第28話 陸と政と
どうにかできました。楽しんでいただければ幸いです。
「関東管領」上杉憲政は河越夜戦で大敗を喫して以来、北条によって少しずつその領土を削り取られていた。天文二十一年(1551年)三月には居城である平井城を失い、また代々の山内上杉家家臣が離反していっても憲政は上野国に残り続けた。可愛がっていた嫡男の龍若丸が氏康に処刑された恨みを晴らす為だったからかもしれない。
援軍に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)がやって来た際には平井城を取り戻し、一時は盛り返したものの、景虎が帰還すると憲政はまた北部へ押し込まれてしまった。
その後も必死に兵を鼓舞して北条氏に対抗しようとしたが、大きく弱体化した山内上杉家が勝てる筈も無く。情勢が悪くなるにつれ、投機的な戦術を取るようになっていった。
そして遂には長期の戦と無法者の増加で理性の箍が外れていき、なりふり構わない焦土作戦を行うようになった。
村は焼かれ、田畑は潰され、井戸には毒が撒かれている。食糧は根こそぎ持っていかれ、逆らった住民は殺される。運良く生き残ったとしても、男は肉壁になり、女は慰み者になる。そしてその後は奴隷として戦費の足しにと売り払われる。地獄のような光景は至る所で見られるようになったのだ。
「もう無理だ。管領様には付き合ってられない」
この行いに残っていた家臣だけでなくまともな兵も嫌気が差し、さっさと北条へ下っていった。
残ったのは指揮官のいない、野盗に毛が生えたような有象無象の武装集団。これで戦に勝てるはずもなかった。
結果、憲政は残った僅かな近習と共に再起を図るために越後国へ逃げようとしたが、それはあまりにも遅かった。途中の山中で憎悪に満ちた百姓らに囲まれ、そこで呆気なく討ち取られてしまったのだ。
北条勢は直ぐに代表者から事情を聴き、首を検分したのだが、憲政とその近習らは殴られ過ぎて原型を留めておらず、顔が判別できなかったという。憲政のものと思われる太刀と具足、着物といった持ち物を知らべ、ようやく本人だろうと判断されるほどだった。
「顔が判別できなかったとなれば別人の可能性もありますが、これで北条の勢力は勢いを増すことになります」
この時忠の意見に誰もが頷いた。中北部で反北条の旗印となっていた関東管領が戦死し、東部の第四代古河公方の足利晴氏と長子の藤氏は既に北条勢に敗れて幽閉されている。
西部には上州箕輪城に拠点を置く[上州の黄班]こと長野業正がいる。この長野家と里見家は縁戚関係にある。義堯の前の正室が業正の妹であり、また業正の嫡子が亡くなると次男の里見義樹が長野家に養子入りしていた。
その縁で里見家は長野家に銭や兵糧の融通などしていたが、名将であっても周りに長尾・武田・北条と囲まれている状況では支配圏の維持が手一杯であった。
北条氏が古河公方として擁立した足利義氏は晴氏の次男であり、母は北条氏綱の娘の芳春院である。氏綱はこれを使って古河公方足利氏御一家として振る舞っていた。
邪魔な関東管領が居なくなった今、氏康がこれを機に関東支配の正当性を主張し、圧力を強めていくのは容易に想像できた。
「……まずくないですか? 」
実元が言った。圧力が強まるだけでなく、史実通りに長尾景虎(後の上杉謙信)が関東管領に就任しないとなれば、六年後の関東出兵も無くなる可能性があると考えたからだ。
「いや、問題無いだろう」義堯が言った。「北条はこれで越後の長尾家と接することになる。それだけで北条の動きは鈍る。他に名分もある」
今年に入り、里見家は長尾家と同盟を結ぶことに成功していた。史実でもあった房越同盟である。ただの軍事同盟なのでお互いの利害がかみ合っている時だけになるが、北条には負担を強いる事が出来る。それだけでも十分であった。
