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Hexe Complex  作者:
11/85

Order:11

 車を降りると、濃い緑の匂いが漂ってきた。車のエンジン音が消えると、蝉の声と小鳥のさえずりが俺たちを包み込む。

 微かに吹き抜ける風が爽やかで、オーリウェル市街地よりも随分と涼しく感じられた。

 セダンにそっと手を掛けて、俺は広い車寄せからエーレルト伯爵の屋敷を見上げた。

「こちらに」

 白馬を降りたメイドの少女が、屋敷の玄関扉に手を掛けた。

 微かに軋みを上げて、大きな扉がゆっくりと開く。

 メイド少女の背の向こうに広がる伯爵邸の内部は、思った以上に明るかった。

 玄関扉の正面、広い玄関ホールを挟んだ反対側が一面ガラス張りになっていて、そこから外と変わらぬ陽光が差し込んでいたからだ。

 磨き上げられた床。絢爛豪華なシャンデリア。歴代の伯爵だろうか、大小様々な絵画が並ぶ壁面。豪奢な絨毯が階段を登り、2階へと続いている。

 本当に、これが個人の家なのだろうか……。

 俺は目の前に広がる光景に圧倒されて、ただキョロキョロするだけだった。

 アリスが感嘆の声を漏らし、バートレットもほうっと声を上げていた。

「ようこそ、エーレルト伯爵家へ」

 不意に、玄関ホールに低い声が反響する。

 そのホールの真ん中に立っていた人物が前に進み出て、俺たちに頭を下げた。

 内装に見入っていた俺たちは、慌てて姿勢を正し、礼をする。

「ご挨拶が遅れました。軍警オーリウェル支部より参りましたアリスです」

 アリスが俺たちを代表して名乗りを上げ、身分証を提示した。

「こちらがバートレット捜査官とアーレン隊員です。エーレルト伯爵の身辺警護の命を受け、参りました」

「ええ。ご苦労様です」

 そう言ってにこやかに微笑むのは、クラシカルな燕尾服を身にまとい、銀髪を後ろへ撫で付けた老人だった。深い皺が刻まれた顔。しかしさっと背筋をのばし、姿勢は良い。糸のような目をさらに細めて、柔らかな微笑みを浮かべている。

 先ほどのメイド少女がその老人に並んだ。

「私はエーレルト伯爵の執事を勤めますアレクスと申します。こちらは我が孫にして女中のレーミア。よろしくお願い致します、皆様方」

 一糸乱れぬ動作で揃って頭を下げる祖父と孫。

 それにしても、執事とか女中とかいう職業というのは現存していたのか……。

 密かにカルチャーショックを受けていた俺の方に、アレクスさんが顔を向けた。

「あなた様がウィル・アーレンさまですね?」

 糸目が僅かに開き、老人の鋭い眼光が覗く。

 表情は笑顔そのものだったが、目だけは笑っていない。

 不意に、背筋がぞくりと粟立つ。

 気圧されそうになった俺は、思わず一歩後退ってしまった。ヒールが、カツンと大きく音を立てる。

「ふむ。なるほど、なるほど……」

 小さく呟くアレクスさん。

 気が付けば、メイド少女のレーミアも、やはりあの刺すような視線を俺に向けていた。

 何か言わなくてはと、俺が口を開こうとした瞬間。

「すみません、ちょっとお聞きしてもよろしいかな?」

 バートレットが間延びした声を上げて手を上げた。

「はい、何でしょうか」

 アレクスさんの視線がバートレットに向く。

 俺は金縛りが解けたように、ふうっとゆっくり息を吐いた。

 いつの間にか背中が汗に濡れていた。

 ……ブラウスが張り付いて、少し気持ち悪かった。

「今回の任務、そこのアーレン君をご指名だと聞いているんですが、事情説明は願えるんでしょうな?」

「ふむ。では、早速お仕事の話と参りましょう。こちらへどうぞ」

 アレクスが1階奥へと続く廊下を指し示した。

 俺は歩き出したアレクスさんやレーミアの後に続き、ヒールを鳴らして歩きながら、きっとその背を睨んだ。

 バートレットの質問に、アレクスさんは仕事の話と応じた。

 つまり俺の指名は、仕事の内容と関係あるのか。それとも、はぐらかそうとしているのだろうか?

