甘い残り香
珍しくムスッと顔をしかめているのはマリアだった。ようやく、トーレスの言っていた娼館のお香、とやらを作り始めたのだ。だが、
「こんなに上品な香りはしない」
何度か試したものの、トーレスは頑なに「違う」と言い張った。トーレスの話を聞く限りでは、花の強い香りだと思うのだが、マリアのものは掠りもしないようだ。
「もっと、下品な香りだと言っているだろう。こんな可愛らしい人形みたいな香りじゃない」
トーレスは深いため息をついた。
マリアにとっては、すでに十分きつすぎる匂い、なのだ。香りの強い花の精油をバランスなど考えずに、いくつも混ぜて作っている。それだけでも、マリアにとっては十分ショッキングな香りなのに、それでも「可愛らしい人形」なのである。
「王女様の専属なのだろう?」
トーレスはからかうようにマリアを見据える。本人はただリビングのイスに腰かけティーカップを片手に、時折マリアの作った香りを楽しんでいるだけなのだが、偉そうなのは相変わらずである。いくら心を入れ替えたとはいえ、早々に今まで積み上げてきたものがなくなるわけではないようだった。
「もう少し、お話を聞かせてはもらえないでしょうか」
マリアは一度調香する手を止め、我関せず、と紅茶をすするトーレスに向き直った。トーレスはそんなマリアにちらりと視線を向け、ティーカップを置く。ゆっくりと立ち上がると、マリアが先ほどまで座っていた調香部屋へと足を向けた。
「俺は、詳しいことはわからないが……」
そう言って、マリアが作っていた試作品の瓶を手に取る。
「香りがきついことだけが下品なわけじゃない。そうだな、例えば……甘ったるく、匂い続ける、そういうクドい香りは、下品だ、と思う」
「甘ったるく、香り続ける……」
マリアは、トーレスの言葉を反芻する。リビングに置かれたメモに書き記し、調香部屋へと戻る。大量に並べられた精油瓶。マリアはそれらを見つめて、普段はあまり使うことのない棚へと視線を移した。
「香りのきつい……持続性のある甘さ……」
ぶつぶつと呟いたマリアは、やがて、いくつかの精油瓶に手を伸ばした。
「明日は、王城へ行く。血族破棄と、この国での身元引受の手続きだ。終わったら、直接騎士団の本拠地へ行く。アドバイスできるのはここまでだな」
トーレスは、調香を続けるマリアの背に向かって声をかけた。
「はい。ありがとうございます、トーレスさん。必ず、完成させてみせますから」
マリアが頭を下げると、トーレスはリビングへと戻っていった。
トーレスとの別れも近づいているのだ。明日、無事に血族破棄を終え、身元引受手続きが終われば、トーレスは正式にこの国の民となる。身元を引き受けるのは、シャルルらしい。どうやら、騎士団の人間として働くことになりそうだ、とトーレスは言った。もともとは、隣国の王族だったというのに、まさか、この国を守る騎士になるとは。だが、意外にもトーレスは乗り気だった。トーレスの中にも、この国への恩返しをしたい、という気持ちがあるらしい。
騎士団の本拠地へ行けば、いつでもトーレスとは会えるだろう。だからといって、いつまでも、自分が作ると言った香りを作れない、というのでは調香師の名が廃る。できれば、トーレスがこの約束を忘れてしまわないうちに、なんとか作ってみせたい。
「甘くて、くどい……」
マリアは手に取った精油瓶を見つめ、よし、と声を上げた。
トンカビーンズ。良い値段だったが、使い方が難しく、なかなか使う機会が減っていたそれをマリアは手のひらで転がす。トンカビーンズは、主張しすぎないのに、しっかりと最後まで香りが残るのだ。だからこそ、他の香りとの相性を考えなければ、くどい香りが出来上がる。癖のある香り、というか、マリアにとっては少し使いにくい香りだった。
