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Hexe Complex  作者:
49/85

Order:49

 オーリウェルの街の喧騒は遠く、一般観覧の時間が終わった夜のルヘルム宮殿は、ライトアップされた外観を浮かび上がらせながらもしんと静まり返っていた。

 アリスの運転する軍警の公用車である黒塗りのセダンは、静かにその地下駐車場へと滑り込んで行く。

 既に人気の無い地下。無機質に広がる柱群をヘッドライトの灯りだけが照らし出していた。

 キュとタイヤ音を響かせながら狭い駐車場の通路を曲がる車。

 やがて前方に、地上との連絡エレベーターと、その前に立つ2人のダークスーツの男が見えてきた。

 男たちの前で車が止まる。

 俺たちはカツンと足音を響かせて車を降りた。

 ルヘルム宮殿の閉館時間は18時。現在時刻はまだ19時30分。

 街が寝静まるにはまだ早過ぎる時間ではあるけれど、人気のなくなった広大な駐車場は、まるでもう深夜であるかの様な静寂に満たされていた。

 俺とアオイはそっと視線を交わす。

 アオイも俺も、今は聖フィーナの制服姿だった。

 白のブレザーの下、一応俺は、ショルダーホルスターを下げ、ハンドガンを装備している。

 俺たちが制服姿なのは、アリスからなるべく正装して欲しいと頼まれたからだ。

 まさかドレスを着て行く訳にもいかない。

 学生といえば制服が礼装みたいなものだと思い、俺とアオイは制服に着替えたのだ。

 しかし着替えを済ませた俺は、バートレットに苦笑されてしまった。

「ウィルちゃん。軍警の制服はどうしたよ」

 ……む。

 そう指摘され、俺は固まってしまった。

 思わず手近な制服を着てしまったが、本来の俺の正装と言えば、バートレットが言う通り軍警の制服なのだ。

 いつの間にかこの姿にすっかり馴染んでしまっている俺……。

 しかし改めて着替える時間はなく、俺はそのままヴァイツゼッカー上院議員との会合の場所に指定された、このルヘルム宮殿までやって来てしまった。

「じゃあ、アリス。案内よろしく」

「イーサン?」

「俺は車回しておくから」

 緊張感のないバートレットの声が地下駐車場に響き渡った。アリスが顔をしかめて睨み付けるが、バートレットはニヤリと笑って煙草を取り出している。

 ため息吐いたアリスに先導されて、俺たちは地上との連絡エレベーターに乗った。

 エレベーターに乗る瞬間、俺とアオイは警備要員だろう、ダークスーツの男たちからじろりと睨まれてしまった。

 ……やはり学生服が場違いだったのだろうか。

 警備のダークスーツやアリスには、ピリピリと緊迫した雰囲気があった。俺も良く知っている警備任務独特の雰囲気だ。

 エレベーターは地上の宮殿管理センターに続いていた。本来ならここで入館料を払い、宮殿に入ることになる。

 その宮殿の入館ゲートの前にも、ダークスーツが立っていた。

 上院議員がいるとはいえ、少し警備が物々し過ぎるのではと思ったが、あの夜会襲撃事件があったばかりなのだ。要人の身辺警護には、必要以上に神経を尖らせているのだろう。

「銃をお預かりします」

 言葉は丁寧だが、有無を言わせぬ調子でダークスーツがアリスを見下ろす。

 ちらりと隣を窺うと、アリスが素直に懐からハンドガンを取り出すところだった。

 ……アリスが従うのならしょうがない。

 俺ももぞもぞと動いてブレザーの中からハンドガンを引き抜く。そして無言で銃把をダークスーツに差し出した。

 俺が銃を取り出した事に、ダークスーツは少しぎょっとしたような顔をしていた。

 む。

 ……まさか俺、本当の学生と思われていたのか?

