(4)黄霧から現れるもの
ちょっと、長くなってしまいました…。
第一印象は〝なよなよした奴〟だった。
ソイツと初めて会ったのは、町一番の道場に入門した時。
見た目は全く強そうに見えなくて、同年代の中では二、三番目ぐらいに小柄で、私よりも背は低かった。
さすがに幼等学校の中学年になってくると背は抜かされ、体格も男の子らしくしっかりとしてきたけれど〝なよなよした奴〟という印象が消えることはなかった。
道場では基礎体力を付けることから始まって、基本の型を教わり、二人一組の組み手になった頃には「そこそこ上手いんじゃ……?」と思うようになった。
それに目がよかった。
〝天眼通〟。
《傀儡師》にとって、必要不可欠な能力。
いつから視えていたのか覚えてはいないけど、気がつけばキラキラとしたものが目に付いていた。
辺りを漂っていることもあれば、人が放ってることもある小さな光。
特に道場にいる時――年長の門下生たちが訓練をしている時に視えたので、気になって師範に尋ねると「それが〝気〟だ」と言われた。
術式に覚醒する前に〝気〟が視えるのは、先天的に〝天眼通〟が使えるからだ、と。
先天的に視える人は少なく、それを知った両親は大喜びでお祝いをしてくれた。
すごく嬉しかったけど、同年代の門下生の中にはあと二人、〝天眼通〟が使える子がいたので――何より、その内の一人が〝なよなよした奴〟だったので、少しだけ複雑な気持ちだった。
その頃は、まだ嫉妬だったと思う。
〝なよなよ〟としているクセに、強かったから。
同年代の中で、はなく――門下生の中で、だ。
ソイツは同年代の子とは、ほとんど組み手をしない。
少し年上の先輩たち――あの人かその友達、ソイツのお姉さんが引っ張っていくことが多く、時折、大人の人たちからも手ほどきを受けていた。
そこが、特別扱いをされているようでムカついた。
私だって同じように〝天眼通〟は使えるし、同年代の中では上手いはずなのに――。
「勝負よ!」
準備運動を終えた身体は、ほどなく温まっている。ビシッ、と人差し指を突きつけると、
「ええー……」
ソイツは「またぁ?」と心底嫌そうに顔をしかめた。それに「ムカッ」となり、
「何よ、いいでしょ?! どうせ、組み手をするんだから!」
「組み手と勝負は別じゃないかな?」
「屁理屈よ、屁理屈!」
「どこが?」
日常茶飯事となった一幕。他の皆は無視して、それぞれペアを作って組み手をしていく。
やがて、残っているのは私とソイツだけになった。
それに気がつくと、わざとらしく「はぁ……」と大きくため息をつき、
「じゃあ――」
顔を上げたところで、ひくっ、と頬を引きつらせた。一歩、後ずさったその身体が、横から伸びてきた手によって軽々と宙を舞う。
「え?」
ぽかん、と口を開けて、その姿を見つめた。
「俺も混ぜろ」
「――っ!!」
聞こえた声に喉が引きつり、声の出ない悲鳴が上がる。
いつの間にか――ソイツと入れ替わるように目の前に一人の男の子が立っていた。
短く切られたくすんだ灰色の髪に同じ色の瞳は大きく見開かれて爛々と輝き、その口元には獣のような獰猛な笑みが浮かんでいる。
その身体の周りに見える光が、《傀儡師》として術式に覚醒しているのだと示している。
〝灰色の災厄〟。
門下生の中でも規格外の存在で、ふらりと現れると多少の手加減をしつつも問答無用で、暇つぶしがてら襲ってくる。
獲物となれば、逃れることは出来ない。
―――ギロリ、
と。獲物を見つけた狼のような鋭い眼光に射抜かれ、足が竦んだ。
よろめくように後ずさるが、彼には距離など無意味だと悟る。
「――あぁ……」
今日の生贄。
そう悟ってため息のような声を漏らした瞬間、右腕と胸倉をつかまれ、視界が回った。意識が逸れた一瞬の隙を付かれてしまった。頭の中が真っ白になるが、襲撃に慣れた身体は反射的に受身を取り、ゴロゴロと転がって身を起こした。
「ぃつっ――っ!」
視界に入るのは、〝灰色の災厄〟に立ち向かうソイツの姿。
幾度も投げ飛ばされようと、床に叩きつけられようと、動けなくなるまで挑み続ける。
大人を除いて、〝灰色の災厄〟と十分以上組み手をすることが出来るのは、ごく僅か。
その中にソイツはいて、私はいない。
「っ!」
ふっ、と息を吐いて気合を入れ、〝灰色の災厄〟に向かった。
薄々、ソイツとの実力の差――その強さが異常だということには気づいていた。
そして、四年生の時に《護の一族》のことを知ったが、納得はしたけれど負けたくない気持ちは消えることはなかった。
