Order:52
ぽつぽつと落ち始めた雨は、あっという間に本降りになってしまった。
石畳が、建物の外壁が、オーリウェルの街が、雨に濡れてその色を変化させて行く。
冷たい雨だった。
軍警に状況の報告と黒のSUVの追跡手配を行った俺は、携帯をブレザーの懐にしまうと、白い息を吐きながら小走りにホテルへと戻った。
車寄せの屋根の下に逃げ込むと、俺は頭や肩の水滴をさっと払う。そして雨に煙るオーリウェルの街に視線を送ると、短く息を吐いた。
バルティーニ子爵の仲間と思われる魔術師たちと交戦した場所からは、未だ黒煙が立ち昇っていた。火球を受けて爆発炎上した車が、未だに燻っているのだ。
この雨では、これ以上延焼する事はないと思うが……。
激しくなって来た雨脚の向こう、遠くパトカーのサイレンの音が聞こえる。
市警が到着するのも時間の問題だ。
ロイド刑事ならまだしも、あの眼鏡のダリル刑事が来ては話がややこしくなりかねない。何だか俺は目を付けられている様だし……。
この現場は、早急に軍警に抑えてもらった方が良いだろう。
俺はごそごそとスポーツバックの中にライフルをしまうと、それを肩にかけ、ホテルに入った。
ホテルのロビーは、未だ騒然としていた。
随分と混乱している様だ。しかしそれは、今の俺には好都合だった。
男たちを追跡してホテルを飛び出した俺は周囲の注目を集めてしまっていたが、誰に見咎められることもなく、無駄な足止めをされることもなく、そっとエレベーターに乗り込む事が出来た。そしてそのまま、12階へと上がる。
左右に同じ様な扉が並ぶ12階の廊下には、ホテルの従業員達が集まっていた。
充満する焦げ臭さが、ここでも激しい戦闘があった事を物語っている。
「ちょっとすみません」
遠巻きに現場となった部屋を見詰めている従業員たちの列を割いて、俺はぐいぐいと前へ進む。
バルティーニが滞在していた部屋は、無残な状態だった。
黒こげになったドアが少し離れた場所に転がっていた。その部屋を中心に、周囲の壁も黒く焼け焦げていた。
こんな狭い空間で、火球でも放ったのだろう。
……アオイは大丈夫だろうか。
俺は小走りにバルティーニ子爵の部屋に入った。
「ちょっと、何だね、君は!」
部屋の入り口近くに立っていた男が俺の行く手を阻む。
「アオイ!」
俺はホテルの関係者らしきその男を押しのけ、部屋の奥へと進んだ。
あちこちが焼け焦げ、調度品や家具類が派手に破壊された室内。窓も破壊されたのだろう。雨を伴った強い風が、室内に吹き込んでいた。
その風を受けて、黒衣がはためく。
部屋の中央には、黒マントを羽織り、尖り帽子を目深に被ったアオイが立っていた。
見たところ怪我はないようだ。
俺はほっと胸をなで下ろした。
そのアオイの足元に、倒れ伏している男が2人。この部屋の利用者だろう。バルディーニではないようだが……。
そしてもう1人、身なりの立派な老人が、アオイと対していた。服装からして、このホテルの責任者といったところだろうか。
俺は老人に軽く会釈して、アオイに駆け寄った。
「アオイ、怪我はないか」
アオイが顔を上げて俺を見た。
「ウィル。ああ、私は大丈夫。ウィルこそ、問題ないかな?」
俺を捉えた瞬間、無表情だったアオイの顔がぱっと輝くような笑顔に変わった。
「うん。でも……」
俺はそのアオイの顔から、少しだけ視線を逸らして眉をひそめた。
「バルティーニの仲間は逃がしてしまった。せっかくアオイが知らせてくれたのに、すまない」
俺は唇を引き結び、肩を落とす。しかし、直ぐにキッと顔を上げ、アオイを見た。
「アオイ、こいつらは?」
俺は足元で昏倒している男たちを一瞥した。
残念ながら、やはり2人ともバルティーニ子爵ではなかった。俺が取り逃がした者たちと同様、子爵の仲間なのだろう。
男たちに外傷はなさそうだ。アオイの魔術で眠らされている様だ。
「私が踏み込んだ時には、既にバルティーニはいなかった」
アオイは顔を上げて室内を見回した。俺もそれに倣う。
破壊された机や棚に混じって、幾つかのキャリーバックも転がっていた。口を開けたバックの中には、本やファイルの類が見てとれた。
「恐らく、奴らはここを引き払おうとしていたのだろうな。バルティーニは移動した後だったようだが」
アオイは、足元の音たちを冷たい目で見下ろした。
「こいつらは、子爵の後片付け役か荷物運びといったところだろう」
……ギリギリのタイミングだったという訳か。もう少し遅ければ、もぬけの空だった可能性もあったのだ。
少し恐ろしくなる。
そうなれば、いきなり攻撃魔術を放って来るような奴らが集まり、何かを企んでいる事すら、俺たちは気がつけなかったかもしれないのだ。
「……アオイ。直ぐに軍警が来る。これだけの資料があれば、奴らの計画を知る手掛かりになるだろう」
俺は改めて室内を見回してからアオイを見て、コクリと頷いた。
「ありがとう、アオイ。今度は、今度こそは、魔術テロを未然に防げるかもしれない」
バルティーニ子爵本人は取り逃がしたし、その仲間にも一部逃げられた。
しかし道は、完全に閉じられたわけではないのだ。
……まだこれからだ。
軍警の総力を上げて、この手掛かりを手繰り寄せれば、奴らを捕えられる筈……!
