59.二人きりの個人レッスン
「はぁ、はぁ……」
久遠さんの荒い息遣いが、狭い室内を満たす。
汗ばんだ肌は熱気を帯びていて、長く伸びた脚は抑えが効かなくなったように小刻みに震えていた。
「……大丈夫?」
「くっ、話しかけるな。もう少しでいけそうなんだ」
僕の声掛けに、久遠さんは途切れ途切れになりながらも続行の意思をみせる。
前髪が額に張り付いて、頬が紅潮している。
「ん〜〜っ」
そして久遠さんは声にならない声をあげたあと、身体を弛緩しさせた。
「最後までよく頑張ったね」
お疲れ様、と僕はヨガマットに倒れ込む久遠さんにタオルと水を差し出した。
ここはアスタリクの事務所スターライトの持つダンススタジオ。
いま僕は久遠さんとそこで二人きりで久遠さんに頼まれた自主トレーニングの指導をしていた。
一緒にしていたのはサーキットトレーニング。
決められた数種目の筋トレと有酸素運動をそれぞれ決めれた秒数を行い、時間が経ったら次の種目に移る、それをぐるぐる繰り返すとするトレーニング方法だ。
筋力も体力も使うから結構疲れる。
中でも六槻がやっていたメニューを基に作ったからハードだったりする。
プリズムプリズンのパフォーマンスは派手でダイナミックだから体力がいるのだ。
それをなんとかやりきった久遠さんはさすがアスタリスクのメンバーだ。
久遠さんは僕の手からひったくるように水を奪って、煽る。
「はぁ、はぁ……いつもは使わない筋肉を使ってるようで苦しい。お前は余裕そうだな」
「疲れるけど、日頃からやってるしね」
裏方サポートの中のひとつ、時にはアイドルのボディガードとして身体を張ることを想定して常日頃鍛えていた。
それに連日連夜の元家族の姉妹全員のサポートをするには体力は欠かせない。
「というか私を鍛えるためにやるんだ、お前が一緒にやらなくてもいいだろ」
「そうだけど、一緒にやってる方がなんか頑張れたりしない?」
僕はいっつも一人で孤独だったから、誰かと何かをするのは楽しい。
楽しみながらの方が頑張れると思う。
「ああ、そうだな」
うんうん、久遠さんも分かってくれたみたいだね。
「お前の涼しい顔を見てると、私がやめるわけにも行かないって悔しい気持ちになって頑張れた、な」
ぎろり、と久遠さんは僕のことを睨みつけている。
えええええええ!! 意図しない形で頑張られてるんだけど!?!?
「あ、はははは」
どういう形であれ頑張ってくれるならいいかな。
そういえば六槻がトレーニング始めたのも、小学校高学年くらいの頃に僕がトレーニングをしてるのを見て、『お前如きができるもんをオレができねえわけがねえだろっ! 教えろ!』って対抗心MAXで突っかかられた時が始まりだったっけ。
女性が男性と同じメニューをするってなかなかすごいことだというのは、後から知った。
体力が回復した久遠さんが立ち上がっていう。
「それにしてもこうもよく私の弱点を突くようなメニューが組めたんだ?」
「あはは、弱点を突くって酷い言われようだね」
あながち間違ったことを言ってる訳でもないけど。
「そうだね。久遠さんを鍛えるとなったらまず、最近のライブ映像を何本か事務所からお借りして全部観たんだ。そうやってどの時間から体力が落ちたりどの振りが苦手そうか観てまずは現状の把握をしてから、弱点や足りない筋力や鍛えるポイントを見極める。そこでメニューを組んだからかな」
「は? 昨日の今日でそんなことをしたというのか?」
「うん、そうだけど……。そうすることで一層キレのあるダンスができたり、伸びやかな歌声、ライブ終盤まで最高のパフォーマンスをすることに繋がると思うから、それくらい普通するよね?」
「普通じゃないだろ! 急に頼んでそこまでするのか……」
久遠さんが目を見張って大声をあげる。
プリズムプリズンのサポートをしていた時はメンバー全員にそうしていたから、今回は一人だけをするのは簡単だったけどな。
昨日の夜ずっとライブ映像を観ていたら、八茅留ちゃんが『この女が好きなのです?!』とか、七菜ちゃんが『この歌より自分の歌を聞くのだよ』とか横からちょっかいかけてきた方がよっぽど大変だったよ。
仕事だからと説得するのは骨が折れたな……。
「それで私の弱点をお前はどう見る。」
遠慮はするなよと、真剣な目で久遠さんが僕を見据える
ここは仕事だからちゃんと伝えないとな。
「体幹のブレで動きに無駄が多いから体力を多く使っていてライブ終盤のパフォーマンスの低下につながっている。それでいてせっかくの高身長なのに持て余していてステージで縮こまって見えるのがもったいない、かな」
しまった、言い過ぎたか?!