「それに、長尾家が関東管領にならないならば、風下に立たなくても済む。今の我らなら独自の動きができる方が大きい」
「確かに。越後の連中に関東を好き勝手にされるのは嫌ですな」
うまく立ち回れば、里見家が関東管領になれる。義堯はそう考えていた。
関東管領を担っていた上杉家は悉く滅亡しており、“自称”関東管領らだけになっている。
里見は「正当な」古河公方である、小弓公方こと足利頼純を担いでいる。また、前小弓公方の長女である青子は義舜との祝言が決まっており、里見家は公方の御一門となる。
北条と同じやり口だが、これが最も有効な手になる。
「まあ、関東管領は暫く空けたままになるやもしれん」
「憲政に後継ぎとなる子がいないからですか?」
「それもある。そも、関東管領は今でこそ世襲で山内上杉が独占していたが、本来その任免権は幕府が持っている」
「となれば、幕府に都合が良い存在が関東管領、ですか」
「長尾殿か、適当な子飼いを関東に送り込むしかありませんな。我らを除けば他は小粒。後は北条ですが、奴らは伊勢氏の血筋。伊勢氏と言えば今の政所執事ですが、大樹との仲が悪いようですからな」
「うむ。長尾殿は尊王家で朝廷にも幕府にも献金しているだろう? 義に厚く、戦も強い。素寒貧の幕府には有難い存在だろうよ」
ただ幕府が権威回復のためにと、長尾景虎を関東管領に任命したとしても上手くいくかどうかも分からない。今までの慣習を変えれば反発も起きる。幕臣が関東管領として来る? 銭も権も兵も無い連中にそんな力はない。
それだけ今の幕府は弱く、また長尾家も足元の越後国が不安定だ。史実でも関東管領になったが、反乱が絶えることが無かった。
それに山内上杉家は長年の戦乱の原因であり、憲政の蛮行と敗死で滅亡。その名声も権威も史実以上に地に落ちている。
「つまり、長尾殿が関東管領になっても史実と同じか、こっちの都合が良い形になる。ということですか」
「その通りよ。ま、当面は今までと変わりはない。幕府へは繋ぎを取る程度で良い。どうせ遠くてほっとかれておくだろう。他に何かあるか?」
「はい、今回の件でどうやら大規模な配置換えを行うようです。どうも上野国、特に中北部は今回の戦で国人衆や北条方に寝返った者らに恩賞として下賜するようです」
その意味を理解するや、誰もが「えげつねェ」と顔を顰めた。
「ふん、氏康も阿漕な事をしおるわ」
同時に、効率の良い支配力の強化だと義堯は思った。
北条は勢力圏が大きい分、潜在的な敵も多い。特に中間層の国人衆や国境地帯の領主らである。彼らは情勢が悪くなれば速攻で敵に回る。そうやって家を存続させてきた。
もっとも、大名からしてみれば面倒な存在である。故に弱体化させ、強固な支配圏を確立させたい。
そこで今回の恩賞である。
北条の各城には位が付けられており、城主は勲功によって昇格や降格、配置換えを行う事があった。土地の加増は恩賞としては最高のものである。だが、上野国の内情を理解している者には押し付けたと考えるだろう。
なにせ焦土作戦の影響で土地は壊滅状態。生活基盤となる家屋に田畑、水路は軒並み破壊され、廃墟と無法者しかない状況だ。まず無法者を排除しつつ、文字通り一から全て再建しなければならない。一体どれだけの費用と時間が掛かるのか分からず、しかも自己負担である。
復興させようにも資本力の低い彼らでは余程の才覚と運が無ければまず無理。それでも十年単位で赤字続きになる。そして越後長尾家が攻めてくるとなれば上野国は再び戦場となり、まともな復興は出来そうにない。だから信用出来ない国人衆に押し付けたのだ。
どちらにせよ、そんな土地を押し付けられた時点で一族の凋落は免れないのだ。
「いやぁ、流石ですよ。北条からは見習うべきものがまだまだ有りますね」
時忠が感心したように言った。
「確かにな。まあ、そんな機会が無い方が良いがな」
さて、と義堯は面々を見渡す。