 入館ゲートを通過した俺たちは、静まり返ったルヘルム宮殿に足を踏み入れた。

 現在のルヘルム宮殿が築かれたのは、18世紀末。国体が立憲君主制へと移り変わる頃の事だ。

 憲法と一応の議会制度は成立していたが、他の欧州各国と比較しても、古代から続く魔術師による階級制度、君主制が未だ強大な力を有していた時代。

 ルヘルム宮殿は、その貴族の長たる王家の居所として、絢爛豪華な宮殿として造営された。

 まさに、魔術師たちの栄華の象徴だ。

 その後、民主主義革命により王家は追放される。政治の中心も、古来からの貴族社会の影響が色濃く残るオーリウェルから現在の首都に移されると、ルヘルム宮殿にも存亡の危機が訪れる事になった。

 しかし民主化後も名誉称号を得て残存した貴族たちや民主化に貢献した文化人たちによる保存運動が起こり、こうして歴史遺産として今に残る事になったのだ。

 俺も昔、小学校の社会科見学で来た事がある。

 ルヘルム宮殿に足を踏み入れるのはあれ以来か。

 普段は観光客でごった返しているので、俺たち地元民はあまり近寄る事がない場所でもあった。

 丁寧に磨き上げられた床に、等間隔に並ぶ照明の淡い光が映り込んでいる。

 壁に掛けられた巨大な絵画。精巧な彫像。そして独特の建築様式。

 宮殿自体の価値はもちろん、調度品も歴史的価値のある一級品ばかりだ。

 そんな宮殿内部に、俺たちの足音だけが響き渡る。

 管理センターに直結しているのは旧政庁。王の居所たる宮殿本体は、中庭を挟んでさらに向こう側にあった。

 前を行くアリスは、迷うことなくそちらに向かっていた。



 金銀の装飾が施された華美な装飾も、精緻な天井画も、どこまでも伸びる長大な廊下も、俺とアオイ、それにアリスの3人だけではあまりに広すぎる。

 照明がほとんど落ちた宮殿内部は、所々が闇に沈み込んで先が見通せない。

 その闇に、そしてこの静けさに、俺は得体の知れない不気味さを感じてしまっていた。

 この場に降り積もった歴史という膨大な時間の蓄積が、もしかしたら俺にそう感じさせたのかもしれない。

 俺たち一般の人間と魔術師たちの間で繰り広げられた歴史だ。

 髪を耳に掛けながら、俺はちらりと隣を窺う。

 俺の直ぐ横を歩くアオイは、涼しげな顔をしていた。

 ピンと伸ばした背筋とさらりと揺れる黒髪。

 いつも通りのアオイの頼もしさに、俺はほっと息を吐いた。

 やがて、廊下の先にヘルガ部長たちの姿が見えて来た。

 ヘルガ部長は、深紅のスーツにトレンチコートを羽織っていた。胸の下で腕を組ながら壁一面を占める巨大な絵画を見上げるその姿は、やはり何とも言えない迫力があった。

 そして、その隣にもう1人。

 杖を突いた小柄な老人が、ヘルガ部長と言葉を交わしながら壁の絵を見上げていた。

「ヘルガ部長。遅くなりました。アーレン隊員とエーレルト伯爵をお連れしました」

 アリスが声を掛けると、ボリュームのある金髪を揺らしてヘルガ部長がこちらを見る。続いて隣の老人も、俺たちの方へと顔を向けた。

 皺が深く刻まれた顔にすっと伸びた鷲鼻。豊かな頭髪は真っ白で、しかし上品な老紳士然としたその風貌には似合わない、ギラギラとした光をたたえた鋭い目が印象的な人物だった。

 その老人が発する威圧感に、俺は思わず気圧されてしまう。

 この人がヴァイツゼッカー上院議員。大物政治家にして、貴族たちの最上位に存在する公爵位を持つ大貴族だ。

 その顔には、もちろん見覚えがあった。

 夜会襲撃事件の最中、襲撃犯を攻撃するアオイを制止し、追撃しようとした俺を止めようとした老人だ。

 あの場で俺は、この大貴族に向かって啖呵を切って襲撃犯の後を追った訳だが、今思い返せば良くそんな事が出来たなと思う。きっと戦闘状況の興奮に呑まれていなければ、このヴァイツゼッカー公爵の持つ威圧感に、反論など出来なかっただろう。