高学年に上がる頃には、ソイツと〝灰色の災厄〟の弟――そして、私が同年代の中でもトップクラスの実力となっていた。
ただ、何度挑もうとも、ソイツどころか〝灰色の災厄〟の弟にでさえ、勝つことは出来なかったが。
〝灰色の災厄〟の弟にも勝てないことに釈然としないものを感じたけれど、〝灰色の災厄〟が手加減なく叩きのめしているのを見ていると、その気持ちは薄れていった。
勝てないことに悶々としながらも、道場に通うことは嫌いではなかった。
むしろ、充実した日々だった。
次はどの手で行こうか、どういう手を出してくるのか、さらりと避けたら驚くだろうか――手合わせのことを考えると楽しかった。
けれど、そんな日々が変わったのは〝あの日〟――ある事件の後、久しぶりにソイツに会った時。
青い瞳の奥に浮かんだ黒い影を見た瞬間、私は初めてソイツに恐怖を抱いた。
***
遊覧船当日。
西の港には二隻の外輪船が停泊していた。全長六十メートル、幅十五メートル、船底は濃紺で白い壁にブラウン色の手すり。船尾にある鮮やかな赤いパドルが映えていた。船体は三階建てで、スカイデッキもあり、一階と三階の一部が立ち入り禁止区域となっている。
二階のホールは、帆首から船尾にかけて縦断するように長テーブルが三列、並べられていた。
各チームと引率のメルギ学園の生徒が一塊となって席に着き、帆先の方にあるステージに顔を向けている。
生徒の視線を集めるステージには一人の教員が立ち、壁にあるモニターに映し出された〝結の諸島〟の俯瞰図を指しながら、
「まず、六ヶ島に向かうが、ここでは《傀儡師》の訓練施設をいくつか紹介した後、先に出した申請のとおり、五つの班に分かれての行動となる。下船したら、それぞれの係の教員の指示に従うように。それから五ヶ島に移動してホテルでの昼食、四ヶ島では一時間ほどの自由行動だ。集合時間は厳守するように」
その後、三ヶ島の工場や研究所を見学した後、二ヶ島の他大陸の歴史館に行き、一ヶ島で夕食となる。
最後に船内での注意事項が伝えられ、六ヶ島に到着するまでの十数分ほどは自由時間となった。
「スカイデッキ、行こー!」
ざわめきを取り戻したホールで、チームメイトのエミリが立ち上がった。少しタレ目がちの薄茶色の瞳がハルノたちに向けられる。
「えぇー……人、多いよ?」
ハルノの隣に座っているチームメイトのサヤは、顔をしかめてエミリを見上げた。肩まで伸ばしたストレートの濃い青色の髪がさらりと揺れる。
ハルノのチームは、四年生が男子三人、女子三人で、六年生が男子女子共に二人ずつの合計十人。
ハルノが所属していたゼミは、コウタのゼミともう一つのゼミでよく合同練習を行っていたので、チーム分けでは三つのゼミからそれぞれ生徒を出してチームを組んでいた。
「俺はパス」
「俺もー」
「右に同じーく」
男子三人はガイドブックを広げ、四ヶ島の自由行動で回る店の最終確認をするようだ。
先輩たちも案内役のメルギ学園の生徒――マキと打ち合わせをするようで、「いってらっしゃい」と手を振られた。
「行くよー」
「……分かった、分かったわよ」
エミリに腕を引かれてハルノが立ち上がると、サヤもしぶしぶ重い腰を上げた。
「キビキビ歩くー」
背中を押されながら通路に出れば、潮の香りと共にさざ波の音が聞こえてきた。
「ブクブク行くわよ!」
「ちょっ――それは言わないでよ!」
聞きなれた掛け合いに振り返ると、にやにや、と笑うリンカとリクに慌てるユウト。その隣でオロオロとしているキキコが目に入った。
(……全く。飽きないわね)
同門の子たちに呆れた視線を向けていると、背中を押しているエミリは「ん?」と小首をかしげ、ハルノの視線を追った。誰を見ているのかが分かり、にやり、と笑う。
「なにー? あっちに行きたいの?」
「えっ?……違うわよ。相変わらずバカしているな、っと思って」
「ふぅーん……」
「………」
エミリの満面の笑顔を見て、サヤは、びくっ、と肩を震わせた。すすー、と距離を取られたが、エミリは気づいていない。
「別に行ってきてもいいよ? せっかく待ちわびていたんだしー」
「べ、別に待ちわびてなんか……っ」
どきり、として、思わず視線を逸らしてしまった。
「ツグリツさんに連絡してほしいって頼んでいたんでしょ?」
「うっ……」
リンカから〝全塔巡り〟をすると聞き、「〝結の諸島〟に来たら案内するから」と、連絡をくれるように頼んだのは確かだ。
