Order:47
オーリウェルの目抜き通りであるアルトエンデ通りは、日が落ちて夜闇に沈むと、渋滞しながらもゆっくりと流れていく車のライトで、光の川と化していた。
その中をトロトロと進むタクシーの中で、俺はそっとため息を吐いていた。1人では広く感じる後部座席で、身を小さくしながら流れ行く車窓を見やる。
これから俺は、この迎えのタクシーに乗ってジーク先生に会いに行くことになっていた。
もちろん、魔術について色々と、そして魔術自体を教えてもらうために。
それだけなのだが、何だか俺は緊張というか何というか、胸の奥にもやもやとするものを抱えてしまっていた。
揃えた膝の上に置いた手を、俺はギュッと握り締める。
ジーク先生が寄こしてくれたこのタクシーは、明らかに最上位の高級車だった。さらに、目的地を聞けば、オーリウェルでも屈指の名のある大ホテルだそうだ。
アオイと一緒に生活するようになって、そういう庶民とは縁遠い高級な場所には慣れたつもりだった。
しかしいざ1人きりで見ず知らずの場所に行くとなると、やはり緊張してしまう。きっと、俺には場違いな所に違いないのだから……。
もし、アオイが隣にいてくれれば……。
俺は再びため息を吐いた。
俺の気を重くさせている原因。
それはもちろん、魔術といい未知の領域に踏み出す上での不安もある。しかしそれ以上に、昼間のアオイとのやり取りが、俺の胸の中に暗い影を落としていた。
お昼時。
あの老夫婦の食堂。
気持ちの良い午後は、一転して気まずい雰囲気に変わってしまった。
俺の魔術を学びたいという言葉を否定したアオイ。
その後も、アオイはじっと何かを考え込んでいるかのようだった。しかしこっそりとその様子を観察していると、どこかそわそわと落ち着きの無い様子でもあった。
いつも余裕の笑みを浮かべ、泰然としているアオイからは考えられないような動揺。
昼食を終えて店を出る時も、会計せずに立ち去ろうとして食堂のお婆さんを困らせたり、押せば開く食堂の扉をガチャガチャと引いて顔をしかめていたり、アオイらしからぬ行動が目立った。
迎えのマーベリックの車を待つ間も、アオイは顔半分に手を当てて何度も何度もため息を吐いていた。
そんなアオイに、俺は声を掛けられなかった。
何をそこまで動揺しているのか。
何故俺が魔術を学ぶ事を否定するのか。
その理由は分からなかったけれど、今まさにアオイをこうして苦しめているのは、間違いなく俺の相談の結果だということは良くわかっていたから。
だから俺は、この後ジーク先生と会う事になっているとは言えなかった。
マーベリックの車が到着し、一緒に屋敷へ帰るぞとアオイに手を引かれても、俺は首を振った。そして、今晩は軍警に出頭しなければならないと嘘を吐いた。
後ろめたかった。
俺はそっとアオイから目を逸らす。困ったような笑みを浮かべ、1人車に乗り込むアオイをちらりと見た瞬間、苦しい程胸が締め付けられる気がした。
しかし……。
今ジーク先生に会う事は、俺には必要な事なのだ。ジゼルのように傷付いた誰かを救えるようになるには、必要な事なのだ。
俺は心の中で何度もそう繰り返し、ジーク先生の迎えを待った。
俺を乗せたタクシーは、眩しい程の白い光で満ちる新市街を走り抜けていく。煌々と消える事のないオフィスの光が、格子模様となってビルのシルエットを形作り、夜空に向かって起立する。それはまるで、人の力が夜の闇を侵食しているかのようだった。
旧市街やアオイの屋敷の静かな夜とは対照的に、新市街の夜は、まるで昼間のような賑わいがそのままに残っていた。
タクシーはやがて、アルトエンデ通りに面した大きなビルの車寄せへと吸い込まれて行く。俺はタクシーの車窓から、そのビルの威容をただぽかんと見上げていた。
ロマーナ・アム・オーリウェルホテル。
各界の要人や著名人が良く宿泊する一流のホテルだ。俺も警備対象として何度も資料は目にした事があった。
しかし、実際来るのは初めてで……。
タクシーがゆっくり停車する。ホテルの制服を身に付けたドアマンが、直ぐに近付いて来てタクシーのドアを開けてくれた。
……ここまで来たら、うじうじしていられない。
俺は大きく息を吸い込み、キュッと唇を引き結んだ。そして学校指定の鞄を手に取ると、タクシーを降りた。
アオイとは明日、またゆっくりと話をしよう。
今は、俺の出来る事、成すべき事に全力を尽くすのだ。