俺は静かに、しかしギュッと拳に力を込めた。
「ウィル。あまり気負ってはいけない」
アオイが一歩俺に近づくと、マントから手を伸ばして俺の髪に触れた。
「濡れているな。早く乾かさないと」
「アオイ……」
「ふふ、さぁ、私が拭いてあげよう」
アオイが俺を抱寄せようと手を伸ばした瞬間、ごほんと咳払いの音が響いた。
「あの、エーレルト伯爵さま。そちらのお嬢さまは?」
おずおずといった感じで、身なりの良い老人が声を掛けて来た。
俺は振り返って老人を見てから、疑問符を浮かべてアオイの顔を見た。
「ウィル。こちらはホテルの支配人さんだよ」
やはりここの責任者か。
俺は改めて老支配人さんに向き直ると、ぴんっと背筋を伸ばして踵を合わせた。そしてさっと敬礼する。
「この度はご迷惑をお掛け致します。私は軍警オーリウェル支部のウィル・アーレンてす。改めて捜査にご協力の程、宜しくお願い致します!」
俺の挨拶に、支配人さんは少し驚いた様に目を丸くして、コクコクと頷いた。
俺の通報を受けた軍警刑事部の捜査官たちが現場に到着すると、ホテルはさらに騒然とした空気に包まれた。12階は現場検証や鑑識活動のために封鎖され、一般利用客も状況説明と簡単な事情聴取を受けるために、ホテルの大ホールに集められた。
俺とアオイも、もちろん状況を説明するために、捜査官たちに合流した。
顔見知りの捜査官たちは俺に労いの言葉を掛けてくれたが、中には、あからさまにこちらに不審な目を向けてくる捜査官もいた。
確かに今の俺が軍警隊員に見えないのは分かるし、現場に魔術師然とした格好をしているアオイがいては、軍警の人間として警戒してしまうのは当然かもしれない。
しかしバルティーニの情報を得られたのも、魔術攻撃を受けながら敵を制圧し、貴重な証拠品を押さえられたのも、アオイのおかげなのだ。
そのアオイが不当な扱いを受けるのが納得出来なくて、俺はあちこちにエーレルト伯の功績を説明しなければならなかった。
やがて軍警所属の魔術師である研究課の担当もやって来て、現場検証を始める。その頃になって、バートレットとアリスもホテルにやって来た。
「ウィル、大丈夫だった?」
ロビーのソファーセットに腰掛けて待機していた俺とアオイのもとへ、アリスが駆け寄って来た。その後から、ズボンのポケットに手を入れたバートレットがゆっくりとした歩調でやって来た。
「やあ、ウィル君。伯爵さまもどうも」
バートレットが、無精髭の生えた口元をにやりと歪めて挨拶した。
「さて、ウィル君。また随分派手にやってくれたな。車が爆発炎上、ホテルの高層階からも煙が上がっているって、市警の無線はまるで戦争でも起こったような騒ぎだぜ」
……む。
俺は眉をひそめ、膝の上に乗せた腕をぴんっと伸ばした。
思わず、てんやわんやしているロイド刑事の姿を思い浮かべてしまう。
表通りの戦闘現場にも、最初は市警が来ていた。もしかしたらロイド刑事もいたのかもしれないが、今は軍警が現場を引き継いでいる筈だ。先ほど外に作戦部の人員輸送車が見えたので、どこかの分隊が現場を封鎖しているのだろう。
「軍警は今、市警と協力してオーリウェルの交通封鎖に当たっている。ウィル君から報告のあった車両を探しているが、まだ見つかっていない」
バートレットは話しながら、俺とアオイの正面のソファーにどかりと腰を下ろした。その後ろにアリスが立ち、懐から手帳を取り出した。
「繰り返しになると思うが、ウィル君の大活躍を聞かせてくれないか」
目ざとく灰皿を見つけたバートレットが、懐からタバコを取り出した。
俺は既に報告してある術式陣の触媒をめぐる動きからバルティーニ子爵の話を踏まえ、今日の出来事を説明した。
聞き終えたバートレットが、難しい顔をしてソファーにもたれ掛かる。
「……ふむ。厄介だな、この時期に」
