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調香師は時を売る  作者: 安井優
調香師との出会い クリスティ編

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イニュラの香り

 家に戻ったクリスティは、調香用の部屋に向かった。棚に置かれたいくつかの瓶に手を伸ばす。調香は、一週間ほど前に依頼を受けたきりだ。ずいぶんと久しぶりになってしまったような気がする。しかし、若い時に身につけた知識や技術、そして長年(つちか)ってきた経験は(おとろ)えることなく、今もクリスティの頭と体に染みついている。


 ユーカリ、オレガノ、フランキンセンス。呼吸器系に効果があるとされているものだ。呼吸をやわらげることで、胸の圧迫感や緊張感がほぐれれば、とクリスティはそれらの瓶を机の上に並べる。特にオレガノは、風邪などの症状にも良い。クリスティはペパーミントにも手を伸ばす。夏の日差しでほてった体を冷ますのにはちょうど良い。


「そうだわ。セイボリーがあったわね」

 クリスティは、リビングから中庭へ出る。庭にはたくさんの植物が育ち、緑が陽の光をあびて美しく輝いている。サンダルを履き、庭の端に生えている草の前でしゃがみこむ。虫刺されに使用できるハーブで、この時期は重宝する。確か、先日摘み取って香りを抽出したものがいくつか残っていたはずだ。たくさん摘む必要はないだろう。


 クリスティは、剪定(せんてい)ばさみとカゴを手に、セイボリーの葉を丁寧に摘み取っていく。紫色の小さな花がかわいらしい。クリスティは、花を散らさないように、ゆっくりとはさみを入れていく。カゴの半分ほど摘み取ると、クリスティは額の汗をそっとハンカチで拭って、リビングへと戻った。


 グラス一杯の水を飲み、再び調香の部屋へと戻る。

「この時期のこれだけは、本当に勘弁してほしいものだわ」

 クリスティは今からやらねばならない作業を思うと、自然とため息をついてしまう。暑い時期に、水蒸気蒸留法で香りを抽出するのは、何度やっても慣れるものではない。それでもやるしかないのだから、とクリスティは覚悟を決めた。


 お手製の釜にセイボリーの葉を入れ、マッチで火を起こす。釜の下に置かれたかまどに火をくべ、クリスティはそっと息を吹きかけた。火は新聞紙から細い枝へと移り、徐々にその上に重ねられた太い木へと広がっていく。調香の部屋に備え付けられた大きな窓を開ければ、後は放っておくだけだ。

「暑いわね……」

 クリスティは深いため息を一つつくと、リビングに置かれたグラスに水を注いだ。


 クリスティは、調香の部屋へ戻ると薬棚を見回す。確かまだあったはずだ、と視線をさまよわせる。お目当てのものを見つけ、薬棚に立てかけられていた脚立(きゃたつ)を開く。倒れてしまわないようにしっかりと固定し、足をかけた。

「まだ大丈夫そうね。良かったわ」

 クリスティは、瓶の中で揺れる美しいブルーグリーンの精油に目を細めた。


 瓶の中に入っているのは、イニュラの精油。古くから呼吸器に効く薬用ハーブとして知られているが、あまり出回らず、貴重なものだ。昨年の秋ごろにたまたま街の広場へ訪れた際に露店商が売っているのを見かけたときは、驚きのあまり声を上げてしまった。細々とした生活を送る老人には少し痛い出費だったが、薬師としてその精油を見逃すことは出来なかった。


 イニュラが貴重な理由は、その植生(しょくせい)にある。王国の南側に位置する海。そこに浮かぶいくつかの島々に生えているものだが、毎年、芽の出る場所が変わるという。イニュラという花の一生はたった一年。一年の間に発芽し、花が咲き、枯れていくのだ。そして、翌年には違う場所から発芽する。なんとも不思議な植物である。そのせいか、採取が難しい。それに加えて、精油にし、海を渡ってこの王国まで届けなければいけないのだ。ましてや必需品ではない。イニュラの精油に出会えたのは、奇跡としか言いようがなかった。


 クリスティは、イニュラの精油が入った瓶を開け、たっぷりと香りを堪能する。決して良い香り、とは言い難い。薬品くさく、シャープな印象だ。しかし、薬師のクリスティにとってはどこか身近な香りだった。