「私はただ……どれだけ身についたが、試したかっただけで」
「へぇー?」
「な、何?」
「コカミくんが帰ってくるまでは、ムラカワを追いかけていたのに――」
エミリは笑みを深くして「ねぇ?」と小首を傾げた。
「えっ……あ。違うわ! リクとユウトはずっと目の上のタンコブだったんだから!」
「ほほぅ?」
「人の話を聞きなさいよ!」
ハルノは地団駄を踏んだ。
そんな二人の様子に、サヤは「もう……」とため息をついた。
スカイデッキは中央付近にイスが並べられ、前方に記念撮影用の操舵室があった。左右には煙突がたち、その間に付けられた旗がパタパタと風ではためいていた。
スカイデッキにいるのは、遊覧船に乗る生徒の三分の一ほど。そのほとんどが手すりに寄りかかり、イスは半分以上が空いていた。ハルノはその一つに腰掛け、空を見上げた。
「やっと晴れたわね」
少し〝黄霧〟が出ているが、航海には支障がないと判断されて、無事に出航することが出来た。
「急ぐことはないんだけどねー。まぁ、どんどん来たら乗車券の倍率は高くなるけど」
右隣に座るエミリが呟く。
ハルノたちが〝結の諸島〟に滞在するのは一ヶ月。一つの学園に滞在できる期間ギリギリだ。
三つの〝塔〟を一ヶ月ずつ滞在する予定で、半年の旅だと三ヶ月ほどが残ることになるが、途中、有名な《傀儡師》がいる普通の都市にも立ち寄るつもりだった。
〝塔の儀礼〟中は〝塔〟の町だけでなく、普通の都市の学園でも巡塔者の受け入れは行われている。
むしろ、幾つかの〝塔〟と普通の都市を合わせて巡ることが一般的で、あとは五・六ヶ所の〝塔〟を巡るチームが多いのだ。
ユウトたちのように〝全塔巡り〟を行うのはごく僅か――ユキシノ学園では彼らだけだった。
(アイツらの滞在は一週間か……)
今日はユウトたちが〝結の諸島〟に来て四日目。明日と明後日に〝塔〟に行き、三日後の昼ごろの便でカイハマに戻るらしい。
一ヶ月間、ゆっくりと過ごしているハルノからすると、かなりのハードスケジュールだ。
(……全く。何を考えているんだか)
ユウトの行動は謎が多い。
そして、その時は決まって《護の一族》に関することなので、誰も深く聞くことはなかった。
《護の一族》であるコカミ一族やユウヤキ一族のことは、町では誰もが知っていることだ。〝もしものこと〟があった場合を考慮し、何も話さないのだと理解しているがために聞くことはない。
その暗黙の了解はハルノも分かっているが――
(あー……モヤモヤする)
互いに互いを気遣っているために〝一線〟が越えられない四人を見ていると、「はっきりしろ」と叫びたくなる。
チーム分けの時は我慢できず、リンカやキキコに発破をかけてしまった。
ただ、そう思いながらもハルノ自身、聞こうとは思わないので、その矛盾がモヤモヤとした気持ちに加えて、自分への苛立ちとなっていた。
昔なら――ユウトが引っ越す前なら、聞いていただろう。
けれど、今は聞けない。聞くことが出来なかった。
数ヶ月前、模擬戦で確認したこと――ユウトの〝危うさ〟が、二の足を踏ませていた。
四人のことは口出しするべきではないと分かっているが、それでもリンカに声をかけたのは、やっぱり、ユウトのことが気になるからだ。
エミリは恋愛感情ではないかと勘ぐっているが、はっきりと「違う」と言える。
(あのバカは……)
模擬戦をしてから、ユウトとは一度も〝術具〟を使った模擬戦はしていなかった。道場では組み手を軽くこなしただけだ。
だが、それだけでもユウトの動きが以前とは比べものにならない――以前も門下生の中でも飛びぬけていたが――それ以上によくなっていることには気づいていた。
そして、模擬戦の時に視たユウトの精成回路――。
(……あー、ムカつく)
あれが、あの日、ユウトが出した答えなのだろうか。
「……ふぅー」
「ひゃぁ?!」
突然、耳に息を吹きかけられ、ハルノの口から素っ頓狂な声が出た。
肩をすくめ、耳を手で隠しながらエミリに振り返る。
「な、何するのっ?!」
別の悪寒に身をすくめながら叫ぶと、周りから視線を感じたが、気にしている余裕はない。
「そっちこそ、話、聞いてなかったでしょー?」
エミリは片眉を上げた。
「えっ――なっ、だからって!」
「ハルが悪いー」
「なっ、なぁ――っ!」
恥ずかしさと怒りで顔が火照り、ぱくぱくと口を動かすが、上手く言葉が出ない。
「しぃーっ!」
「あ。ご、ごめん……」
サヤに諌められ、ハルノは顔を俯かせたが、