学院指定の鞄を体の前で両手で握り締めた俺は、ホテルのロビーで早くも圧倒されていた。
眩い照明と高級感溢れる内装。上品な笑みを浮かべるフロントと、金の縁取の入った制服姿のベルパーソンたちのキビキビとした動き。ラウンジは、きちんとした身なりの客たちで大いに賑わっていた。
見上げる天井は5、6階分ほど吹き抜けだった。巨大で煌びやかなシャンデリアを見上げていると、目が回りそうだ。
アオイのお屋敷や聖フィーナ学院も、俺からすれば非常識な豪華さではあった。しかし、今俺の目の前に広がる空間は、どこか現実離れした煌めきに包まれている。伝統とか文化が作り出す壮麗さではなく、現代の豊かな経済が作り出す華美な空間に、思わず俺は頭が痛くなりそうだった。
予想していた通り、少なくとも聖フィーナの制服姿の俺は、ここでは場違いな存在に違いない。
キョロキョロと辺りを見回した俺は、取り敢えずチェックインカウンターにとととっと歩み寄る。
対応してくれたフロント係のお姉さんにあらかじめジーク先生から教えられていた部屋番号を告げると、お姉さんはニコリと上品な笑みを浮かべた。
「伺っております。どうぞ、ご案内致します」
「あ、どうも、すみません……」
俺がぺこりと頭を下げると、お姉さんはさらに柔らかな笑みを返してくれた。
そのお姉さんとは別の係員に案内され、俺はエレベーターに乗る。アオイのお屋敷にも負けないフカフカ絨毯が敷き詰められたエレベーターは、動き始めも動作音も全く感じられない滑らかな動きで上昇していった。
扉が閉まる度にガコンとなる軍警支部のエレベーターとは大違いだ。
エレベーターはぐんぐんと上階へと駆け上がる。
……こういうホテルは、上ほど高い部屋になるのではないのだろうか。
エレベーターが目的の階に到着すると、案内してくれた係の人がうやうやしく頭を下げた。
「こちらのお部屋でございます」
きょとんとしてしまう。
こちらとは、どの部屋だろうか。
エレベーターを降りた俺は、改めて周囲を見回した。
そこで初めて、今立っているエレベーターホールに面しているドアが1つだけだという事に俺は気がついた。
「それでは、快適な時間をお過ごし下さいませ」
係の人が笑顔のまま再びエレベーターに乗り込んだ。そのままチンっと扉が閉まると、そのフロアに1つしかない部屋の前に、俺はぽつんと取り残されてしまった。
……む。
俺はじっとドアを睨む。
この部屋にジーク先生が……?
しかし、その前に……。
俺はエレベーターホール脇の窓に歩み寄った。
眼下には、煌めくオーリウェルの夜景が広がっていた。
足元には昼間のように明るい新市街の街並み。街灯が並ぶ幹線道路は光の筋になって街中を駆け巡っている。大通りよりも淡い光がカーブしながら連なっているのは、ルーベル川岸の遊歩道だろう。
その川の向こうには、ライトアップされたルヘルム宮殿と、旧市街の街の柔らかな光が見えた。
いつかアオイに転移術式でつれて行かれた、ルヘルム宮殿の塔の頂から見た夜景を思い出す。
アオイ……。
俺はそっと首を振った。そして窓の外の景色から、窓に映り込む自分の顔に焦点を合わせる。
唇を引き結んで曇りがちになる顔を正しながら、手櫛で髪を整える。お気に入りのバレッタの位置を調整し、どこかおかしなところはないかと頭を振ってみる。
これからジーク先生に会うのに、失礼があってはいけない。
何といっても、ジーク先生はジゼルを助けてくれた恩人なのだから。
……よし。
少し強張った顔で窓ガラスに映る少女に頷き掛け、俺がいざジーク先生の部屋の扉に向かおうとした瞬間。
「遅いと思ったら、何をしている」
少し笑みを含んだ低い声が、背後から響いた。
突然の不意打ちに、思わず悲鳴が出そうになる。
何とかそれをこらえきり、まるで機械人形のようにギリギリと振り返ると、開け放たれた部屋のドアにもたれ掛かったジーク先生が、微笑を浮かべて俺を見ていた。
うぐ。
変なところを見られた……。
「こ、こんばんは! 今日はよろしくお願い致します!」
湧き上がって来る気恥ずかしさを誤魔化すように、俺は勢い良く頭を下げた。
髪がふわりと舞う。
頭を下げてから、しまったと思う。
これでは、せっかく髪を整えた意味がない。
「ふっ。さぁ、入るといい」
ジーク先生が俺を部屋の中へと促してくれた。