「く、耳が痛い。プリズムプリズンの総合的なサポートをしていたのは本当のようだな。すまない、どこか疑っていたが認識を改めないといけないようだな」
すまない、って久遠さんが僕に謝った?!
「しかし、まだ私はお前を認めたわけではないからな! ガールズフェスティバルやツアーまでにちゃんと私を鍛えあげてみせろ」
そう言い残してスタジオを出て行こうとする久遠さんを僕は引き止める。
「ちょっと待って」
「どうした」
久遠さんは話は終わったとばかりに振り返る。
「あのまだトレーニングは終わってなくて……、これからさっきのを後4セット、計5セットするんだ」
「は、今からあれをよ、4セット?」
久遠さんがぽかんと口を開ける。
そんな間抜けな顔するんだ。
「うん、僕が久遠さん用に体力とかを総合的に考えてメニューを組んだからできないはずがないんだけど……」
「んなっ! で、できないわけがないだろっ! 今からやるぞ!」
「うんっ! 僕も付き合うよ」
身体を動かすのって楽しいよね。
それから久遠さんは持ち前の気力で乗り切っていた。
へとへとになった久遠さんに、僕は用意していたプロテインを差し出す。
「……準備、がいいんだな。しかし、そんなのいま、飲めない」
息も絶え絶えになりながら久遠は首を左右に振った。
「ダメだよちゃんと栄養を摂らなくちゃ。食事もトレーニングのうちだよ」
僕に言われて渋々手に取って、ぐいっと一気に飲み干した。
僕も僕用のプロテインを飲む。うーんこれがたまらない!
帰る支度をした久遠さんに僕は声をかける。
「ちょっと待って」
「なんだまだやるのか!」
久遠さんは、ふしゃーと気が立っている猫のようだった。
まだサーキットトレーニングが続くと思っているのかもしれないので、慌てて否定する。
「違う違う」
僕はスタジオに備え付けられている冷蔵庫からあるものを取り出した。
「これは?」
「お弁当だよ。今日の夜の分と朝の分」
「これもしかしてお前の手作りか? 大変だったんじゃないのかこんなに……」
「栄養は大切って言ったよね。これも必要なことだよ! それに三人分も四人分も作るのも大して変わらないよ」
今日は自分の分と七菜ちゃんと八茅留ちゃんの分を作ったからついでだ。
「三人分も四人分も?」と久遠さんが戸惑っていた。
「ええっととにかく気にしないで、アイドルの栄養管理も個人レッスンのうちだから!」
「ありがたく受け取る」
「最後に。鍛えるには睡眠も大切だからしっかり早寝するんだよ、夜更かししちゃダメだからね」
「な、お前はお母さんか! お前こそ早く寝ろ! 昨日からろくに寝てないんだろ!」
ふん、と久遠さんは顔を背けてスタジオを後にした。
お母さんって……悪口じゃないよね?
脳裏には、あの日僕を追放した母の顔が浮かんだ。
僕は母にこんなことを言われたことはない、むしろずっと働けって感じだったから。
普通のお母さんってこんな感じってことだよね。
それに、最後のあれは夜通しライブ映像を見ていた僕を心配してくれたかな。
少し距離が縮まったのかもしれない。
うん、久遠さんの個人レッスン初日はいい感じに終わることが出来たぞ。
満足しながら僕も帰路につく。
帰り道、家の近くに差し掛かったあたりでスマホが鳴る。
「ん、明日花さんから電話?」
どうしたんだろう。
メッセージでやり取りすることはあるけど電話は珍しい。
「伍! ちょっと今どこ!?」
電話に出ると慌てた様子の明日花さんの声がした。
僕もつられるように焦ってしまう。
「どこってもうすぐ家に着くけど……」
「じゃあすぐ、家に帰ってテレビ見なさいっ!」
「わ、わかったよ!」
僕は明日花さんと電話を繋げたまま、走って家まで帰る。
ただいま、とドアを開けると既に七菜ちゃんと八茅留ちゃんがテレビをつけてニュース速報を見ているようだった。
二人が僕を振り返りながら、テレビモニターを指さす。
『けっ、オレ様が帰ってきたぜ!』
そこにはバッチリとした衣装でロックポーズを決めた六槻が映っていた。
スマホから明日花さんが『六槻が謹慎から明けて、今日から芸能活動を再開するのよ! それだけじゃないわ、私たちの出るガールズアイドルフェスティバルにも出演するの!』と驚きを露わにしながら告げる。
「え……、え、え、ええええええええええぇぇぇぇーーーー!?」
『天ヶ咲六槻、復活だあぁああああぁあ!』
邪悪な顔で宣言する六槻は、さながら地獄の底から這い上がった悪魔のようだった。