 あの場では思い至らなかったが、ヴァイツゼッカーと言えば貴族派上院議員の中でも首魁と言える人物だ。上院の議長も務め、テレビでも目にすることがる。

 伯爵であるアオイならまだしも、一介の軍警隊員である俺には縁遠い人物。

 そんな大物が、アオイと俺に何の用だというのだろう……。

「今宵は随分と大人しいのだな。軍警の若き娘」

 ヴァイツゼッカー公爵が俺を見据える。

 俺は思わず踵を合わせ、背筋を伸ばした。

「ヴァイツゼッカーさま。急なお呼びだし、何用でしょうか」

 この威圧感を前にしても平然としているアオイは、さすがだと思う。

 俺は気を取り直して目の前の老人を見た。

「ふむ。ワシも明日にもオーリウェルを離れる事になってな。首都に戻るのだ。その前にお前たちに会っておこうと思った」

 公爵が再びギロリと俺を睨んだ。

 やはりさっと、背筋に冷たいものが駆け抜ける。

 俺は思わず一歩、隣のアオイに近寄ってしまう。

「ヘルガより、あの夜会の場でさえずっておった娘がエーレルトの対になるものと聞き、最後にもう一度会ってみる気になったのだ」

 ヴァイツゼッカーはニヤリと笑う。しかしその目は、全く笑っていない様に思えたが……。

「対?」

 小さく呟き、アオイが俺を一瞥した。

 アオイと目が合う。

 ヴァイツゼッカー公爵が踵を返して、杖を突きながらゆっくりとしたペースで歩き出した。

 ヘルガ部長がそれに追従し、俺とアオイもついて行く。

 アリスはその場に待機し、俺たちを見送っていた。

「かつて我々魔術師は、この宮殿と共に栄華の中にあった」

 薄暗い廊下に、公爵の低い良く通る声と俺たちの足音が響き渡る。

「これらを見て思う。当時の美は全く衰えておらず、この宮殿は今も変わらず美しい」

 俺はそっと周囲を見回した。

 絵画も彫刻も華美な装飾も素晴らしいが、俺には人の住むような場所には思えなかった。

「しかしこの美の本質は変わらぬのに、この宮殿は既に世を統べる中央ではなく、大衆を魅せる見せ物小屋と化しておる。何故だ、エーレルト」

「時代が変わったのです。現代は、既に魔術師の世ではありません」

 アオイが即答する。

 俺はドキリとしてアオイを見てしまう。

 魔術師の世ではない。

 それはその通りだと思う。

 しかし今目の前にいるのは、その魔術師の世を取り戻す事を標榜している貴族派の長なのだ。さらにアオイ個人の考えはともかく、エーレルト伯爵家もその貴族派の一員という事になっている。

 今の発言は、その、良いのだろうか……。

「ふむ」

 しかしヴァイツゼッカー公爵の声には、どこか面白がるような響きがあった。

「半分は正解だ。確かに世は変わった。ならば、我々も変わらねばならぬ。変わらねば、この宮殿と同じ、大衆に媚びへつらうだけの存在になり果てる。魔術も、只の芸になり果てよう」

 俺は眉をひそめた。

 ヴァイツゼッカー公爵の声には、諦めや愚痴を言っている様な響きはない。むしろ、虎視眈々と獲物を狙うハンターの狡猾さが感じられた。

「貴族の、魔術師の世を取り戻す為には、古き因習に捕らわれず、新たな姿勢を模索して行く必要がある。それを成す為には、一時的に大衆との迎合もしてみせんとならぬ」

 ……新しい貴族。新しい魔術師の姿。

 カツンと杖を鳴らし、ヴァイツゼッカー公爵が立ち止まった。そして振り返ると俺たちを見た。

「その改革の障害は、目下、古の貴族の責務を履き違え、力に訴える愚か者共だ。今更魔術による闘争など、世の反感しか買わぬ」

 体の中を衝撃が駆け抜ける。

 それは、貴族派内の過激派勢力、聖アフィリア騎士団の事か!

「それは軍警も同じなのです」

 踵を響かせ、今度は今まで黙していたヘルガ部長が一歩進み出た。

「貴族派の方々が変わられれば、対魔術師制圧部隊として編成された軍警にも変革の時が来ます。その兆候は、もう既に出ているわ」

 ヘルガ部長が顎を上げ、俺を見下ろす。そして、まるで俺に考える時間を与えるように、一拍の間を開けた。

「対魔術師制圧とは言え、重火器で市街戦のような戦闘を巻き起こす。市民たちは、そんな軍警の暴力的側面に厳しい目を向けています。例えば、ディンドルフ男爵戦の後の騒動、覚えているわね」

