アーサー
マリアが姿勢を正すと、シャルルの顔つきも真剣なものになった。ティーカップを置き、シャルルはゆっくりと一つ息を吐きだす。
「さて、と。マリアちゃん、今から話すことは、できれば僕たちだけの秘密にしておいてほしい」
シャルルの言葉に、マリアはうなずく。
「ケイやカントスにも、もちろん、マリアちゃんのお友達にもね」
シャルルの瞳は笑っていない。マリアはその鋭い視線に、思わず背筋が凍るような、支配されて、飲み込まれてしまうような、そんな心地だった。
「どのような、ご依頼でしょう」
マリアがごくりと生唾を飲み込んで、ようやく声を振りしぼる。シャルルを見つめると、彼のブルーの瞳は逡巡した後、ちらりと刹那に瞬いた。
「僕の母の、記憶を取り戻してほしい」
シャルルの声は、シンと静まり返った客間によく響いた。
「……え?」
マリアにはまるで、時が止まったかのような、長い一瞬だった。
シャルルが曖昧に微笑み、理解の追い付いていないマリアに向かって再び口を開く。
「話せば、少し長くなるんだけど……。僕の父親は、三年前に不慮の事故でなくなってね。本当に突然のことだったよ。今思い出しても、あっけなかったね」
思わぬシャルルの話に、マリアは口元をおさえる。まさか、シャルルにもそんな辛い過去があったとは。
「それから少しして、僕の母親は少し変わってしまった。ある日突然、父親のことを思い出せなくなったんだ」
シャルルはそういうと、視線を窓の外へとむけた。どこか遠くの、美しい記憶の日々をそこに思い描いているようだった。
「……お母さまは、ショックで記憶喪失になられた、ということでしょうか」
努めて冷静に、言葉を選んでマリアは口を開く。シャルルが今求めているのは、同情や共感ではなく、事実を正しく理解することだった。
「そうかもしれない。原因は、よく分からないんだ。とにかく、父親のことだけすっぽりと記憶が抜け落ちてしまったみたいだね。父親の存在は認めているけど、彼がどんな人間だったか、自分たちがどんな風に過ごしてきたか……。そういったことはすべて、思い出せないみたい」
シャルルはそこまで言うと、ふっと目を細める。その笑みには哀愁が漂い、瞳は悲しみをたたえていた。
「実は、つい最近まで、このままでもいいんじゃないかと思っていたんだ。母が幸せなら、それでいいと。でも……」
シャルルはそこで言葉を切り、マリアを見つめた。まっすぐな視線がシャンデリアの明かりの下で交錯する。
「トーレスの様子を見ていて、思い出したんだ。以前、マリアちゃんから教えてもらったこと」
「私が……?」
「調香師は、時を売る仕事だと」
シャルルは柔らかに微笑んだ。
「この間の香りは、トーレスとケイから聞いた話だけで、作ったそうだね」
「えぇ……」
「それを聞いて、僕は決心したんだ。マリアちゃんなら、僕の母の記憶を取り戻すきっかけになるんじゃないかって……」
だから、とシャルルが言いかけたところで、家の玄関扉が開く音が聞こえた。
「シャルル? 帰ってるのか」
よく通る声が、シャルルの名前を呼ぶ。呼ばれたシャルルは、
「いるよ。お客さんも一緒なんだ」
と声の方向へと視線を向けた。しばらくすると、足音が客間に近づき、そして、シャルルにどこか雰囲気の似た男性が姿を現した。
「おや、これはまた珍しいお客様だな」
男はマリアの姿を見つけると、心底驚いたような顔をして、眼鏡の奥、シャルルと同じブルーの瞳に好奇の色を浮かべた。
「マリアちゃん、紹介するよ。僕の兄だ」
シャルルは、すっと立ち上がり、男の隣に並ぶ。男はかぶってた帽子をとると、マリアに向かって静かに一礼した。
「アーサーだ。弟が世話になっているようだな」
目元のほくろが、どこか色っぽかった。
マリアもあわてて立ち上がり、できる限り丁寧なあいさつをする。
「パルフ・メリエで調香師をしております。マリアです。こちらこそ、シャルルさんにはいつもお世話になっております」
マリアが顔を上げると、アーサーはふっと微笑み、
「内緒話だったか?」
とシャルルへ視線を送った。
「ちょうどよかった。兄さんにも、聞いてほしい話があるんだ」
シャルルの言葉に、アーサーが首をかしげる。
「座って、マリアちゃんと世間話でも。彼女は賢いし、きっと兄さんも気に入るよ。僕はお茶を入れてくる」
シャルルは、アーサーの手から薄手のコートと帽子を手早く取り上げると、そのまま部屋を後にする。残されたマリアとアーサーは顔を見合わせ、あいまいな笑みを浮かべた。
「すまないな、突然」
「いえ、むしろ、私がお邪魔させていただいてるので」
初対面の独特な空気が二人を包んだが、会話が途切れることはなかった。
アーサーは、シャルルの兄というだけあってか、どこか落ち着いた、穏やかな雰囲気を纏っていた。いつもそうしているのだろう、ゆったりと椅子に腰をかけ、ひざの上で手を組む。
「マリアさん、と呼んでも?」
「はい。私も、アーサーさんとお呼びしてもかまいませんか?」
「あぁ。……なんだか慣れないな。私をそう呼ぶ人間は、あまりいないものだから」
「普段はなんと?」
「アーサーか……ドクター、と」
アーサーは、城下町の大きな病院で医師として働いているらしい。仕事の話をすれば、話題に事欠くことはなく、シャルルが戻ってくるまでの間、二人は互いに世間話を交わした。
「お待たせ」
シャルルは、アーサーの前にティーカップと小さなケーキを一つ置いて、先ほどまで座っていた椅子に腰かけた。
「それで? 話ってなんだ?」
アーサーはティーカップに口をつけ、ちらりとシャルルへ視線を送る。兄弟にしかわからない無言のやりとりがそこには含まれており、シャルルもちらりとマリアを見やってから、真剣な表情を見せた。
「母さんのことだよ」
シャルルの言葉が意外だったのか、それとも、何か思うところがあったのか、アーサーは眉をひそめた。
「また、その話か……」
「うん。僕は、諦めが悪くてね。兄さんも知ってるだろう?」
「知ってるさ。知ってるが……もう、手は尽くした。これ以上、何をしようというんだ。私も、毎日、医師たちから情報を集めているが、それでも駄目なんだ」
アーサーは、うんざりとした口調で言った。シャルルがこんな風に、誰かからあしらわれているのは初めて見た。マリアは二人のやり取りを、ただ見つめるしかできない。
「僕は医者じゃない。それに、使えるものはなんでも使うタイプでね」
シャルルの視線がマリアへ向かう。アーサーもつられるように、マリアを見つめた。
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お読みくださっている皆様に、感謝申し上げます。
新キャラ、シャルルの兄 アーサーが登場しましたが、いかがでしたでしょうか。
そして、シャルルからの依頼も一風変わった不思議な依頼ですが、これからどうなるのか、ぜひぜひ続きをお楽しみに。
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