「暫くは内政に注力するぞ。その間に英気をしっかり養っておけ。北条も連戦で暫く動けんだろうが、即応できるよう準備だけは怠らない様にな」
◆
会合の面々が各居城に戻ってからはほんの僅かな休息を挟みつつ、また忙しい日々を送るようになった。
軍備の再建をしながら国内の流通改善をしつつ国人衆や郷村同士の調停役をやり、また獲得した新領地の検地に新制度の調整と発布を行うなど、減るどころかどんどん増えていく仕事の量に各所の奉行人達は悲鳴を挙げることになる。
「いくら禄が良くたって、仕事が多すぎだろ……」
「もう何日家に帰っていなんだろう。家で寝たい」
「やっと家に帰れたら、息子に『おじさん誰?』って……」
後世にそんな愚痴が書かれた日記や待遇改善を求める落首が多数見つかるなど、この時期に進めた政策がどれだけ負担がかかるか伝えている。
さて、城主や奉行人達の頑張りもあって少しずつ国内に政策が次々に発布されていき、特に一領具足は大きな反響を呼んだ。当初はただの徴兵とみなされて「一家の働き手が連れていかれるなんて信じられない!」と、抗議の一揆が起きたものの、高札や行商人を使って丁寧に説明を続けていくと一揆は徐々に収まっていった。
兵に出せばその家は年貢が一部免除され、給金と土地が貰える。
何よりも、本格的な戦闘訓練を受けられる事から村々では大いに喜ばれた。領国内は長年の内政で発展しているものの、村同士の水利権や土地などを巡って小競り合いが多く起きていた時代である。また流れの足軽や浪人による襲撃から身を守るためにも、一人でも戦える人員は喉から手が出るほど欲しかった。
かくして、部屋住みの次男三男やこの為に雇われた人足が兵として供出されるようになった。彼らも自分の土地と家が貰えるなら、ときつい軍事訓練をこなしていた。
後の話になるが、村では他人に指示できる兵が特に喜ばれ、足軽小頭まで出世すれば村の英雄、足軽大頭まで叩き上がれば土地神様扱いされるようになった。
「どうにか、制度の施行にこぎ着けられたな」
上総国、佐貫城。城下にある居館にて義舜は言った。この場には家臣の実元がいた。
「集めた兵は言いつけ通りにとにかく走らせ、行軍の訓練をさせています。あとは長槍を持たせ、特に優秀な者は銃兵や砲兵に振り分けようかと。ただ武具、特に玉薬不足ですので大半は長槍兵になります」
「まあ、それは仕方ないだろう。玉薬は高いしな」
実元の言葉に義舜も頷く。徴集した兵は狙い通り従順で体力はあるものの、陣形や行軍など必要な基礎が出来ていない。また部隊を指揮できる士官、下士官が全く足りていなかった。現状、家臣や常備兵から適性のある者を引き抜いて形だけは整えているが、軍を動かせるようになるまでまだまだ時間がかかりそうである。
「最低でも三年はかかるな。それまでは常備兵と雑兵で賄うか。あとは戦訓だが……」
先の戦での損害は綱成の猛攻がそれだけ凄まじかったと言えるが、それだけでは無かった。
単純に、突撃に対応できるだけの火力が無かったのだ。
まず、敵軍の突撃を粉砕するには適切な距離での斉射が必要となる。が、火縄銃では密集隊形を取れないため、どうしても火力密度が下がってしまう。その為、断固たる意志を持って突撃してくる北条勢を阻止することが出来なかった。
「お手頃なのは、長槍兵を増やして密集隊形を取り、防御力を上げることですかね」
実元が言ったのはスペイン王国で生み出され、この時期の欧州で採用されているテルシオである。テルシオは人で出来た移動要塞だ。肩と肩が触れ合うほどの密度で長槍が方陣(つまり四角形)を造り、周りに銃兵を配備している。
人で出来た要塞だから騎兵は役立たず、遠距離から大砲で攻撃するか歩兵同士をぶつからせてチマチマと削るしか方法が無かった。
「テルシオか。難しいな。この国の地形には合わんだろう。それに折角の機動力が落ちるのはな……」