 俺は目を伏せ、眉をひそめた。

 確かにあの作戦の後、軍警の行為は虐殺だと騒ぎになっていた。

 頭の中がぐるぐるする。

 全ては、1人でも多く魔術犯罪の被害者を減らしたいという思いの結果。しかし同時に、夜風に揺れる男爵の娘さんの制服が脳裏を過る。

「これからの軍警は、武力路線を縮小し、刑事部が中心となって治安を維持するための組織に再編される事になるわ。そうなれば、ヴァイツゼッカーさまのような方とも連携出来るというものです」

 ……そういう事か。

 本来敵対関係にある軍警と貴族派の歩み寄り。

 その裏側には、今後を見据えた各勢力による主導権確保のほの暗い動きが垣間見える。

 俺は胸の前できゅっと拳を握り締めていた。

 ……息苦しい。

 無性に息苦しく思えて、今すぐネクタイを外して深呼吸したくなる。

「そのようなお話、何故我々に?」

 そう聞き返したアオイの声は、普段と変わらず静かなものだった。しかし俺には、わずかな苛立ちが含まれているのがわかった。

「新たな関係を模索する我々と軍警において、お前たちの関係は理想だ。共に手を取り合い、悪に対する。その姿は、我らの象徴となり得る。エーレルト伯爵。若き軍警の娘。お前たちが我らの未来を担う事、覚えておけ」

 俺は睨むようにヴァイツゼッカー公爵を見てしまった。

 ……何を一方的に!

 自然と爪が食い込むのも構わず、俺はぎゅっと拳を握り締めていた。

 貴族派とか軍警の未来とか、そんな物に俺とアオイの関係が利用されるのか?

 俺はそんなもののためにアオイと一緒にいるのではない。

 ……そんなもののために戦ってきたのではない!

 しかし、この憤りをぶつける先がわからない。目の前の老人やヘルガ部長に文句を言っても意味がないという事が分かる程度の冷静さは、俺にも残っていた。

 俺は隣のアオイを見る。

 アオイは無表情に目の前の老貴族を見つめていた。しかし、心なしかその顔が青ざめている様にも見えた。

 何か言わなくては。

 そう思って口を開こうとした瞬間、さっと延びてきたアオイの手が俺の手を握った。

「軍警の娘。お前が口にした高貴なるものの義務。あれは確かに耳に心地よい。その気概は買おう。しかし、それでは今の世には通用せぬ。これからもエーレルトと行動を共にし、より見物を広めると良い」

 ヴァイツゼッカー公爵が俺を見て笑った。

 公爵というからにはこの老人も魔術師だろう。しかし、魔術師であるジーク先生がいつも言う事とは全く違う。

 俺はふと、この老侯爵の背後に目を向けてしまった。

 ヴァイツゼッカー公爵とヘルガ部長の背後。ルヘルム宮殿の廊下は、見渡せない闇の向こうまで、どこまでも続いていた。

 俺は小さく身震いしてしまった。

 今は、繋いだアオイの手から伝わって来るこの温もりだけが、確かなもののように思えてしまう。

 俺はぎゅっとアオイの手を握り返した。



 月曜日から学校が再開された。

 一週間の始まりの聖フィーネ学院の朝。

 エーデルヴァイスのお嬢さまたちを乗せた高級車が続々と集まって来る朝の風景は、夜会襲撃事件前と変わらず、ただ増員された警備員の姿がちらほらと目に付くのが僅かな変化だった。

