運命の出会い
食事を終えたマリア達は、次はどこへ行こうか、と話をしていた。
マリアは、リンネにミュシャを紹介しようと洋裁店へ行こう、と提案したのだが、
「ミュシャの新作があったら買っちゃうもん! 私、今日、そんなにお金ないし……見つけたのに買えなかったらしばらく眠れないよ! だから、また今度にしよ! お給料日が来てから!」
と断られてしまった。
まさか本人がいるなんて思ってもいないだろう。本人がいたら、それこそ有り金すべてを渡してしまいそうだが。マリアも、リンネの様子にそうした方がよさそうだ、と思い直し、それじゃぁ、と次の行先を考える。
そんな時だった。
「あら、マリアちゃんじゃない!」
マリアに声をかけてきたのは、アイラの母親だった。
(そういえば、アイラさんに手伝ってもらったのに、そのあと報告に行くのを忘れていたわ)
マリアは、アイラの母親を見て思い出す。
ライラックの香りは取り出せたものの、商品化まではできなかったうえ、ガーデン・パレスへ行くことになったことで、アイラへお礼を言いに行くタイミングをすっかり逃していたのだ。
「お友達?」
アイラの母に、リンネは
「リンネです。ガーデン・パレスで働いてます!」
と笑顔で挨拶する。アイラの母親も、にこりと会釈をし、リンネと立ち話を始めた。
「マリアちゃんのところとは家族ぐるみでずっと仲良くさせてもらっていてね」
「へぇ。いいですね! 私は、ずっと田舎の方で育ったから、そういう人もいなくって」
「あらあら。それは大変ね」
二人の会話は、しばらく終わりそうになかった。
マリアがどうしようか、と二人を眺めていると、アイラの母親が何かを思い出したように言った。
「そうだわ! マリアちゃん、珍しいものが入ったのよ。ほら、うちの主人って甘いものに目がないでしょ。なんでも最近ね、すごく甘い香りの豆を買い付けたとかいって。アイラも、マリアちゃんが絶対に喜ぶから取っておいた方がいいっていうのよ」
「甘い香りの豆?」
マリアは首をかしげる。
「えぇ。チョコレートなんかに入れると良いんですって。少し値は張るんだけど、マリアちゃんならきっと気に入ると思うわ」
話を聞いていたリンネは面白そうだと思ったのか、
「それじゃあ、さっそくアイラママのお店に出発!」
と言って、歩き出した。マリアとアイラの母親は顔を見合わせる。
「リンネちゃん、そっちじゃないわよ」
アイラの母親にそう言われ、振り返ったリンネは苦笑いを浮かべた。
街の広場から少し西へ行ったところ。古い町並みの残るその通りに、アイラの両親が経営する商店がある。アイラの父親の旅行好きが高じて始めた店というだけあって、店の中には珍しいものから、どう使うのか分からないようなものまで、様々な商品が並んでいる。リンネは店内の様子に驚きを隠さず、口を開けたままあたりを見回している。
「おお、マリアちゃんか」
店の奥から出てきたアイラの父親は———以前あったのは、一年ほど前だと思うのだが、変わりない。口元にたくわえたひげと、大きなおなか、そして少し生え際の薄い髪。マスコットキャラクターのような見た目は、街の人からも大人気だ。
マリアはアイラの父親に頭を下げる。
「お久しぶりです。お元気そうで良かったです」
「うんうん、マリアちゃんも元気そうだね。ところで、今日はトンカビーンズを買いに来てくれたんだろ?」
アイラの父親は、手のひらサイズの缶を取り出した。原色で塗られた缶は、異国情緒たっぷりだ。
「トンカビーンズ?」
聞きなれない名前に、マリアだけでなく、リンネも首をかしげる。
「甘い香りのする豆でね。三年に一度しか実をつけないって噂もあるらしい」
「へぇ、すごい。それ見せてもらってもいいですか?」
マリアの隣で待ちきれない、というようにリンネは目を輝かせた。アイラの父親は上機嫌で
「もちろん。それじゃあ、開けてみせよう」
そう言って、缶のフタをゆっくりと開ける。アイラの父親があまりにもったいぶった開け方をするので、マリアとリンネの鼓動はどんどんと高まっていく。
「わ……」
缶が開いた瞬間の、甘く、しかしほろ苦いその香りに、マリアとリンネは顔を見合わせた。二人は、チェリーブロッサムの入っていた瓶を開けた時のことを思い出した。
「どうだい、これはすごいだろう」
「売ってください!」
アイラの父親が言い終わる前に、マリアは声を上げた。
トンカビーンズ……ただしくは、トンカビーンズとそれを挽いたパウダーの入った缶を大事そうに抱えたマリアに、リンネは問いかける。
「結構高かったのに、本当に良かったの?」
リンネからしてみれば、いくら珍しいとは言っても、しょせんは豆だ。それなのに、マリアは迷いなく洋服が一枚買えるくらいの金額を支払った。その決断のスピードには、アイラの父親も目を丸くしていた。
それくらい、マリアにとっては必要なものだったのだ。
「いいの。運命の出会いなんだもん」
マリアは珍しく子供っぽい言葉遣いで、さらにその缶をぎゅっと胸元に抱きしめた。
マリアとリンネはしばらく街を見て回った。
リンネの知り合いだという花屋に立ち寄り、しわくちゃのおじいさんが一人で切り盛りしている古本屋に行き、マリアの好きなパン屋で小腹を満たす。気づけば、街灯に火をくべる男が働きだし、街は夕焼け色に染まっていた。
「あっという間だねぇ」
リンネは先ほど買ったパンをつまみながら、どこか名残惜しそうに口にする。マリアが満足そうにうなずけば、リンネは笑った。
「女の子と一緒に遊んだのって、久しぶり。本当に楽しかったよ、マリアちゃん」
「私も。それに、運命の出会いもあったしね」
マリアはまるで我が子のように、胸に抱えた缶をなでる。
「このまま、マリアちゃんがずっとガーデン・パレスにいてくれたらいいのに」
リンネの言葉が聞こえたのか、それとも聞こえなかったのか
「また遊ぼうね、リンネちゃん」
マリアはそう言って微笑んだ。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
少し余談ですが、トンカビーンズについてご紹介します。
トンカビーンズは桜餅の香りがすることで有名な豆ですが、これは、桜と同じ「クマリン」とよばれる成分に由来します。
身近なところでは、クリスマスによく出回るシュトーレンの香りづけに使われているそうですよ。
お菓子みたいな甘さとパウダリーな上品な香りです。
どこかで見かけた際はぜひ、その香りを楽しんでみてくださいね。
20/6/21 段落を修正しました。