 どちらにせよ、アレクスさんはただ者でない様に思えた。

 匂いがする。

 あの目……。

 あれはまるで、ミルバーグ隊長やノルトン教官のような目だ。

 即ち、歴戦の強者の目。

 俺たちの前を歩く老執事からは、その強者の匂いを感じた。

 俺は左腕を抱き寄せる。

 ふにっと胸に当たる固いホルスターの感触。

 やはり油断ならない。

 俺はそっと拳に力を込める。



 案内された応接室も、やはりクラシカルな雰囲気が漂う高級そうな部屋だった。

 ふかふかの絨毯と、腰掛けると沈み込みそうなソファー。様々な形のグラスが並ぶ棚。大きなテーブルは飴色で、フルーツが盛られた籠が置かれていた。

 アリスとバートレットが並んでソファーに腰掛け、俺が下座の1人掛けに座る。そして背筋を伸ばしたアレクスさんが、バートレットたちの対面に腰掛けた。

 メイド少女のレーミアは、一旦部屋を出て行く。

「彼女、まだ若いですな。学生さんでしょう」

 バートレットがにこやかにアレクスさんに話し掛け、煙草を掲げて見せた。

 アレクスさんがやはり笑顔で灰皿を差し出してくれる。

「今年で14になります。中学生ですが、私共々ここに住まわせていただいている身。学校がない時は、ああしてお手伝いをさせていただいているのです」

 住み込みか。

 確かにこんなに大きな屋敷なら、何人でも住めそうなものだ。

「時に……」

 アレクスさんが膝の上で手を組み、俺に視線を向けた。

「そちらのアーレン捜査官も随分お若く見えますな。レーミアより少し上ですかな?」

 ドキリとする。

「……16歳になります」

「彼女は我々軍警の協力員なんです。お兄さんが隊員で……」

 何とか設定通りに答えられた俺の後を、アリスが引き継いでくれる。

「先ほどもお聞きしましたが……」

 バートレットが紫煙をくゆらせてアレクスさんを見据えた。

「そんなアーレン君をご指名なさったのは、伯爵さまのご意向ですかな?」

 その質問に対してアレクスさんはふっと笑みを浮かべた。

 その時、タイミング良くがちゃりと部屋の扉が開いた。

 そちらに視線を送ると、銀色のワゴンにティーセットを載せたレーミアが応接室に入って来る所だった。

 レーミアがカチャカチャとお茶の準備を始めると、話は一旦打ち切りになってしまう。

 バートレットが関係のない調度品の話を振り、アレクスが笑顔で応じる。

 話を聞いていると、バートレットが意外にも教養深い事がわかった。

 少し驚いてしまう。

 室内に紅茶の香りがふわりと漂う。

 お茶の準備が整う間も、アリスは手帳を取り出し、物凄い勢いで何かを書き付けていた。

 俺はこういう腹の探り合いや、駆け引きの必要な会話は不慣れだし苦手だった。ただ膝の上に手を置いて、座っていることしか出来なかった。

 馴れない雰囲気に、あまり居心地が良くない。

 紅茶が一通り並ぶと、さて、と前置きをしたアレクスさんが今回の身辺警護について話し始めた。

 伯爵家を取り仕切る老執事が語った内容は、概ね俺たちが予測したものと同じだった。

 貴族派に属してはいても、まだ当主が未成年ということもあり、政治とは距離を置いているエーレルト伯爵家。

 しかし貴族派内の武断派やそれに付随する強硬な貴族たちが、エーレルト伯爵家の後援を取り付けようと迫って来ているらしい。

「魔術を暴力的に利用する彼らのスタンスは、とうてい認められるものではありません」

 アレクスさんは眉をよせ、厳しい顔をする。

「現伯爵家当主、つまりアオイお嬢さまも、件の強行論を唱える連中とは距離を置くべきだとお考えなのです」

 しかしそうした態度故に、嫌がらせを受ける事になってしまっているのだという。

「先月は敷地内に不審者が侵入する騒ぎがありました。2週間ほど前には、裏庭に地剣の術式が撃ち込まれる騒ぎもございました」

 アレクスさんが顔を曇らせる。

 地剣の術式は、大地を鋭く隆起させ、足元から対象を貫く攻撃性汎用術式だ。もちろん対象が直上にいないと効果はないが、建物すら破壊しかねない効果を秘めた危険な魔術である。

「我々もエーレルト伯爵にお仕えする身。多少の魔術の心得は御座います。しかし攻撃術式まで撃ち込まれては、最悪の事態も想定せねばなりません。アオイお嬢さまの身の安全を第一に考え、ここは対魔術師のプロに、つまり軍警の方々に身辺警護を依頼させていただいた次第なのです」