低い声で呟くバートレット。
俺はずいっと身を乗り出した。
「今こそ動くべきだと思うんです、バートレット。あの自爆術式陣がよからぬ事に利用されようとしている事は明白です。今ならまだっ!」
「まぁ、そうだがね」
声を大きくする俺とは対照的に、バートレットの反応は冷ややかだった。これがベテランの冷静さなのだろうか。
アオイがすっと俺の膝の上に手を置いた。
俺はアオイを一瞥して、自身を落ち着かせるようにそっと息を吐いた。そしてもとの位置に座り直す。
「いいか、ウィル君。冷静に考えろ」
バートレットは低い声で言いながら、鋭い目で俺を見据えた。
「メインストリームを忘れるな。今俺たちが最も警戒すべきは、聖アフィリア騎士団の動向だ。年末の国政選挙に向けて、奴らは必ず動いて来る」
……騎士団。
俺は、はっとする。
ルヘルム宮殿で貴族派の首魁たる老貴族が言っていた事を思い出す。
貴族派は、過激派たる騎士団を疎ましく思い始めている。騎士団も恐らくは、その気配を察知しているだろう。切り捨てられそうな騎士団がさらなる暴挙に出る可能性は、十分に考えられる事だ。
「ウィル君。些事には目をくれるな」
「イーサン」
バートレットの言葉に、アリスが諌めるように声を上げた。
「いや、こそこそ動き回る魔術犯罪者どもを見逃せ、と言っているわけじゃない。最優先目標の達成。それを常に頭に置いて動けということさ」
……そうだった。
俺はただ、目先の出来事に興奮してしまっている状態でしかなかった。魔術犯罪やテロに至るかもしれない手掛かりを手に入れたとはしゃいでしまっていたのだ。
バートレットが言うような大局的な視点は、持っていなかった。
俺はしゅんと肩を落とし、反省する。
……でも。
俺はすっと顔を上げて、バートレットを見た。
確かに選挙とか騎士団とか、国内中を揺るがしかねない懸念事項に注意を払わなくてはいけないというのは良くわかる。
しかし。
魔術犯罪や理不尽な暴力に怯える一般の人々を守る事こそが、俺たち軍警の使命だと俺は思うのだ。
そこに、優劣はない。
上手く言葉にまとめる自信はなかったが、取りあえず何か反論しようと俺が口を開こうとした瞬間、バートレットがふっと笑った。
「しかしまぁ、エーレルト伯爵殿の協力が大だとはいえ、禁呪の資料を得られた事はデカい。捕らえた奴らが騎士団に繋がっていれば、ウィル君はMVPだな」
バートレットが膝の上に腕を乗せながら俺の方を見ると、俺を見上げる様にして意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「しかし君には、待機命令とエーレルト伯の護衛という任務があった筈だが?」
む。
俺は目を大きくして固まる。
ここでそれを言うか。
実際に交戦するまで、バルティーニ子爵の事は軍警には伏せていたのだ。命令違反、独断先行だと指摘されれば、反論は出来なかった。
そもそもバルティーニが黒だと確信はなかったとはいえ、きちんとした体制で包囲、確保に動いていれば、銃撃戦も敵の逃亡を許す事もなかったかもしれない。
俺はそっと目を伏せた。
力も技も、それに考え方や判断力も、やはり俺にはまだまだ足りないようだ。
俺の家族やΛ分隊のみんなや、他の多くの人たちのような悲しい被害者をもう二度と出さないようにするには、まだまだ……。
「捜査官の方々は何か勘違いをされている様だが」
眉をひそめ、目を伏せる俺の隣から、冷水の様な凛とした声が響いた。
「今回の事は、私が独自に得た情報により、私自身が動いたまでの事。ウィルはその私について来てくれただけだ。ウィルは、この子は、ヘルガ部長殿の命には背いていない」
俺ははっとして隣のアオイを見る。
何を……。