部屋の内装も、高級感溢れるものだった。ホテルの一室の筈なのに長い廊下があって、その先に広いリビングが覗いている。さらに廊下の左右にも扉があって、いくつも部屋があるみたいだった。
ホテルというより、まるでマンションだ。それも、高級な。
「どうした?」
後ろ手に扉を閉めたジーク先生が、呆気に取られている俺を見る。
俺は動揺を悟られまいと、ぶんぶんと首を振った。
「こちらだ」
俺はジーク先生について廊下の奥へと向かった。
俺の前を歩くジーク先生は黒いズボンに白いシャツ、その上からやはり黒のベストを着ていた。
いつも通りのフォーマルな格好のジーク先生だったが、しかしネクタイは外し、シャツの襟元は開かれていた。
リビングには、広いスペースにゆったりと大きな机とソファーが並んでいた。その椅子に、ジーク先生の上着が無造作に掛けられているのが目に入った。
部屋の前面を覆う窓からは、先ほど見たオーリウェルの夜景が見渡せる。壁には冗談に思えるほどの巨大な薄型テレビ。多分日本製だ。ふかふかの敷物とか、大きな絵画とか、やはり、凄い部屋だった。
「その辺りに座っていなさい。飲み物を持って来よう」
ジーク先生がちらりとリビングに続く部屋を見やる。その視線を追うと、そちらにはバーカウンターのテーブルが見えた。
……なんだ、あれは。
「お構いなく……」
俺は小さな声でそう応えるが、ジーク先生は大股にバーカウンターの方へと行ってしまった。
何か、勝手知ったるといった感じだった。それに、ジーク先生の鋭い眼光も、学校で会う時より幾分柔らかい気がした。どこかリラックスした雰囲気も感じられる。
魔術を教えてもらうのに、何故学校や、例えば先生の自宅とかではなく、こんなホテルなのかと思っていたが、もしかしたらこの部屋も先生のプライベート空間なのかもしれない。例えば、ホテル住まいしているとか……。
……あり得ないか。
俺は手近な椅子にちょこんと浅く座る。
こんな部屋に宿泊していられるなんて、余程裕福でなくては無理だ。それこそ、名のある旧貴族家とか……。
ジーク先生も強力な魔術師であるから、その可能性もない訳ではない。
もしかしたら貴族派の一員とか……。
いや。
俺は一瞬だけ目を瞑って、ジーク先生に疑いの目を向けそうになる思考を止めた。
例えジーク先生が貴族派の旧家に連なる人物であっても、ジゼルを助けてくれた人だ。アオイみたいに貴族派に連なる家名であっても信頼出来る立派な人間はいるのだ。貴族かもしれないというだけで疑っては、申し訳ないというものだ。
俺は気を取りなおし、もぞもぞと鞄を開いた。そして事前に準備しておいた猫柄の真新しいノートと筆箱を取り出した。
アオイに嘘を吐いてまで来たのだ。
しっかりと勉強しなくては。
グラスを2つとシャンパンのボトルを持って来たジーク先生は、既にノートを広げてペンを構えている俺を見て少し驚いたような顔をした。
俺は、「よろしくお願いします!」とジーク先生を真っ直ぐに見上げる。しかし、息巻く俺に苦笑を浮かべたジーク先生は、そのまま再びバーカウンターの方に消えてしまった。
今度はカットした果物とチーズが乗った皿を持って戻って来たジーク先生は、袖を捲り上げて太い腕を覗かせていた。
「ノンアルコールだ」
先生がシャンパンを注いだグラスを俺の前に置く。俺はそっと頭を下げた。
「そうだな。ではまず魔素を把握する所から始めようか」
シャンパンのグラスを手にしたジーク先生は、俺の隣でテーブルに寄りかかるようにして立った。
ジーク先生の大きな手が伸びてくる。
俺は思わず、びくっと肩を震わせた。
ジーク先生の手が、俺の頭の上、僅かに髪に触れるか触れないかという位置にかざされる。
「改めて言うが、ウィル・エーレルト。君からは強い魔素を感じる。魔素適正は十分にある。しかし術式を行使するには、まずこの魔素の流れを自らで把握しなければならない」
む……。
動いてはいけない気がしたので、俺はぎょろりと目だけでジーク先生を見上げた。
「俺はウィル・アーレンです、先生」
抗議する俺に、ジーク先生はふっと笑った。
「すまないな」
そしてジーク先生は手を引っ込めた。
「通常魔術師の家系に生まれた魔素適性の有る者は、魔素の把握を幼い時期に自然とこなす。走る、ボールを投げるといった動きが出来るようになるのと同じようにな」
俺はきゅっと眉をひそめた。
そんな感覚を掴むには、具体的にどうすればいいのだろう。