「なるほど、ね」

 バートレットが無精髭の生えた顎を撫でる。手帳とペンを手にしたアリスが普段とは違う鋭い視線をアレクスさんに向けていた。

 俺はうんうんと頷きながら、バートレットたちとアレクスさんたち双方を窺う。

「では、危険が迫っているのならなおのこと、一定数の部隊を投入する事をお勧めしますね」

 確かに、バートレットの言うとおりだ。

 強力な魔術師を制圧するには、個ではなくチームの力が必要だ。

「しかしながら、主は、アオイお嬢さまは、姦しいのが苦手でございます。なんとかあなた方で対処いただけませんか?」

 魔術師に狙われているとは思えない穏やかな口調で答えるアレクスさん。

 バートレットとアレクスさん。

 2人とも表情はにこやかだが、その間にはどこか張り詰めた空気が流れているような気がした。

「ふむ。では伯爵閣下にお会いする事はできるのでしょうな?」

 バートレットが片眉を上げる。使用人のアレクスさんではなく、主であるエーレルト伯爵にアプローチするつもりなのだろう。

「ええ、もちろんでございます」

 アレクスさんが大きく頷いた。

「レーミア。アーレンさんをお嬢さまのもとにご案内して差し上げなさい」

 アレクスさんが部屋の隅で待機していたレーミアに声を掛けた。

 こくりと頷いた銀髪の少女は、やはり鋭い視線で俺を見た後、ドアの方を指し示した。

「ウィル・アーレンさま。こちらに」

 俺は頷いて立ち上がる。同時に、バートレットとアリスも立ち上がった。

「いや、申し訳ありません」

 しかし、アレクスさんがさっと手を上げた。

「お嬢さまがお会いになるのは、アーレンさまのみで御座います」

 む? 

 俺は眉をひそめる。

 同じような厳しい顔つきのバートレットとアリスと、さっと視線を交わした。

 警備担当としてお会いしておきたいと食い下がるアリスに、アレクスさんはゆっくりと首を振った。

「アオイお嬢さまは只今体調を崩されているのです」

 しかし……。

「何故自分なのでしょうか?」

 思わず質問した俺をじっと見据えるアレクスさん。またあの妙な迫力を感じる微笑みを浮かべて……。

「当家の主の意向でございます」

 柔らかな言葉だが、有無を言わさぬ響きがある通告。

 俺たちは再び視線を交わした。

 ここで躊躇するのは簡単だが、それでは話が前に進まない。

 それに、屋敷まで俺を呼びつけて、さらにどうこうしようというのなら手段が回りくどすぎるし、言い逃れも出来なくなる。

 ……飛び込んでみるしかない。どんなに危険でも、俺に出来ることがあるのなら。

 アリスは心配そうに顔を曇らせていた。バートレットが俺を見て頷いてくれる。

 俺も2人に小さく頷き、アレクスさんとレーミアを見た。

「わかりました。よろしくお願い致します」

 俺は銀髪の少女の小さな背中に従って、歩き出した。



 レーミアに先導された俺は、三階に上がった。

 左手に並ぶ窓から差し込んだ午後の陽光が、綺麗に磨き上げられた廊下を輝かせる。一定の間隔で並ぶ調度品も絵画も、そもそも精緻な装飾が施された廊下自体が、俺にとっては珍しいものだった。

 そうして周囲に気を取られていると、いつの間にかレーミアと距離が開いてしまう。

 その都度俺は、カツカツと歩みを早める。

 レーミアは、小柄の割に歩くのが早かった。案内しているというよりも、1人ですたすた歩いていくような歩調だった。

 何だか話しかけ辛くて、特に会話もないまま3階の廊下の奥までやってくると、レーミアが突然立ち止まった。

 くるりと踵を返して、メイドの少女が俺を見上げる。

 ……睨むように。

「こちらがお嬢さまのお部屋です。くれぐれも」

 レーミアが一歩踏み出して俺に迫って来る。

「くれぐれも!失礼の、無いようにっ!」

 静かだが、威圧感のある口調だ。

「了解」

 俺はこくりと頷いた。

「本来はあなたみたいな下賤の方が立ち入れる場所では……」

 俺から目を逸らしたレーミアが、ぶつぶつと何かを呟いている。

「何か……」

「……お嬢さまは体調を崩され、お休みされているのです。もうこれ以上、お嬢さまにご迷惑を掛けないように!」

 再びきっと俺を睨んだレーミアに、ぴしゃりとそう言われてしまう。

 ……迷惑?