 俺とアオイも、いつも通りマーベリックの運転する車で登校する。

 車を降り立つと、はっと吐いた息が白くなって立ち上った。

 今朝は一段と冷え込んでいる。学院指定のエンジのコートを着ている生徒たちの姿も、随分多くなった。

 それもその筈。

 明日からはもう、11月なのだから。

 俺とアオイは、赤に黄色に色づいた街路樹が彩る小径を、2人並んで教室棟へと歩き出した。

 遠く少女たちの軽やかな笑い声と、透き通った早朝の空を行く小鳥の囀りが響いてくる。

 長閑で平和な朝の風景。

 俺は教科書とノートに加え、ハンドガンやとスタングレネードで重くなった鞄を両手で持ちながら、そっと隣を窺った。

 俺の隣を黒髪をなびかせながら歩くアオイは、学校指定とは違う黒いコートを身にまとっていた。

 気持ち良い朝とは裏腹に、アオイは伏し目がちに何やら難しい顔をしている。

 ヴァイツゼッカー公爵に呼び出され、あんな話をされて以来、アオイはこんな顔をしている事が多かった。

 落ち込んでいるとか塞ぎ込んでいるというのではない。ただじっと、何かを考えているような……。

 しかし、その原因はわかっている。

 ルヘルム宮殿での会談の後、お屋敷に戻る車の中で、アオイは少し悲しそうな顔でこう囁いたのだ。

「すまないな、ウィル。巻き込んでしまって……」

 アオイらしからぬ弱々しい謝罪の言葉。

 俺は直ぐに、何を言っていると笑い飛ばしたが、その一言でアオイの考えている事がわかってしまった。

 ヴァイツゼッカー公爵の企みを聞いて、そんな公爵に目を付けられたのは、俺がアオイと一緒にいるからだと思ってしまっているのだ、この姉さんは。

 ……まったく。

 俺がここまでやってこれたのは、アオイのおかげなのだ。アオイがいなければ、俺はあの廃工事で力尽きていただろう。

 それだけではない。

 俺にとってアオイと一緒にいることで得られたものは、掛け替えのない大事なものばかりだ。ただの軍警隊員のままだったら得られなかった経験ばかりなのだ。

 だから俺は、アオイの顔を見て、目を見て微笑んだ。

「気にするな、アオイ。俺は、アオイと一緒にいれて嬉しいんだ」

 その瞬間、一瞬目を丸くしたアオイは、みるみるうちに赤くなってしまった。そのまま眉をひそめ、ぷいっとそっぽを向いてしまう。

 そんな照れたアオイを見たのは、初めてだった。

 いつも余裕ぶっているアオイの素が見れた気がして、俺はさらにふふっと笑ってしまった。

 その時は表情を緩めたアオイだったが、その後も難しい顔は続いていた。

 あまり深く思い詰めないといいのだが……。

「アオイ」

「ん、ああ」

 教室棟の前でやって来ても、アオイは考え込んだ様子のままだった。俺が話し掛けて初めて、はっとした様に顔を上げる。

「じゃあ、また後でな」

 俺がふっと微笑む。

「ああ。今日も勉強に専念するんだぞ、ウィル」

 それでも別れ際、アオイはそう言って微笑み返してくれた。

 アオイと別れて自分の教室に入った俺は、クラスメイトたちと挨拶を交わしながら自分の席についた。

 あんな事件のあった後だが、クラスのみんなに浮ついた様子はなく、普通の連休明けのような雰囲気だった。

 朝のホームルームが始まり、教壇に立ったヒュリツ先生から事件の簡単な説明と、校外にいるであろうマスコミ関係者に関する諸注意が行われた。

 それを聞いても、クラスの誰もが既に心得ているという風に澄ました様子だった。

 貴族の家系に生まれ、魔術師の一族として育って来た彼女達だ。

 世間一般からすれば、貴族で魔術師という存在がどの様に捉えられているのか、わきまえているという事なのかもしれない。

 少なくともあまりショックを受けているような子がいないことに、俺はホッとしていた。

 しかし、その認識は一部誤りだった。彼女達は、事件に興味がない訳ではなかったのだ。

 それが分かったのは、1限目が終わった後の休み時間。

 いつも通りお喋りしようと集まったジゼルと俺は、あっという間にクラスのみんなに囲まれてしまった。その中には、別のクラスの子の姿もあった。

「ジゼル、あの事件で怪我したってホント?」

「アーレンさんが悪漢たちを1人で倒されたってホントですか?」

「凄いよ、さすがエーレルトさまの騎士だよ」

「格好いい……」

「ジゼルさん、アーレンさんの活躍、間近で見たの?」

「ねぇ、どんな状況だったのよ」

「ア、アーレンさん! サイン下さい!」

 どっと押し寄せて来る少女たちの大群。

 好奇心の塊のように輝いた目と良い匂いが、ぶわっと俺たちを取り囲む。

 ……む。

 その勢いと熱気に押された俺がじりじり後退し初めると、代わりにジゼルがさっと俺の前に立ってくれた。

 腰に手を当て、仁王立ちで。

「全部ホントよ!」

「おい!」

 颯爽とそう宣言してしまったジゼルさん。

 俺の小さな抗議など、一瞬で無視される。

「と言うかみんな、ウィルよりも負傷したあたしを心配しなさいよ」

 むうっと膨れるジゼルに、周囲から笑いが巻き起こった。

 徒党を組んだ群衆を押し止めるのは、困難を極める。

 ラミアにも抵抗は無意味と諭され、アリシアにも諦めの微笑みを向けられれば、もう俺には乾いた笑みを浮かべ、興奮した様子のお嬢さま方の真ん中でポツンと座っているしかなかった。