「目を瞑るといい。ウィル君。まずは、君の中に流れる魔素を自分で感じなければならない」
俺は神妙に頷いて、そっと目を瞑った。
魔素……。
魔術師に宿る世界を構成するための無色の力。
術式によって構築された魔素が、魔術として効果を発現させる。
魔術師を魔術師として、特別たらしめている力だ。
俺の中にもそれが……。
ガタリと椅子を引く音がした。ジーク先生が座ったのだろう。
む。
むむむ……。
しんと静まり返った部屋と目を閉じた暗闇の世界に、微かに響くのは俺の浅い呼吸音だけだ。
こうして瞑想の真似事をしていると、思い浮かぶのは昼間のアオイの事ばかりだった。
それではいけない。
集中しなければ……。
どれほどそうしていただろう。
耳に痛い程の静寂に耐えきれなくなった俺は、そっと薄く目を開けた。
うぐ……。
ジーク先生がこちらを見ている。
真っ直ぐに、微動だにせずに。
じわじわと緊張感が込み上げて来る。同じくらい、気恥ずかしさも。
俺は再びぎゅっと目を瞑った。
「ウィル君は魔術を毛嫌いしていたようだが……」
今の盗み見が気付かれたのか、俺の集中力が切れたのを見透かしたようにジーク先生が静かな口調で話し掛けて来た。
俺はふっと息を吐いて目を開く。
「素直に私の指導を受ける気になったのは、どういう心境の変化かな」
机に肘を突き、長い足を組んだジーク先生が、俺を見据えたまますっと目を細めた。
俺は少しだけ目をそらし、一瞬迷う。
気持ちを言葉にする事にではなく、どう表現したらいいかに。
だから俺は、なるべく端的に告げる事にした。
ジーク先生に偽りは告げられない。俺はこれから、この人に教えを乞わねばならないのだから。
俺はぐっと力を込めて、ジーク先生を見た。
「俺、ジーク先生が凄いなと思いました。ジゼルを、他人をあれほど鮮やかに救えるなんて……。俺にはできない事だ。だから、ジーク先生みたいになりたいなって。先生に憧れて……」
ジーク先生がふっと笑った。少し照れくさそうに見えたのは、気のせいだろうか。
俺はさらに言葉を続けた。
「同じように、俺はアオイにも憧れています。アオイにはいつも助けられてばかりで……。だから、アオイみたいになれたらとも思ったんです」
まだアオイにも、誰にも告げた事のない密かな思いを口にして、俺は自分でも少し赤くなってしまうのがわかった。
だから、照れ隠しに少しだけ首を傾げて微笑んでおく。
しかしアオイの名を出した途端、ジーク先生がすっと無表情に戻ってしまった。
「……あの女みたいに、か」
吐き捨てるように呟いたジーク先生は、ギラリと鋭い眼光で俺を睨みつけた。いつものような怖い目だ。
「笑えないな」
「ジーク先生?」
俺は眉をひそめる。
そんな俺の言葉が聞こえなかったかのように、ジーク先生が立ち上がった。
「ウィル君は、とりあえずこれから毎日、体内の魔素の流れを把握するように努める事だ。ちょっとした空き時間で構わない。出来るだけ頻繁に試しなさい」
ジーク先生は腕組みしながら俺を見下ろした。
「それがかなえば、汎用術式など直ぐに行使出来るだろう。そうだな。火球が扱えるようになったら、まずは合格としよう」
火球……。
魔術犯罪者が最も使用する汎用攻撃術式だ。ポピュラー故に対処が確立されているが、侮れない威力と安定性があるのは確かだ。
しかし……。
俺もガタンと椅子を鳴らして立ち上がった。大きく息を吸い込み、思い切って一歩踏み出す。
「実は、ジーク先生にお願いがあるんです」
俺とジーク先生の身長差は圧倒的だ。俺は上目遣いにジーク先生を見上げる。
「俺は、攻撃の術式は学びたくないんです。魔術で誰かを傷つけたくはないから」
それは、アオイが悲しむから。
魔術は習う。
しかし、攻撃術式は絶対に行使しない。
これは、魔術によるテロで大切な者を亡くした俺の感情と、魔術で悲しむ人は見たくないというアオイの気持ちを汲んだ上での俺なりの妥協点だった。
それが詭弁なのはわかっている。
恐らく俺は、これからも銃を手に取り、魔術犯罪者や理不尽な暴力と戦って行く。攻撃魔術を使用しなくても、銃で戦えば同じことだ。
しかしこれは、軍警に身を置き、魔術犯罪者と戦うと決めた俺なりのけじめなのだ。
……アオイの妹であることへのけじめでもあると、俺は思っている。
も、もちろん、形上での妹、という意味だが!