「それに、私は魔術を悪用する者を見過ごせないだけだ。私にとっては、軍警も、上院のご老人の思惑も、考慮すべき事柄にはあたらない」
辛辣な台詞とは裏腹に、ふふっと柔らかに微笑むアオイ。
その言葉で、場が凍り付くのがわかった。
俺の胸のドキドキが聞こえてきそうな沈黙の後。
バートレットは、ははっと声を上げて笑った。
「そうですか。まぁ、そうでしょうな」
バートレットがニヤリとしながらアオイを見る。
表面上は穏やかだが、どこかピリピリとし始めた空気に、俺はおろおろとしながらアオイとバートレットを交互に見た。
ふと、困り顔のアリスと目があった。アリスはため息をついて、肩を竦めて見せる。
「行こう、ウィル」
話は終わりだと言わんばかりに、アオイが立ち上がった。思わず俺も、それに倣う。
「伯爵。まだ現場にはいて下さいよ」
バートレットが俺たちを見上げた。
「わかっている。ウィルとあちらでコーヒーを飲んで来るだけだ」
アオイはにっこりと微笑むと、俺の手を引いて歩き出した。
アオイの手はひんやりとしていたが、ほっと安心できる温もりが確かに伝わって来た。
「失礼します」
一礼してヘルガ部長の執務室を出た俺は、はぁっと長い溜め息を吐いて項垂れた。
「アーレンさん、大丈夫?」
秘書官室で待機していたヘルガ部長の秘書官さんが、心配そうに声を掛けてくれる。
気を抜いた瞬間を見られた気恥ずかしさに、俺は一瞬ビクッとしてしまった。
「大丈夫です」
俺は慌てて秘書官さんに苦笑を向けると、ペコリと頭を下げて足早に廊下へと出た。
人気の無い軍警オーリウェル支部の廊下には、窓を打つ雨音が微かに響いていた。
水滴の滴るその窓を見て、俺は短くふっと息を吐いた。
ホテルでの事件があってから、もう2日が経つ。
一旦回復していた天気は再び崩れ始め、今日はお昼から本降りの雨となっていた。
冷たい秋の雨だ。
俺は聖フィーナの制服のスカートをひるがえすと、とぼとぼと歩き出した。
今日は午前中で学校を早退した俺は、ヘルガ刑事部長に報告書を提出すべく、軍警オーリウェル支部に出頭していた。
報告書の内容は、もちろんあのホテルでの出来事についてだ。
事件直後に行った報告でもそうだったが、ヘルガ部長からは俺の軽率な行動について厳しい指摘を受けてしまった。
俺を見つめる鋭い視線や、コツコツと机を叩く音に、執務室にいる間、俺はずっとドキドキしっぱなしだった。
バートレットにも似たような事を言われたが、ヘルガ部長は市街戦じみた派手な戦闘を行ってしまった事を問題視している様だった。ルヘルム宮殿での話のとおり、市民感情や治安に対する不安を増加させる激しい戦闘行為はなるべく控えたいというのが部長の考えなのだろう。
それに軍警に対する批判が高まれば、それだけ捜査活動も難しくなるというのも理解できる。
それもわかるのだが……。
俺はきゅっと唇を引き結ぶ。
色々とした不手際に対する反省はしても、アオイと一緒に行った捜査そのものについては、俺は後悔していない。
今度こそ、誰かが悲しむような事は絶対起こさせない。そのためなら、何でもやってみないといけないと俺は考えている。
しかし、そうして手に入れた手掛かりだったが、ここ2日間の取り調べでは、バルティーニ子爵やその企みに関する情報は、まだほとんど得られていなかった。
残念ながらアオイが捕らえた男たちは、末端のごろつき魔術師でしかなかった。
刑事部の尋問でも、大した情報は引き出せていないそうだ。
いや、そもそも何も知らされていない可能性の方が高いのかもしれないが……。
取り逃がしてしまった例の黒いSUVについても、まだ捕捉出来ていなかった。
……こうなったら、俺もバートレットに頼み込んで捜査活動に組み入れてもらおう。市内を走り回って、しらみつぶしに探すのなら、人手は多い事にこしたことはない。