「ドレス姿で悪者達の大群に1人斬り込むウィル……。いや、勇ましかったよ!」

 まるで物語を語るように、ジゼルがみんなにあの夜の事を語る。その度に溜め息とも歓声ともつかない声が上がる。

 少女たちの好奇心は、止まるところをしらない様だ。

 そんな状態は、各休み時間も昼休みも続く事になってしまった。

 おかげで少しでもアオイの様子を見に行きたかったのに、2年生の階には近付くことも出来なかった。

 終業の鐘がなり、みんなが帰り始める時間になると、俺はすっかり疲労困憊状態だった。軍警の訓練とは違う、精神的な疲労で……。

「お疲れ様です、ウィル」

 隣の席のアリシアが、苦笑混じりの笑みを向けて来る。

「うん、疲れた……」

 俺は机の上で腕を組んでうなだれた。ストロベリーブロンドの髪がさらりとこぼれ落ちて来る。

「おつかれー」

「ひゃ!」

 急に肩が揉まれる。

 俺は自分でもびっくりするような悲鳴を上げて、ばっと振り返った。

 いつも通り無表情のラミアと困り顔のエマ、そして眼鏡をクイッと上げるイングリッドさんが立っていた。

「ウィルがお疲れなので、帰りにみんなで甘い物食べに行こう」

 奇襲を仕掛けてきたラミアが、悪びれもせずすっと小さく手を上げた。

「あ、それいいね」

 エマがうんうんと頷いた。

「あら。そういう事でしたら、良い店があります。以前お世話になったパティシエがいらっしゃってっ。ふふ、色んなケーキもいいのですけれど、シンプルなアップフェルクーヘンがもう美味しくて……」

 隣のアリシアもばっと顔を輝かせて手を合わせた。

 やはりみんな女の子だ。甘いものには目がないらしい。

 出遅れたジゼルが、向こうの方からやって来る。きっとジゼルも皆に賛成なのだろうが……。

 残念ながら俺には予定があった。

 学校が再開した今日からは、校内の会議室でジーク先生の魔術講義を受ける事になっていたのだ。

 早く魔術を習得して、アオイにも認めてもらえるように……。

 そこで俺は、ふっと思い出す。

 アオイがいつも俺に求めている事。

 アオイがいつも俺に言っている事。

 それは、対魔術犯罪者の捜査活動や軍警の作戦など参加せず、銃など手に取らず、普通の女の子らしく振る舞う事だ。

 ヴァイツゼッカー公爵の話に対し、巻き込んですまないとアオイが言ったのも、そうした政治的な動きに巻き込まれれば、普通の女子学生の生活からはさらに遠のく事になってしまうからだろう。

 ……少しくらいは、アオイの望む通りにしてもいいのかもしれない。

 もちろん俺は軍警隊員だ。全面的にアオイの言うとおりには出来ないが……。

 ほんの、ほんの少しくらいは、いいかもしれない。

「ウィルも行きますよね」

 アリシアが俺を見る。

「アリシアさん。アーレンさんはエーレルトさまの騎士なのだから、忙しいのよ。あまり無理強いしては……」

 イングリッドさんが気遣いの声を上げてくれるが……。

「行く」

 素直に頷くのが恥ずかしかったので、俺は少し俯き加減にみんなから目を逸らしながら、ぼそりとそう告げた。

 くっ……。

 これでは本当の女子学生みたいだ。

「……それで、アオイも誘ってもいいか?」

 俺はばっと顔を上げると、みんなの顔を見回した。

 ジーク先生には謝っておこう。

 この先、貴族派、軍警、そして俺とアオイを取り巻く状況がどう変わるかはわからない。

 しかし、今は。

 取り敢えず今は、アオイにほっと笑って欲しかった。

 読んでいただき、ありがとうございました!

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