 訝しむ俺を無視して、レーミアがノックした。

「失礼致します。アオイお嬢さま……」

 俺は気を引き締める。

 果たしてこの先に何が待ち構えているのだろうか。

 アオイ・フォン・エーレルト伯爵の私室は、ふわりと甘い香りがした。

 屋敷の規模から考えて、どれだけ広い部屋なのかと身構えていたが、ドアの向こうに広がっていたのは、居心地の良さそうなこぢんまりとした寝室だった。

 天蓋付きの大きなベッド。ぎっしりと本が詰まった壁一面の本棚。窓際の書き物机と、開け放たれた窓から吹き込む風に大きくはためく白のカーテン。

 ソファーセットの隣には俺の家と同じくらいの小さなテレビがあって、確かに豪華ではあるけれど、稀代の魔女の本拠地にしては常識の範囲内の部屋だった。

「お嬢さま。ウィル・アーレンを連れて参りました」

 先ほど俺に注意した時とは全く違う澄ました声でレーミアが告げるが、部屋の主から返事はない。

「お嬢さま?」

 レーミアが訝しみながらベッドに歩み寄る。

 俺もどうしていいのかわからなかったので、取りあえずレーミアの後に続いた。

 レーミアが天蓋付きのベッドに掛かったベールを開いた。

 清潔そうな真っ白のシーツが敷かれたベッド。沢山のクッションが並ぶそこには、今まで誰かが寝ていたような跡があった。

 あっ。

 猫頭のぬいぐるみがある。俺のと同じだ。

「お、お嬢さま……」

 誰もいないベッドを見て、レーミアが狼狽えだした。

「まだお加減がよろしくない筈なのに……」

 レーミアが部屋の中を見回す。

 彼女の只ならぬ様子に、俺も胸の内がざわりとした。

「先ほどまでお休みだったのに……」

 ぱたぱたとスカートを翻し、寝室に続く部屋を確認して回るレーミア。その姿に、先ほどまで泰然と構えていた余裕はなかった。

 先ほどのアレクスさんの話が思い出される。

 伯爵の身に危険が迫っているのだとすれば……。

 開け放たれた窓。

 もぬけの空のベッド。

 嫌な予感がする。

「レーミアさん。伯爵はまだ寝ていなければならない状態なんだな?」

「えっ、はい、そう、です……」

 俺の問いに、レーミアは心配そうな顔を向ける。

「伯爵を探そう。どこか心当たりのある場所は?」

 俺の問い掛けに、はっとこちらを見るレーミア。

「わ、わかっています……!これから見に行きますから!」

 きっと俺を睨み付けるレーミア。そしてメイド服のスカートを持ち上げると、足早に廊下へ飛び出した。

 俺もその後に続く。

「レーミアさんは屋敷の中を頼む。俺はバートレットたちに知らせてから、屋敷の外を見てくる」

「わ、わかりましたけど、えっ、お、俺って?」

 俺はこの屋敷の構造がまだ良くわからない。下手に探し回って迷子になるより、詳しいレーミアに任せた方が良い。

 その代わり足を使って屋敷の周りを探そう。

 俺は小走りに今来た道を戻り始めた。

 レーミアと別れ1人になると、気ばかりが焦り始める。

 嫌な想像が湧き上がる。

 アレクスさんの言っていた魔術師の襲撃。それが騎士団のような手段を選ばない奴らだったら……?

