ほどける心
「今、何時だ……」
空腹に目を覚ましたトーレスは、ぼんやりと見慣れぬ天井を見つめて体を起こした。外は薄暗い。早朝か、夕暮れを過ぎたころか。トーレスはだんだんと覚醒していく意識の中で、部屋を見回す。
「確か……」
女性に運ばれて、ここまで案内された。飲み物と食べ物をもらい、風呂まで入れてもらって、ベッドで眠りについたのだ。
(そうか……まだ俺は……)
生きている。トーレスは深く息を吐いて、固まった体を伸ばした。
風呂から上がった際に貸してもらったシャツを脱ぎ、トーレスは身支度をすませる。ここまで着てきた服は、綺麗に洗濯され、たたまれて置かれていた。それに手を伸ばして着替える。庶民の服は、王族の服と違って余計な装飾がなく、着替えるのが楽でいい。もはや、トーレスにはこちらの服のほうがなじんでいるような気がした。
トーレスがそっと扉を開けると、綺麗に片付いたリビングが見えた。決して広くはないが、一人で暮らすには十分そうだ。生活感があり、こんな暮らしなどしたことがないトーレスにも少しの懐かしさを感じさせる。
「腹が減った……」
トーレスはキッチンへと目を向ける。何か食べられるもの、と思ったが、そういうものは見受けられなかった。代わりに、見覚えのある花が一輪飾られていて、トーレスは思わずそれに手を伸ばす。
「チョコレートの香り……」
また、この花か。そう思うものの、一度魅せられたものをそう易々と嫌いにはなれない。シックな色合いも、派手に着飾ったような花より好みだった。あまりこの香りをかぎ続けると空腹を思い出す。トーレスはその香りを少し楽しんでから、リビングのイスに腰かけた。特にすることもない。他人の家を勝手に物色する趣味もない。ましてや庶民の家など。トーレスは空腹感にいら立ちを覚えながらも、家主が現れるのを待った。
マリアが目を覚ましたのは、トーレスが目覚めてから二時間後のことだった。ただしくは、後五分、と粘ったので、二時間と五分後だが。
「んん……よく寝た……」
マリアは寝ぼけ眼をこすりながら、自室の扉を開ける。いつも通り洗顔を、と思っていた矢先、
「遅い」
「ヒッ!」
突然声をかけられて、マリアは思わず声を上げた。おかげで目も覚めるというもの。マリアはパチパチと目を瞬かせ、声の主を見つめた。
「……お前、俺に対してなんだその態度は」
リビングのイスにどっかりと腰かける青年に、マリアは「あ!」と声を上げた。
「目が覚めたんですね、良かったです!」
青年を助けてから丸二日が立っていた。このまま目が覚めなかったらどうしようか、と思っていたが、無事に一命を取りとめたらしい。むしろ、疲れがとれて本来の調子に戻った、という風にも見える。
マリアは慌てて身支度を済ませ、朝食の準備を始める。青年は特に何を言うでもなく、ただ、待っているのが当たり前だ、という態度でイスに腰かけていた。
「お前、名は何という」
名乗るのは二回目だが、一度目はほとんど意識のない状態だったので覚えていなくても無理はない。マリアは野菜を洗いながら答える。
「マリアです。あなたは?」
「トーレスだ」
名乗ってから、トーレスは口をつぐんだ。いくら隣国とはいえ、自分のことを知っているやつがいてもおかしくはない。万が一、ということもある。名乗ってしまった以上、いずれどこからか情報が洩れる可能性だってあったのだ。気を抜きすぎた、とトーレスは自らの失敗に顔をしかめた。
もちろん、マリアはそんなトーレスの気持ちなど知るはずもなく、サラダを作る手を動かしながら、トーレスに話しかける。
「トーレスさんは、どうしてあんなところで?」
トーレスは再び視線を泳がせた。
色々と考えた結果、トーレスの導き出した答えは、あきらめて正直に話すこと、だった。もう、どうにでもなれ。今更取り繕ったところで、もう遅い。
「俺は……家が嫌で、逃げ出してきたんだ」
目の前のマリアと名乗った女性は、俺のことを知らない。顔と名前を知ってなお、何の反応もないということはそういうことだ。トーレスは覚悟を決め、プライドも何もかもを捨てた。
「うまい……」
庶民の飯など食えたものか、と思っていた。しかし、空腹だったせいか、それともマリアの料理の腕が良いのか、トーレスは出された朝食を片っ端から口の中へ放り込んだ。とはいうものの、長年の王城暮らしで身についた作法が抜けるはずもなく、その所作は非常に美しかった。マリアはそんなトーレスの動きに違和感を覚えるも、同じように朝食を食べる。
「しばらくは安静にしていてください。元気なように思えても、お疲れだと思いますから」
マリアがそう言うと、トーレスは静かに食器を置き、食べるのをやめてうなずいた。
朝食を片付け、マリアは食後の紅茶を入れる。
「甘いものはお好きですか?」
「あぁ」
トーレスの答えに、マリアはミルクティーにホワイトチョコレートを溶かし入れた。
「チョコレートか?」
「はい。トーレスさんが気に入ってくだされば、冬にはお店でもお客様にお出ししようかと」
マリアがニコリと微笑むと、トーレスはおずおずとそれに口をつけた。
「うまいな……」
チョコレートの香りを今朝がた嗅いだばかりだ。トーレスの体も、無意識に甘いものを求めていたのかもしれない。ミルクの優しい甘さに、ホワイトチョコレートの濃厚な甘みが溶け込んで、体の内側から体を癒していく。茶葉の香りも消えていない。やはり、マリアは腕がいいらしい。
(だが少し物足りないな……)
「冬に出すのなら、ジンジャーかシナモンを入れてもいいかもしれないな」
トーレスがぼそりと呟くと、マリアが目を輝かせた。
「なるほど! トーレスさん、すごいです! 入れてみましょう!」
マリアはキッチンに戻ると、すぐさま引き出しを開けて、瓶を取り出す。シナモンとジンジャーがそれぞれ入っており、トーレスにキラキラとした瞳を向けると
「もう一杯、お注ぎしても?」
といたずらっ子のような笑みを浮かべた。
大したことではない。だが、今までこうしてトーレスの意見を素直に受け入れ、喜んでくれたものは周囲にいなかった。トーレスはぽかんとマリアを見つめるだけだ。マリアはさっそく自分のティーカップにおかわりを注いで、シナモンを少し振りかける。ふわりとシナモンの香りが立ち込め、スパイスの独特な香りが鼻をついた。
「トーレスさんは、どちらにしますか?」
「じ、じゃぁ、ジンジャーを……」
トーレスはおずおずとティーカップを差し出す。マリアはワクワクとした気持ちを隠しもせず、トーレスのティーカップにおかわりを注ぐと、ジンジャーを軽く振りかけた。
紅茶を飲んだせいだろうか。トーレスの心はじんわりと温かかった。
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少し距離の縮まったマリアとトーレス。
久しぶりの、のんびりとした雰囲気をお楽しみいただけておりましたら幸いです♪
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