「だから、癒しの術式とか、防御壁の術式とか、そういう魔術を使えるようになりたいって思ったんです!」
少し早口にそう宣言してしまった俺。
気がつくと、胸の前でぎゅっと拳を握り締めていた。
そんな俺を冷静な目でじっと見下ろしていたジーク先生は、一瞬の間の後、耐えられなくなったかのように微笑みを浮かべた。
呆れたような苦笑いだった。
「防御壁の術式はさほど難しくない。しかし、治癒は他人に干渉する以上、難易度は汎用術式の比ではない。それでもやるのか?」
高難易度か……。
魔素すら感じられない今の状態では、想像も及ばないが……。
しかしこれは、俺が新たな力を得られるチャンスなのだ。
軍警の訓練だって、入隊直後はついて行けなかった。キルハウスのクリア基準だって、最初は到底手の届くタイムではなかったのだ。
でも諦めず、繰り返し繰り返し挑んで、最後にはクリア出来た。
魔術だって……!
「頑張ります!」
俺は大きく頷いた。
その瞬間、ジーク先生の大きな手が再び伸びてきて、今度は俺の頭の上に乗せられた。そしてそのまま、数回ポンポンと優しく叩かれた。
……む。
「くくくっ、それでこそだよ。見込んだ甲斐があるというものだよ、ウィル・エーレルト」
今度は苦笑ではなく、楽しそうに笑うジーク先生。
何だか凄く屈辱的な状況だ。
……それに、やはり俺の名を間違っている。
ジーク先生の初回の魔術講義を終えた俺は、アオイの屋敷までタクシーで帰ることにした。夜も遅かったので公共交通機関はもう動いていなかったし、一旦自宅まで戻り、自分の車で帰ろうかとも思ったが、またロイド刑事のお世話になるのも嫌だったから。
エーレルト伯爵邸に返り着くと、アレクスさんがまだ起きて俺を待っていてくれた。
俺は、ウィルお嬢さまと頭を下げてくれるアレクスさんに感謝と労いを伝えてから、そそくさと自室に戻った。
今日も色々な事があった。
アオイとの出来事。それに、あんな事があった後に強行したジーク先生の魔術講義も、今日の所は大した前進はなかった。
俺はふうっと息を吐く。
どしんと重たい疲労感が、体の奥に沈殿しているのを感じる。
……明日の朝、アオイとちゃんと話せるのだろうかという不安も、そんな疲労感を大きくしている原因だろう。
今日はもう休もう。
部屋の明かりをつける事もなく、俺は制服のブレザーを脱ぐとハンガーに掛けた。そのままタイを緩め、引き抜いた俺は、スカートを落としてタイツを脱ぐと、シャツ一枚になる。
アレクスさんかレーミアか、暖房を効かせてくれていたので、そんな格好でも寒くはない。
バレッタを外して髪を解きながら、俺はそのままベッドに向かい……。
「えっ……」
思わず、びくりと身をすくませた。
俺のベッドには、先客があった。
猫頭のぬいぐるみを枕代わりに横になっている黒髪の少女。
目がだんだんと部屋の暗闇になれてくる。
俺のベッドには、アオイが寝息を立てていた。
何でだ……。
俺はしばらく黙考する。ベッドを占領されているので、ソファーで眠ろうかとも考える。
……しかし。
まぁ、いいか。
俺はそのままぽすっとベッドに腰掛けると、静かにアオイの隣に横になった。
何故か今は、こうしていたいと思った。
昼間の事と、さらに嘘をついてジーク先生のところへ行った後ろめたさがあったからだろうか。
……ただ、アオイと距離が開くのに耐えられなかったからか。
しかし確かなのは、アオイの隣でこうしていると、心の奥がすっと静かになって行く気がするという事だった。体を重くしていた疲労感が、不思議と苦にならなくなるように……。
アオイがもぞっと動いた。
俺はちらりとそちらを見た。
「遅かったな、ウィル」
目を開かず、小さくそう告げるアオイ。
「……うん。ただいま」
俺も小さくそう返した。
「……悪かったな、ウィル」
アオイが小さく続ける。
「……俺も」
俺も囁くように返事する。
睡魔は待ったなしにやって来て、いつの間にか俺は、そのままアオイと一緒に眠りに落ちた。
もちろん、次の朝起こしに来たレーミアに小言を言われてしまったのは、当然の結末だった。
読んでいただき、ありがとうございました!