 エーレルト伯爵といえど、体調が悪かったのなら魔術が使えないかもしれない。そうなれば、下っ端の魔術師にだってやられるという可能性が……。

 俺はそっと頭を振る。

 落ち着け……。

 階段を飛び降り、たんっと踏切りながらジャケットの中のホルスターにそっと触れた。

 エーレルト伯爵には聞きたい事が沢山ある。

 急いで見つけなくては……。

 一階の玄関ホールまで戻って来た俺は、急いでバートレットたちのいる部屋に向かおうとして、しかしふと、視界に何かが映ったような気がして立ち止まった。

 玄関ホールの先。

 ガラス張りのバルコニーの向こう。

 屋敷の裏手にある芝生の庭園に、小さな木製の東屋が立っていた。

 そちらにふらっと入っていく人影。

 裾の長いワンピースのような服が、微風をうけて翻る。

 あれは、もしかして……。

 俺は思わず、そちらに足を向けた。

 バルコニーには、ガラス張りの戸を開けて出る事が出来た。

 外に出た途端、濃い緑の匂いと蝉時雨に包まれる。

 微かにヒグラシの声が混じっているのは、もう夕方になろうという時刻のせいか。

 芝生の中をうねって進む小道を辿り、俺は東屋を目指した。

 途中、小川に掛かった石の小橋を渡り、低い丘を登る。

 その上に立つ木製の東屋は、中央に小さな木製のテーブルが設えられ、その周りを目隠しを兼ねたベンチが取り囲む形状をしていた。

 そこに、少女がいた。

 足を組み、膝の上に広げた本に目を落としている。

 腰まで届かんばかりの黒髪は癖1つなく、伏せられた目には長い睫が揃っている。

 白い肌はやや青白いように見えたが、その頬も少し開いた唇にも微かに朱が差していて、病人には見えなかった。

 俺が東屋の外からぼうっと彼女に見入っていると、何か気配を察したのか、黒髪の少女が顔を上げた。

「ん、君は……」

 透き通った声が響く。

 この声は……。

 俺は鼓動が早まって行くのを感じていた。

 この声。

 ……俺は、この声を知っている。

「ウィル・アーレン?」

 黒髪の少女はパタンと本を閉じた。

「そう、です……」

 俺は、震える声でなんとか答えた。

 彼女が微笑む。

 それは、輝くような笑みではない。例えるならば、真夜中の三日月のような、静かに落ち着いた笑みだった。

「エーレルト伯爵さま、ですか?」

 間違いないと確信があっても、俺はそう尋ねていた。

「ああ」

 彼女が立ち上がる。

 エーレルト伯爵が身に付けているのは見慣れない衣装だった。

 白い布地を胸の前で合わせて、幅広の帯で止めている様だ。テレビで見た日本の伝統装束に見える。

「私の事はアオイでいい、ウィル」

 エーレルト伯爵……アオイは、草履を履いた足を小幅に動かして、俺に歩み寄って来た。

 アオイが目の前に立つと、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。

 アオイは今の俺と同じぐらいの背丈だった。

 目の前にある魔女の顔。

 声は、忘れもしないあの夜、あの場所で聞いた声。

 しかし目の前にある顔は、あの廃工場でみた人形のような魔女の顔ではない。

 嬉しくて嬉しくて、その喜びを堪えきれないといった少女の顔だった。

「ウィル。そうか、ウィルか」

 何度も何度も、アオイが呟く。

 そして突然、長い袖をふわっと広げると、俺を包み込んだ。

「ああ、良かった……」

 アオイが、エーレルト伯爵が、俺を抱きしめる。

 何がそんなに、嬉しいのか……?

 彼女は心底安堵したように、俺を抱き締めて何度も何度も呟いた。

 良かった、と。

 突然の事態に、俺は身動き出来ない。

 そんなに強い力でも無いはずなのに、彼女を振り払えない。

 彼女の温かみを感じ、早鐘の様に打つ自分の心臓の鼓動を感じて、果たしてどれくらいそうしていただろう。

「アオイお嬢さま!」

 遠くからレーミアの声が聞こえて来た。

「アオイお嬢さま、だ、大丈夫で……」

 俺たちの近くまでやって来たレーミアが固まる。

「な、何を!いけません!お嬢さま!」

 唖然として停止したレーミアが、猛然と俺とアオイを引き剥がしに掛かった。

 素直に俺から離れて行くアオイ。

 俺は、破裂しそうな程高鳴る胸を押さえて一歩後退った。

 急激な展開に頭がついていかない。

 はっ、はっ、と息をしながら呆然とアオイを見る。

 はしたない真似は自重下さいませと注意するレーミア。

「すまないな」

 レーミアに謝りながら、俺を一瞥するアオイ。

「しかし同性なのだから問題ないだろう?」

 アオイは悪戯っぽくにこりと微笑むと、再び俺にすっと顔を寄せて来た。

 ドキリとする。

「お、お嬢さま!」

 レーミアが声を上げる。

 しかしそれも意に介さず、アオイは俺の耳元に口を寄せると、そっと囁いた。

「君の成すべき事は、達成出来そうか?」

 俺は、はっと間近にあるアオイの顔を見た。

 黒髪の少女は、ふわりと微笑む。

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