マリアとケイとカモミール
公園のベンチに腰掛けたところで、二人の手が離れた。互いにその熱に名残惜しさを感じるが、それを口に出すことはない。それ以上の幸福感に満たされているのである。
舞い上がった気持ちをなんとか落ち着けているケイの隣で、マリアはカバンから小さな紙袋を取り出した。
「あの、ケイさん。実は、私からも贈り物が……」
マリアがそっと紙袋を差し出すと、ケイは目を丸くした。まさか、マリアからプレゼントをもらえるだなんて、夢にも思っていなかったのである。もちろん、マリアからデートの手紙の返事をもらった時から、万が一、いや、それ以上のわずかな奇跡に心のどこかで期待していたことは間違いない。とはいえ、それはケイにとっては夢物語に過ぎなかったのだ。
「このまま、タイミングを逃してしまうのも、嫌だったので……」
マリアはそういうと、ケイの両手に紙袋を押し付ける。マリアにしては珍しい押しの強さだが、その手は震えていた。
ケイは、そっと紙袋をマリアの手から受け取る。見た目に反してずしりと重いのは、中にガラス瓶が……それも、液体の入ったガラス瓶が入っているからだろう、とケイは察する。紙袋越しに伝わる冷ややかな感触も、その予感を確信に変える。
「開けても、いいか?」
ケイが尋ねれば、マリアはこくりとうなずいた。
ケイは、紙袋の口をガサリと開け、中に入っていた小瓶に手を伸ばす。取り出して日の光に透かせば、チラチラと中の液体が輝く。フタについた小さな青色の宝石も、スモークがかった香水瓶も、派手過ぎず、おしゃれである。
「綺麗だ……」
ケイが呟けば、隣でマリアもほっと胸をなでおろした。
香水などつけたことのないケイは、少し緊張の面持ちでそのフタをそっと開ける。ケイはその瞬間にふわりと鼻を抜ける香りに、目を見開いた。
「これは……」
カモミールだ。ケイはその香りをたっぷりと吸い込んだ。
軽やかですっきりとした香り。甘さと、干し草のような、どこか懐かしさを感じさせる香り。
ケイはすっかり、昔のことに思いを馳せていた。
(思えば、初めて会ったあの時から……)
マリアのことが気になっていた。今だからこそ、ケイはそう思う。
王妃様の調香をしている人間、というからどんな人物だろうかと少しかまえていた部分もあったのに、そんな毒気を抜いてしまう可愛らしい女性。ケイの疲労を見抜き、わざわざ用意してくれたジンジャーカモミールティーは格別に美味かった、とケイは思い出す。
二度目は偶然の出会い。レモンバームの爽やかな香りと、カモミールが相まって、夕暮れ時、小高い丘でマリアの名前を呼んだあの日を思い出させる。
マリアでなくても、ケイは声をかけていただろうか。そう考えて、いや、とケイは内心で呟く。
(俺は、マリアだからこそ……声をかけたのか)
ほとんど無意識だった。そもそも、あの日はマリアのことを考えていたのではなかったか。何かカモミールティーのお礼をしなければ、と思っていたのだが、もう、その時点で恋に落ちているようなものだ。あの頃のケイは、そんなことには微塵も気づきはしなかったが。
ふわりと追いかけるようなウッディ調の香りが、イランイランの甘美な香りを引き締め、後ろ髪をひかれるような、少しだけ名残惜しさを感じてしまうような、そんな香りがケイを包んだ。
(マリアみたいだな)
ケイは隣で一緒に香りを楽しんでいるマリアを見つめる。
(優しくて、柔らかで……それでいて、嫌味っぽくなく、落ち着いていて……)
マリアの良いところを上げればキリがないとはわかっていても、思わずにはいられない。
(愛しくて……結局、マリアのことばかりを考えてしまう)
ケイの視線に気づいたマリアは、頬を赤らめて、すぐさまケイから視線を外した。
「あ、えっと! その、カモミールの香り、なんですけど……。どう、ですか?」
二人の思い出の香り。二人の時を、春に刻む香り。
「あぁ……俺の、好きな香りだ」
ケイの言葉に、そらした視線を再びケイに戻したマリアは、心の底から安堵したようだった。大きく息を吐き出すと、
「良かったです……」
と嬉しそうにはにかんだ。
ふわりと風が二人の間を通り抜け、香水瓶から再びカモミールの香りが漂う。
ケイは、そうか、とマリアを見つめて思う。
「俺は、マリアの時を、もらったのか」
同じ時間を過ごした時間も大切なプレゼントになる、とエトワールがつい最近、教えてくれたことだ。ケイはだからこそ、マリアを食事に、と考えたのだが、どうやら、大切なことを忘れていたのかもしれない。
ケイの言葉に、マリアは少し恥ずかしそうにしながらも、ゆっくりと口を開く。
「私はもうすぐ旅に出てしまいます。ケイさんとも、今までのようには会えなくなってしまうと思うんです。でも……」
マリアの視線がケイを捉える。
「この香りがあれば、ケイさんに、思い出してもらえるかなって」
重いですかね、と苦笑するマリアを、ケイは抱きしめてしまいたい、と思う。もちろん、そんなことは出来ないのだが。代わりに、その香水をそっと握りしめて
「思い出しすぎて、逆に困ってしまいそうだな」
とケイが笑えば、マリアはボンッと顔を赤らめた。
慣れない香水を一吹き。マリアに教えてもらいながら、ケイはその香りを身に纏う。
「変じゃないだろうか?」
ケイが尋ねれば、マリアは目をキラキラとさせて何度もうなずいた。
「すごく、素敵です!」
「そ、そうか……」
マリアが言うなら間違いないのだろう、とケイは照れ隠しに頬をかいて、視線をそらした。
(それにしても……)
マリアは、ケイから香るカモミールの香りにうっとりと目を細める。
今まで、ライラックの香りが一番好きだ、と思っていたが、ケイから香るカモミールの香りは、それ以上かもしれない。ケイが体を動かすたびに、花開くような瑞々しさが漂って、マリアの胸がキュンと締め付けられるのだ。
(おばあちゃん、私……)
マリアがそっと目を閉じる。脳裏に浮かぶのは、いつも見るような追いかけ続けてきた祖母の背中ではない。マリアが幼いころから見てきた祖母の穏やかな笑みであった。
「マリア?」
どうかしたのか、とケイに尋ねられ、マリアは我に返って首を横に振る。
「いえ、なんでも!」
マリアの晴れ晴れとした笑みに、ケイもつられて笑った。
「そろそろ行くか」
ケイは立ち上がり、マリアの方へ手を差し伸べる。
「はいっ!」
マリアはその手をそっと握った。足を進めれば、ケイからふわりとカモミールの香りが再び漂う。
二人の出会いを彩ったように、これから先もずっと、カモミールの香りが、二人の思い出を彩るのだろう。
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今回で開花祭編もおしまいです~! マリアとケイの恋の結末、お楽しみいただけましたか?
次回からの新章でお話もおしまいとなります。ぜひぜひ、最後までお楽しみいただけますと幸いです!
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