俺は幹部棟の磨き上げられた床をじっと見つめながら、刑事部のバートレットを目指して歩調を早めた。学校指定のローファーが、カツカツと音を立てる。
こんな状況下でも、昨日も今日も俺は、普通に聖フィーナへ登校していた。事件の事後手続きのために、こうして午後は早退させてもらっていたが……。
「焦るな、ウィル。今は、機が到来するのを待つ時だ」
アオイにはそう言われていた。だから今は、学校にも通い、普段通りに過ごすようにと。さらにそれは、ヘルガ部長からの命令でもあった。
アオイも、独自のルートでバルディーニに関する情報を探してくれているようだった。
ならば俺も……。
しかし、捜査に参加させてもらえば、学校は休まなくてはならない。
ジゼルやアリシアたちも俺の事を心配してくれていた。
聖フィーナの後期テストの時期が迫っている今、ここしばらく学校を休みがちな俺は勉強、大丈夫なのか、と。
ジゼルとラミアが、週末俺の為に勉強会を開こうとも提案してくれていた。みんなでエーレルト邸の俺の部屋に集まって、泊まりがけで勉強しようというのだ。
アリシアやエマも乗り気だった。
俺もみんなとわいわいするのは楽しいと思う。まだアオイの許可は取っていないが、アオイならきっと喜んで頷いてくれるだろうとも思う。
しかし。
やはり俺は、じっとしている事が出来ない。
……みんなには悪いが。
俺がキッと顔を上げ、さらに歩くスピードを上げようとしたその瞬間。
「おっと」
「わ、す、すみませんっ」
俺は、廊下の角から現れた小柄な人影とぶつかりそうになってしまった。
細い目を丸くしてそこに立っていたのは、軍警幹部の制服を来た白髪、白髭の小柄な上官だった。
「失礼しました、シュリーマン中佐!」
俺の本来の上司にして作戦部の部長であるシュリーマン中佐に、俺は慌ててがばっと頭を下げた。背中でまとめた髪が、ふわりと宙を舞う。
「ほほほ、前を見て歩かないと危ないよ、ウィル・アーレン君」
中佐はにこやかに微笑み、頷いてくれた。
「どれ、キャンディをあげよう」
そしてごそごそと制服のポケットを漁ると、俺に黄色い包みを差し出した。
両手でそれを受け取る。レモン味のキャンディだった。
「そういえばアーレン君。随分と活躍しているそうではないか」
中佐は腰の後ろで手を組んだ。
「いえ…‥」
俺はそっと首を振る。
シュリーマン中佐はまるで世間話をするような調子だった。
「少し話がしたいね。時間は良いかな?」
「あの、えっと、はい」
俺が頷くと、細い目をさらに細めたシュリーマン中佐も頷き、歩き出した。語調は優しげだが、その言葉には有無を言わせない迫力があった。
俺はもちろん従うしかない。
本当はバートレットのところに行きたかったのだが……。
中佐の執務室は、ヘルガ部長の部屋の並びにあった。同クラスの幹部だけあって、部屋の作りは大体同じだ。ただ、執務室に繋がる秘書官室に控えていたのは、制服をキチンと着込んだ巨漢の男性だった。
まさに屈強な軍警隊員を絵に描いたような風貌だ。とても秘書業が向いている様には思えなかったが……。
彼の目の覚めるような敬礼に見送られ、俺と中佐は執務室に入った。
ヘルガ部長の部屋と同じで、キチンと整理整頓の行き届いた部屋だった。ヘルガ部長に比べ、本棚に並んでいるのは、書籍よりもファイル類が目立つ気がする。そしてなにより目を引くのは、壁に掲げられた軍警の旗。そしてオーリウェル支部の旗だった。
微かに煙草の臭いがする。
「座りなさい」
中佐が執務机の前のソファーセットを指し示す。
「失礼します」
俺は言われた場所に、スカートを折ってちょこんと腰掛けた。
「ほほほ。今お菓子を準備しよう」
シュリーマン中佐は、ごそごそと壁面書庫の引き出しを漁り始めた。
「あの、お構いなく……」
俺はもじもじとしながら中佐の言葉を待つ。