「香りも残ってるわね」

 クリスティはそれを確かめると、瓶のフタをしっかりと閉めて、机の上に置いた。


 最後に、ローレルを手に取ると、クリスティは満足そうに口角をあげた。新しい小瓶とラベルを引き出しから取り出す。机の上に置かれたペンをインクに付け、取り出したラベルにサラサラとペンを走らせる。『イニュラの香り』とだけ記載して、瓶にそのラベルを貼り付けた。


 机の上に並んだ精油を一滴ずつ丁寧に、小瓶へと移し替えていく。ユーカリのフレッシュな香りと、イニュラのすっきりとしたシャープな香り。そこにオレガノの甘く、スパイシーなハーブ臭が混ざる。これだけでもいつもよりもすっと空気の通りが良くなったような気がする。ローレルの、ローズマリーにも似た爽やかな甘さが漂ったかと思えば、フランキンセンスのウッディな香りが広がり、クリスティを包み込む。


 効能や作用から考えて作った香りのため、どこか一辺倒(いっぺんとう)な部分はあるが、自分が使うだけなのでそこは大目に見ることにする。すっきりとしたハーブの香りに、どこか薬品独特の苦みが混ざる。普段は甘い物が大好きなクリスティだが、あえて甘さは控えめにする。こういう場合は、かすかに甘く香るくらいがちょうど良い。爽やかでスパイシーな香りを良く引き立てている。


「そろそろ、セイボリーも良いかしらね」

 氷の張られたバケツの中に入っている瓶を持ち上げ、クリスティは瓶についた水滴を軽く拭きとる。瓶の口につけられたホース付きのコルクを外し、瓶に鼻を近づける。

「うん、これなら使えるわね」

 上澄み液だけを上手くすくい取り、先日作ったセイボリーの精油に加える。それを軽く振って、先ほどの新しい小瓶にスポイトで一滴たらす。


 ピリッとしたハーブの香り。先ほど作ったものにもぴったりだ。より薬品臭に近づいてしまった気がしないでもないが、どうせならこれくらいの方が効果もあるだろう。クリスティは瓶のフタをしっかりと閉め、軽く左右に揺らす。イニュラのブルーグリーンは薄まり、ミントグリーンのような淡い色へ変化している。見た目にも爽やかな香りの完成だ。


 少しでも、この体調が良くなればよいけれど。クリスティはかまどを片付けながら、先ほど作った精油に視線をやる。アロマオイルはあくまでも、補助の役割だ。薬ではない。もちろん、体に作用する力もあるし、その効能を見極めて作ってはいるが、完全な回復を(うなが)すには難しいことも分かっている。しかし、それでも調香を続けるのは、ある意味薬にはない、何か不思議な力を持っている、とクリスティが信じているからに他ならない。


 念のために、自らが作った薬もいくらか箱から取り出して、精油と一緒にベッドサイドに置いておく。外はすっかり陽が落ち始め、夕暮れを過ぎ、空は紺色に染まり始めている。

「年を取ると、時間の進みが早くなるっていうのは本当ね」

 クリスティはかまどの(まき)を窓の外から庭へ捨てると、小さく呟いて窓を閉めた。


 晩ご飯を食べ、風呂に入り、クリスティはベッドに腰かけた。ランプに火をくべると、柔らかな光で精油が淡く緑色に輝く。今朝の胸のぼんやりとした痛みも、昼間の倦怠感(けんたいかん)も今は消えている。ずいぶんと心も穏やかで、今日は久しぶりに良く眠れそうだ。クリスティは瓶のフタを開け、たっぷりと息を吸い込んだ。爽やかなハーブの香りが、鼻を抜ける。気持ちの問題かもしれないが、やはり呼吸が少し楽になるような、そういう香りだった。


 クリスティは、薬師として、精油だけではどうにもならないことを知っている。しかし、調香師として、薬もまた、心を癒すには難しいということも分かっていた。体と心のバランスがとれてこその、健康。クリスティはそう考える。

「香りは、心を癒してくれる薬なのかもしれないわね」

 その夜、クリスティは久しぶりにぐっすりと眠りについた。


 ベッドサイドに置かれた精油瓶は、月光に照らされ、優しく、宝石のように輝いていた。

いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!


今回は、クリスティの調香回となりましたが、お楽しみいただけましたでしょうか。

イニュラという植物については、活動報告でもう少し詳しくお話しております。

ご興味ありましたらぜひ、そちらものぞいてみてください。


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