火縄銃が密集隊形を取れないのは、火縄が火薬に引火しない様にするためであった。実際、欧州での一例になるが、火縄銃の隊列を組む際には縦列は1m、横列は3.6mの間隔を取っていたという。
これは当時の銃兵はたすき状の弾薬帯を肩に掛けていたからだ。また一人一人の練度が低いのもあり、火薬の扱いが雑で兵は服のポケットや適当な容器に突っ込んで持ち歩いていた。つまり全身に火薬を纏っているような状態だったのだ。この状況下で密集隊形を取れば、誰かが操作ミスをすれば火がたちまち火薬に引火してしまうのである。
実際にこういった事故は珍しいものでは無く、連鎖的に引火して部隊が壊滅する事も多々あったという。
勿論、ある程度は改善も可能であった。兵の練度を上げ、火薬の管理を適切に行わせること。また後に胴乱と呼ばれる腰につける革製の弾薬入れと早合の使用によって隊列の間隔を小さくすることに成功している。
「だが、これでも密度が足りん」
義舜の言葉に実元は頭を悩ました。
「んー、これ以上となりますと、玉薬の取り扱いの徹底は当然として、射程の延長か銃兵の数を増やすか、ですね」
射程の延長、つまり鉄砲の大口径長銃身化か、旋条銃である。大口径長銃身化は運用に難があるため、旋条銃になる。
銃兵の数を増やすなら引火の危険性が高い火縄銃から歯輪式や燧発式の採用しかない。
これらを両方満たすものは実元が試作し、少数だけ生産されているミニエー銃になる。これを全軍に行き渡せれば、圧倒的な火力と射程で敵勢を壊滅に追い込むことが可能だ。
「……ミニエー銃を増やすのは可能か?」
「できます。多くの熟練工と高精度の工具と大量の銭を用意していただければ」
現状じゃ無理です、との答えで終わる。
「可能な限り安く済ませるならば、燧発式滑空銃が安価か」
「ですね」
考えられるのは、歯輪式、燧発式、雷管式の三つ。
歯輪式は原料が手に入りやすいが、カラクリが高価であり複雑で故障しやすく、また製造が難しい。
燧発式は火縄銃とさほど変わらないので作りやすいが、火打石が輸入品で不発率が火縄銃より高くなる。
雷管式は気候に左右されず確実に着火できるが、もっとも製造難易度が高く、安全かつ一定品質の雷管を量産できるだけの生産力も技術も無い。
「試しに幾つか試作してみたところ、鋼のバネに常陸国の最上級品の火打石ならどうにか、ってところですね。ただ量産性は下がります」
「……どれぐらいかかる?」
「まあ、鋼を使うので現行の火縄銃の二割増しってところですかね。弓兵を銃兵に置き換えれば……」
「今までの三倍、四倍の費用が掛かる事になるな……」
二人はお互いの顔をまじまじと眺めると、同時に乾いた笑い声をあげた。そしてすぐに大きく溜息をついた。
「「銭が欲しい……」」
だが、ただぼやくだけでは何の対策にもならないと、頭を切り替えて今後の方針について話し合う。
「火打石の購入は時忠に頼むしかないな。あとは鉄を増産か」
「確か、獲得した領地の沿岸部に砂鉄鉱床があった筈です。そこを開発できれば生産量は増やせるかと」
「義祖父殿の領地が傍にあるな……、すり合わせがいる。次の会合で提案しよう。あとは旋条銃の改良と椎実弾の方はどうなった?」
「どうにか成功はしました。鋳型も揃えられたので、あとは量産するだけになっています」
施条銃は見つかっている欠点を減らすべく、改良が加えられた。品質の安定化と、生産コストが上がる原因のひとつだった施条を五条から三条へ減らし、緩いねじれに変えた。また銃身長はそのままに口径を小さくし、セットトリガーを廃止するなど部品をより簡素化。照門と照星も改良され、燧発式に切り替えている。
そして問題となった加工精度だが、施条銃と椎実弾をとにかく職人に製造の経験を積ませ、試験を行った。つまり銃も弾丸も火薬も、片っ端から生産しては使い潰して調査を行うという力技に出たのだ。この結果が反映され、ようやく品質と生産が安定するようになった。
