしょう」
クリスティの説明に、マリアはブンブンと首を縦に振る。そんな植物があるだなんて、知らなかった。
「香りは、薬品みたいな香りよ。カンファーの香り、といったら分かるかしら」
「クスノキですね」
マリアはクスノキ独特の、シャープで爽やかな香りを思い浮かべる。確かに、薬品臭い、といえばそうかもしれない。
「イニュラは、呼吸器系の症状を緩和させる薬の役割があるの。咳が長引く時や、気管支がつまっている時なんかは、特に良いのよ」
「へぇ……」
マリアはクリスティの話を一言一句聞き逃さぬよう、しっかりとメモを取った。
祖母は、薬師と調香師の境目がまだ曖昧な頃に、調香師として生計を立てていた。祖母は、精油は薬ではないと言った。精油は、壊れてしまったものを治すことは出来ない。整えるだけだ、と。それゆえに、クリスティの話は興味深かった。
「とはいっても香りだもの。薬のように、完治させることは難しいわ。でもね、私は薬師として、自分にできることなら……それで、少しでも助かる命があるなら、なんだってやった。調香も、その一つよ」
「この香りには、他にもたくさんの香りを混ぜているのよ。ユーカリにオレガノ、フランキンセンス。ペパーミント、セイボリー、ローレル。どれも、風邪の症状を緩和させたり、呼吸をやわらげたりする作用があるの」
クリスティはそう言うと、瓶のフタを開けた。
「香りとしては、ほとんどハーブと薬品の香りよ。甘さはほとんどないけれど、歳をとるとこれくらいがちょうど良いの」
ふわりと爽やかなハーブの香りが漂う。少しピリっとした辛みと、かすかに香る甘みが心地よい。確かに、すっと空気が通るような、そんな気がする。
「すごい……。クリスティさんの香りは、本当にお薬みたいですね」
「ふふ。香りは、あくまでも体を整えるだけ。でも、薬にはない、不思議な力もあると思わない? 薬は、体を癒すものだけど……香りは、心を癒してくれる」
クリスティはどこか遠くを見つめた。その表情はどこか儚く、マリアの心をざわつかせる。マリアはその気持ちを誤魔化すように、メモへペンを走らせる。
「祖母も、生前は同じようなことを言っていました。精油は、薬ではない。助けられないものもある、と」
「えぇ。そうね。私も、そう思うわ。でも、人間だもの……。いずれ、薬以外にも、すがりたくなるものよ」
まるで独り言のように、ぼそりとクリスティは呟く。マリアは、そんなクリスティの姿に、胸を締め付けられる。
(祖母も、同じように思っていただろうか。だからこそ、調香師は……時を売るのだと、言ったのか。人の祈りや、思いを、少しでも記憶にとどめられるように……)
「ごめんなさい。なんだかしんみりしてしまったわね。最後に、これだけは覚えておいて」
クリスティは、マリアを見つめる。その瞳には、確固たる信念のような、強い気持ちが滲んでいる。
「薬に救われる人がいるのと同じように、香りに救われる人もいるのよ」
クリスティの微笑みは、泣いてしまいそうになるほど、綺麗だった。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回は、薬師と調香師の視点から「香り」について書いたお話となりました。
マリアが様々な角度から、「香り」についてたくさん学んでいく様子をこれからもあたたかく見守っていただければ、と思います。
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