中佐は作戦部での上司ではあるが、俺みたいな一介の隊員が面と向かって話す機会などあまりない人だ。ましてや二人きりとなると、何を話していいのかも分からず、気まずい空気に俺はおどおどするしかなかった。
「状況は聞いたよ。素晴らしい活躍だ、ウィル君。私も鼻が高い」
中佐は引き出しから取り出した紙皿の上に、1つ1つがカラフルな包に入ったチョコレートやキャンディを盛り始める。
「刑事部に報告書を出したのだろう。それを私にもくれるかな」
中佐はお菓子満載の紙皿を俺の前に差し出し、自分もソファーに腰掛けた。
了解です、と俺は頷いた。
「ウィル君が端緒を掴んだこの件、敵の把握が出来れば、作戦部としては大々的に制圧を仕掛ける作戦を準備しようと考えている」
大規模、作戦……。
胸がドキリと震えた。
思わずディンドルフ男爵邸での戦いが脳裏をよぎった。
「研究課からも聞いているよ。今回の件は、術式陣に関わるものの様だね」
シュリーマン中佐がチョコレートを1つ手に取ると、その包みをもてあそび始めた。
ノックが響く。
入って来たのは、お盆に2つ、コーヒーカップを乗せた巨漢の秘書官だった。
コーヒーの香ばしい香りが、ふわりと漂って鼻をくすぐる。
秘書官殿が中佐と俺の前にカップを置いてくれた。彼が持つと、まるでカップがミニチュアみたいだった。
ニッと輝く歯を見せて微笑む秘書官殿。
俺はおずおずと会釈を返すしかない。
秘書官殿が退出するのを待って、シュリーマン中佐が再び口を開いた。
「君の隊を含め、あの禁呪には大勢の隊員たちがやられている。もちろん、民間人にも多大な被害が出ておる」
自爆術式陣。
従来の術式陣の様に魔素を注ぎ込み準備するのではなく、術者の命を燃料として吸収し発動される禁呪は、事前把握が困難で、術式が発動するその時になるまでその存在を察知できないのだ。
「もしその供給元が判明するのならば、これは完膚なきまでに殲滅しておかなければならない」
シュリーマン中佐の鋭い視線が俺に突き刺さる。
その声音は優しげだが、俺は中佐の発する威圧感に気圧され、何とか目を逸らさずに見返すのが精一杯だった。
「現在のオーリウェルの戦力では厳しいかもしれない。他支部との共同作戦の展開も視野に入れているのだ」
シュリーマン中佐の考えは、刑事部のヘルガ部長とは正反対の様だ。中佐はあくまでも、軍警の部隊による敵魔術師の制圧を目指している。
「その作戦時には…‥」
そこでシュリーマン中佐は、優しいおじいちゃんのような笑みを浮かべた。
「その際には、アーレン君。君には、部隊の中核となる事を期待しておる。君の経験、能力。私はそれに大いに期待しているよ」
目を丸くする俺。
しかし。
俺は直ぐに表情を引き締めてから、コクリと頷いた。
俺に出来る事があるのなら。
……もちろん、全力で臨むまでだ。
「君のおかれた特殊な立場からこそ見えてくるものもあるだろう。今後もそれを生かして、独自に動きなさい。魔術師の殲滅こそが、我らが目的なのだから」
シュリーマン中佐は、今までにない獰猛な笑みを浮かべた。
俺は膝の上に乗せた手に力を込める。
中佐に評価してもらえた事は嬉しいが、何だろう、俺はその言葉に、心のどこかがチクリとするような違和感を覚えていた。
……魔術師は殲滅。
アオイやジゼルの顔が脳裏を過る。しかし同時に、俺の家族やΛ分隊のみんな、エストヴァルト駅での事も思い出してしまう。
……いや。
今は目の前の事態に集中しよう。
逃がした敵を追うための捜査。
さらに、来たるべき戦いへの準備。
戦闘訓練はもちろん、できる限り魔術の鍛錬も進めなければならない。
やっておかなくてはならない事は沢山ある。
……よし
俺はそっと小さく、しかし確かにうんっと頷いた。
読んでいただき、ありがとうございました!