試験の為に消費した銭と資材の総額を見て、時忠と財務担当の奉行衆は顔を真っ青にしていたが、その甲斐はあって、できあがった施条銃と椎実弾は一定品質で、より高性能になった。
新しい施条銃は小さく纏まっていて扱いやすく、有効射程は通常の三倍以上の射程を持ち、椎実弾は球形弾と比べて命中率や殺傷力も非常に高い。製造コストも幾分か下がっており、内部の掃除もしやすくなっている。
また早合から専用の紙の弾丸包も造られた。薄く丈夫な紙を獣脂と蜜蠟を四:一の比率で合わせた潤滑油に漬け込み、弾丸と玉薬を包んでいる。この潤滑油が装填の際に銃身の熱で溶けて滑りやすくなり、装填の手間を減らし、また溜まった煤を取り除く効果があった。
「まあ、それでも銭はかかりますがね」
真顔で実元は呟いた。問題となっていた旋条を刻む際の銃身の口径のばらつきやズレは、もうどうしようもなかった。手や動力槌で自由鍛造するため、同じ棒芯を使っても銃腔内はヨレヨレに曲がりくねった歪みが出てしまう。これを解決するには鋳造でも問題無い強度を出せるようになるか、プレス機でも造るしかない。どちらも現時点では不可能だ。
なので熟練の職人が特に精度の高い銃身をひとつひとつ選別し、施条を刻んでいたのだ。手作業で掘らなければならない以上、まだまだ手間も金も馬鹿みたいにかかる代物だった。
「……当面は訓練と試験だけにして、北条戦まではあまり使わない様にしよう。使い潰すことも出来んし、真似されると洒落にならん」
「どっかから銭でも降ってきませんかね?」
「そら無理だ」
この後、必死に内政を行って資金を稼ぎ、陸軍の軍備が整えられていった。
さて、この時期には義舜の主導の下、各地で新田開発や街道整備などが盛んに行われるようになった。
新たに獲得した上総国東部は外房側であり、九十九里浜での漁業や砂鉄鉱床の開発を進めていった。また干ばつ対策に溜池と水路整備を行い、村同士の仲裁に水利権を確保して情勢の安定化。特産品である木綿布や地曳網漁による干鰯の生産。また堺を通して南蛮商人からようやく届いた眼鏡の透鏡、時計、珍しい絵画や銀食器といった工芸品などを購入。需要が拡大している牧畜や贅沢品などの、米以外の産業が活発になっていった。
その中でも特に成功したと言われるのが上総国夷隅郡(現いすみ市)。土岐為頼の領地であった。
この時期、為頼の下にある人物がやって来ていた。
元美濃国の守護大名、土岐頼芸である。
天文二十一年(1552年)頃に斎藤道三によって美濃国から追放され、近江国の六角氏や実弟のいる常陸国に身を寄せていたが、今度は分家筋である土岐為頼を頼ってきたのだ。
とはいえ、彼には何も残っていなかった。近江で妻子とも別れ、旅の最中に近習らも離れていった。残ったのは僅かな近習とその家族のみで、既に家系図や宝物は常陸国江戸崎にいる実弟の土岐治頼に渡している。
財も無く、家臣もいない中でもどこから自信が湧くのか、美濃国を取り戻すんだと一人気炎を吐いおり、ほとほと扱いに困ってしまった。
本家の者を追放するのも外聞が悪いし、だからと言って一々相手にするのも面倒。
そこで、為頼は居城である万喜城近くに住むには十分な大きさの隠居邸を建て、食うに困らない程度の捨扶持を与え、そこで趣味の世界に没頭させるよう仕向けたのだ。
頼芸ははっきり言って武将としての才は無いが、一つだけ秀でているものがあった。
それは書画。元来、土岐一族は代々書画を嗜む者が多くいるが、彼はその中でも特に腕が良く、彼の描く風水画の中でも鷹の画は「土岐の鷹」として珍重されていた。
これに当初はあからさまに不満を零していた頼芸だが、新しい側使えは近習と共によく世話をしてくれる。屋敷は守護の時と比べれば小さいがしっかりとした造りで、房総の温暖な気候で夏は涼しく、冬は暖かい。暑ければ麻服を着て氷菓子が食べられ、寒ければ木綿の服に薪ストーブがある。柔らかく寝心地の良い寝具は夜もぐっすりと眠れる。