それから、バニラ。こちらも、バランスが難しい香りの一つである。その濃厚な香りは、ほんの一滴でも多く入れると、途端にすべての香りを飲み込んでしまう。
「……多分、だけど」
マリアは、それらをポタポタと数滴、これでもか、と先ほど作っていた香りに垂らした。
「う……」
クラクラとめまいがしそうだ。あっという間に調香部屋は甘い香りに包まれ、まるでお菓子か何かを作ったのではないか、と思わせるような香りがする。一瞬香るくらいならいいのかもしれないが、ずっとここにいては、つい顔をしかめてしまう。今すぐにでも換気したい。マリアは調香部屋の窓に手をかける。
「こういう香りのことを、言っているのかしら……」
香りに敏感なマリアにとっては、とても正気の沙汰とは思えない香りだった。
(この調子で、作れるのかしら……)
マリアは窓から吹き込む新鮮な森の香りに、はぁ、とため息をついた。ライラックの香りを抽出した時と同じく、娼館のお香を作った後しばらくは調香も出来そうになかった。何より、自分の鼻がこのままではもたない気がする。
香りというのは不思議なもので、どんなものでも徐々に慣れてしまうのだ。そして、気づけばさらに濃い香りを作ったり、纏ったりしてしまう。周囲の人からすればやや異常だと思えるものも、本人にとってはちょうど良い、ということもある。調香師としてそうなってしまえば、もう目も当てられない。
(とにかく、少しずつやっていくしかないわね……)
いつもよりも、さらに少ない量で調整していくしかない。どうせ、香りのきつい精油や香水は、身にまとうことなど出来ないのだ。多くなくていい。マリアはたっぷりと新鮮な空気を吸い込み、甘い香りの漂う精油瓶を見つめた。貴重な精油だ。捨てるにはもったいない。だが、これ以上触るのも危険だ。トーレスに確認してもらうのは良いが、その後はどうしようか。マリアはうぅん、と頭を悩ませる。香りのせいか、それとも、夜が深まってきたせいか。マリアの頭はぼんやりと霞がかっているようで、良い案は浮かばなかった。
翌日、パルフ・メリエにトーレスを迎えに来たシャルルが、少し意外そうにマリアを見つめた。
「……今日は、なんだかすごく甘い香りがするね。お菓子か何か作ったのかい?」
昨晩の残り香だ。マリアは、う、と言葉を詰まらせる。トーレスは
「本物は、あれよりひどいぞ」
とマリアをからかうように笑みを浮かべた。信じられない。マリアはトーレスの言葉に背筋が凍る。あれ以上なんて……。二人のやり取りにシャルルは首をかしげたが、詮索はしなかった。
「世話になったな。この恩は必ず返す」
トーレスは、げんなりとするマリアの肩を軽くたたき、そして、じゃぁな、と手を挙げた。
「精油、楽しみに待っていてやる」
実にトーレスらしい。最後まで傲慢で、なぜか上から目線なのだ。
「頑張ります……」
マリアが、すでに精一杯だ、と目で訴えると、トーレスはクツクツと肩を揺らした。
「そうだ! トーレスさん、これ!」
パルフ・メリエを去ろうとするトーレスに、マリアは慌てて一輪の花を差し出す。チョコレートコスモス。トーレスはその花に、ヘーゼルアイを美しくきらめかせた。
「ふん。もらっといてやる」
マリアの餞別を受け取り、トーレスはどこか嬉しそうに目を細めた。
「トーレスさん、お元気で!」
マリアが大きく手を振ると、トーレスもひらりと手を振った。
甘い香りはふわりとあたりに漂う。まるで、その時を止めたかのように、その香りはずいぶんと長い間、二人を包み続けた。
いつもお読みいただき、本当にありがとうございます!
今回は、久しぶりにマリアの調香回、そして、トーレスともお別れ回でした。
西の国編はまだ続きますが、それぞれの場所で頑張るマリアとトーレスをこれからも見守っていただけましたら幸いです。
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