第八話
塀の向こうで話しているひとりは近根木さんだったけど、もうひとりは知らない女性だった。
「だから! それじゃあ納得できないって言ってるでしょう!」
ショートボブを赤く染めた女性が怒りを孕み、声を荒げる。
年はたぶん俺よりも五つか六つくらい上だろう。
ジャケットにパンツというスタイルだけど、取材にやってきた記者という感じはしない。
近根木さんはこっちに気づいて、関わらないほうがいいと言いたそうに、目で合図をしてきた。
ところが、それを女性に感づかれてしまって、女性の顔がこちらを向く。
「……見たところ、彼は生きた人間みたいだけど?」
「彼はまあ。あと何人か生きた人間はいますよ」
話の流れがさっぱりわからない。
「生きた人間と言うか、まだ死んでないだけって感じはしますが」
自虐ジョークのつもりだったが、女性からは冷え切った視線を、近根木さんからは困り切った目を向けられてしまった。
「何なのこの子?」
女性は近根木さんに言うが、近根木さんは困り顔。
個人情報を守ってくれるんだろうか?
「三カ月ほど前から住んでる者ですけど、あなたは?」
むしろこの女性こそ何なのか。
近根木さんは初めて俺をまともに心配してくれた大人なのに。
「戸塚奈々子よ」
と女性は名乗る。
「はあ」
名乗られるだけじゃあ、何のことかわからないよ。
「ゴミ捨て場で亡くなった戸塚さんの妹さんなんだよ」
近根木さんが疲れ切った顔で教えてくれる。
そう言えばあのサラリーマンの苗字が戸塚ってネットニュースで報道していた気がした。
「ああ、あの不注意な」
ぽろりと言うと、近根木さんと女性がぎょっとする。
「ちょっとそれ、どういう意味!?」
女性が俺の両肩をつかんで問い詰めてきた。
ちょっときつめの香水に俺は顔をしかめたくなってしまう。
「ウツロギくん……」
近根木さんが不注意を咎めるような目で言う。
あ、もしかして、俺が近くにいたって情報を隠してくれていたの?
そんな気遣いを察することもできないなんて、俺はダメなやつだ。
「教えてよ! たったひとりの兄なのよ!」
自己嫌悪に陥っている間も、女性は容赦がなく問い詰めて来る。
「え? このマンションのことは知ってますか?」
うるさいなと思ったけど、この調子で話しかけられたら近根木さんが気の毒だ。
「そりゃあ、ウワサくらいは知っているけど」
知っているなら話は早い。
「あの人はルールを破っちゃったんですよ」
「はあ?」
俺の説明に女性は納得できなかったようだ。
「このマンションってルールを守っているなら安全ですが、破ったら即死なんですよ。誰でもね」
管理人という立場の近根木さんじゃあ、こんなにはっきり言えないのかも、と思ったので、かわりに告げておく。
「……あんた、ずいぶんと冷淡なのね? 同じマンションに住んでたんでしょう?」
女性が何を言ったのか、理解ができなかった。
それがどうしたんだろう?
話したこともない人がどうなろうと、何にも感じないに決まってるじゃないか。
だって、俺がどうなろうと、みんなは何も感じないんだろ?
俺が父親に殴られて蹴られている間、みんな知らぬ顔を決め込んでいた。
なのに、俺にそんな奴らを心配しろって無茶じゃないか?