一日中、好きなだけ趣味の書画を描き、温かく美味い飯が食べられる。間食に茶と甘い菓子。安房諸白や樽で熟成させた焼酎に果実酒など飲んだ事も無い酒も多い。鯨や新鮮な魚、鱶鰭や鮑を使ったはるか遠くの明の料理など、美濃守護の時ですら食べれなかった贅沢で珍味を楽しむ生活を過ごすようになった。
また美濃守護だった時に頼芸を持ち上げ、煽っていた面々が居なくなったのもあるだろう。また近隣住民は紙芝居や瓦版で礼儀作法をある程度は持っており、そこに田舎特有の純朴さと気遣いがあった。
彼らと共に過ごしていくにつれ、刺々しい雰囲気も無くなっていった。
そして一年も経たないうちにすっかり大人しくなり、「ここで過ごすのも悪くない」と悠々自適の生活を送るようになっていた。
彼に付き従った近習らも頼芸に振り回されることなく、ようやく地に足がついた生活ができることに感謝していた。
「よし、これでやっと政務に集中できる」
御守から解放された為頼は精力的に政務をこなしていったが、ここで思わぬ事が起きた。
為頼の知行地は木と竹が名産品であった。近年では質の良い白土が発見され、耐火煉瓦の製造が始まったことから窯業が発達。瓦や木炭、船に使う塗料の生産を行っていた。
その中でも為頼が特に力を入れていたのが陶芸である。
この時期の茶道は全国的に流行っており、一種のバブルの様なものが出来ていた。
抹茶は鎌倉期には禅宗の修行の一環で飲まれており、抹茶の味が日本人の好みに合っていたのもあるだろう。茶の文化が広まり、闘茶と呼ばれる飲み比べて茶の銘柄を当てる賭け事が盛んに行われていた。
室町末期になると、村田珠光によって今の茶道の原型となる侘び茶が生まれる。賭け事の対象になっていた闘茶は下品なものとされ、京や堺で上流階級を中心に侘び茶が広まるようになった。普段の喧騒から離れ、茶室での穏やかな一時が欲しかったのもあるかもしれない。
すると上流階級の人々がやっているから、と他の地域の力や財力のある大名や商人らも始めるようになった。彼らは流行に敏感であり、またライバルとのマウントの取り合いに負けないよう覚える必要があった。
中には付き合いで始めたの茶道にド嵌りする者も出てくるようになり、彼らは茶器を求め、これが価格の暴騰に繋がった。
要するに、売れる茶器を作れば凄まじく儲かるのである。また為頼は茶の湯が大好きだった。
そこで自分好みの茶器を生産して資金を得ようとしていたが、これが今一良くなかった。
腕の良い陶芸職人がいないという問題だけでなく、粘土は採れるが、房総半島は関東ローム層などの影響で質の良い粘土が少なく、耐火度が低いため焼き上げると溶けたり歪んでしまうのだ。
ある日、為頼は自室で直営窯から届けられた茶器を手に持ち、眺めていた。釉薬を使わず、しっかり焼き締めてあり、なかなか良い出来じゃないかと笑みを浮かべていたが。
「ふむ……、良くないな」
と、したり顔で突っ込んできたのは頼芸であった。
なんでも今住んでいる屋敷を自分好みに改装するため、為頼に金策(という名のたかり)に来たらしい。
「駄目ですかな」
無遠慮にやってきた頼芸に対し、内心の怒りを押し殺しながら為頼は言った。頼芸はそれに気付いていないのか、茶器の一つを片手で弄んでいた。
「駄目だな。雑器としては良いかもしれんが、茶器として使うには質が悪いわ」
頼芸は造形が良くない、品がない、そもそも土の質が良くないと駄目出しし続け、為頼も我慢の限界になった。
「ならば、何か良い案を出してくれませぬか? ここは田舎でして、様々なものを伝聞で試行錯誤していますがこの通り上手くいってません。前美濃守様にも、お手伝いいただければと」
言い放ってからやっちまった、と後になって為頼も内心慌てるが、当の頼芸は全く気にせず、何か考える素振りを見せた。
「そうだの……、まあ世話になっているからな。ちと良いものが無いか考えておこう」
その後しばらくして、頼芸は一つの結論を出した。
「陶器が駄目なら、七宝焼を作ればよかろう」
焼き物の本場である美濃で育った頼芸から見て、この地域では茶器は無理と判断したのだ。
本場の職人を呼び、土の選別や焼き締め方を改良できればそれなりのものが造れるかもしれないが、雑器なら今までの焼き物で十分。元々、頼芸は華美な装いを好む性質なので、色彩の豊かな七宝焼の方が好みなのもあった。
更に頼芸は独自に各方面から資金を集め、自分好みの絵画や七宝焼を作らせる為に研究を始める。会合の面々も援助を行った。
「まあ、ちょっとでも質の良いのができれば良いな」という程度の考えだったが、これが思わぬ成功を見せる。
七宝焼はほぼ手探りで始めたために専門の職人が居らず、細工師や農民らが小遣い稼ぎにと暇を見て手伝いに来る程度だった。そこで素地を作る者、焼きを行う者、釉薬を作る者、絵付けを行う者に分けた。里見家では一般的になりつつある分業制であり、これを頼芸が大まかな方針を決めて製作するという近代的な生産体制となった。
この体制で最初に焼き上げられたのは、泥七宝と呼ばれる不透明な釉薬を用いた濁りのある七宝だった。ただ技術的にも稚拙で、頼芸からすれば不満のある出来だったのは間違いない。
それでも記念すべき第一歩は踏み出せたため、関わった面々を集めて七宝焼が成功した祝いの宴席が開かれた。
上等な酒と肴で上機嫌な頼芸は、興が乗ったのか彼らを前に切子模様の入った赤い硝子椀を見せた。
それは、開発されたばかりのクリスタル・ガラスだ。
技術的な問題から単純な切子模様のみだが、従来の硝子よりも薄く透明度が高く、洗練されたデザインは頼芸の大のお気に入りになっていた。
百姓たちも初めて見る輝きに見惚れ、そして一人がぽつりと呟いた。
「はえー、綺麗だなぁ。七宝もこれと同じものを使ったら、もっと綺麗になるかなぁ」
これに「やってみたら面白そうだな」と頼芸も笑顔で頷き。結果的にこれが「白透」と呼ばれる硝子の原料を使った透明釉薬の発明に繋がる。硝石・硅石・鉛丹を原料とする、前世では明治期にお雇い外国人だったゴットフリード・ワグネルが発明した「ワグネル釉」だった。
この釉薬を使って焼いたのが、後に「上総七宝」と呼ばれる鮮やかな色彩と光沢を持つ新しい七宝焼である。
頼芸はこの新しい釉薬を使った七宝焼の透き通るような美しさに惚れこみ、自らが絵付けを行うだけでなく、見込みのある者らに自身の画法を伝授。自身が気に入る七宝焼を焼かせるようになった。この七宝焼は売りに出しところ、これがたちまち評判となった。
「これは売れる!」
まさかまさかの大成功に会合の面々らも驚き、そして新たな特産品が生まれたことに喜んだ。
そして頼芸に言われるがままに予算の追加が行われ、七宝焼の増産体制が整えられていった。
また頼芸は有り余る時間と資金を使って転生者達から伝えられた技法や素材を研究。
様々な顔料を揃え、徹底的に細かく写実的に。まるで近代日本画のような画法で得意の鷹や縁起の良い鶏などを描きあげた。焼き上げた七宝は地の透明感と立体感のある美しさと華やかさから遥か遠くの京や堺でも大人気になる。
これらは寺院や商人、武家の屋敷、また船の装飾に用いられ、中には朝廷の飾りや欧州貴族へ渡るものまで出た。
土岐頼芸はこれで文化人として大成する事になる。後に土岐洞文と名乗るようになり、沢山の弟子を抱えるようになった。
そして現代にも残る名品を作り続け、生涯を過ごした。彼と彼の弟子達によって形成された集団は土岐派と呼ばれるようになり、夷隅郡は七宝焼の一大名産地となった。
誤字・脱字がありましたら報告をお願いします。
*2017/9/24 指摘のあった箇所を一部修正しました。