「ん? ……これって、エミリが悪いわよね?!」
***
ハルノたちは六ヶ島の訓練施設の体験を終え、昼食のために五ヶ島に移動した。
五ヶ島はリゾート地として有名で、南半分――大陸側はビーチとして解放され、マリンスポーツも盛んだが、まだ海が解禁されていないので観光客は砂浜を歩いているだけだ。
ビーチに面した場所に立ち並ぶホテルの一つ。
十階にある大宴会場に案内されると、そこは三面がガラス張りで海を一望することが出来た。入り口から少し入ったところに料理が並べられ、バイキング形式になっている。テーブルは風景が見えやすいように窓側に並べられていた。海鮮がふんだんに使われた料理の中には他大陸の料理もあった。
ハルノは九つに区切られた大皿に少しずつ料理を盛り、平皿にパンを山盛りにして席を取りに行ったチームメイトを探していると、
「ハル! こっちこっち」
振り返れば、テーブルの一つに陣取ったエミリが立ち上がっていた。
十人掛けのテーブル。一方にはエミリやサヤ、コウタたちチームメイトが座り、その正面には見知った四人が腰掛けていた。
「あ……」
ユウトたちだ。
窓際からリク、ユウト、キキコ、リンカと座っていて、彼らの前にはすでに料理が並んでいる。
隣のテーブルにはフジモリやマキの他にユウトたちの引率であるユリナやヒサキ、コウタが指導を受けているショウゴがいた。
「じゃ、私たちもとってくるから」
ひらひらと手を振って、サヤと一緒に席を外すエミリ。
(相席なら、取りに行けばよかったのに……)
じと目で二人を見送り、ハルノは空いている席――リンカの隣に腰を下ろした。
「相変わらずパン好きね……」
「いいでしょ。そっちこそ、デザート早くない?」
十種類あるパンが綺麗に盛られた皿を見て呆れてきたリンカに軽く返し、ハルノはリンカの前にある一皿――八種類のケーキが盛られた皿に眉をひそめる。
「売店で売ってるから、おいしかったら買って帰ろうかなと思って」
「買ってって……お土産買っても」
「夜食だって、夜食」
「……太るわよ?」
やれやれ、と肩をすくめ、ハルノは料理に手を伸ばした。リンカの反対側の席に座るキキコは緊張しているのか、俯き加減で小リスのようにパンを頬張り、ユウトとリクはコウタたちと他大陸の料理のことで盛り上がっていた。
「最近、無性に甘いものが食べたくて」
「……疲れた身体には甘いものだよね」
コクコク、とキキコはリンカに頷いた。
「疲れたって……まだ、始まったばかりだけど?」
「ううん。旅の疲れとかじゃなくて――」
「あ! キキっ」
何かを言おうとしたキキコをリンカが慌てて止めた。
キキコは、はっとして口を閉ざした。
「……何?」
あからさまに秘密があるという二人に眉をひそめると、リンカはにやにやと笑い、
「秘密。帰ったら教えてあげる」
「えぇ……?」
キキコに視線を向けるが、びくり、と肩を震わせて目を逸らすだけだった。
「……何? 秘密の特訓でもしているの?」
「そんなトコ。ハルノとリクには負けてばっかりだからね」
「特訓、ねぇ……?」
ちらり、とユウトとリクを見てから、リンカとキキコに視線を戻す。
リンカたちが〝結の諸島〟に来てからは一緒に町を回ったり〝海走り〟をしたりと行動を共にすることが多く、特別、二人が何かをしているところを見たことはない。
(……そういえば、ゼミに顔を出すことが減ったって、言っていたような)
リンカとキキコの二人と同じゼミのクラスメイトが、三年の終りぐらいから「最近、二人が来ないのよね」と言っていた。確か、その後にリンカたちから〝全塔巡り〟をするという話を聞いたのだ。
訓練場を使っていれば分かるので、恐らくは内側に関すること――精成回路のことだろう。
気になってじっと二人に目を凝らし、
(…………ちょっと、透き通っている?)
二人が纏う〝気〟が、心なしか旅に出る前よりも透き通っている気がした。
《傀儡師》を〝天眼通〟で視ると、纏っている――漏れ出している〝気〟が視える。
その〝気〟の色は〝練紙〟と同じで、精成回路の形成率が高いほど――緻密なほど、纏う〝気〟の輝きが増し、透明度も違った。
見習いの場合、ぼやけた色をしているが、〝特待生〟やプロの《傀儡師》は透明度が増し、その輝きも強い。
透明度は〝気〟の質、輝きは精成回路の形成率に左右されるらしい。
「な、何よ?」
睨むように視ていると、リンカは身を引いた。
「別に……」
「――むむ? バチバチしてるー」
戻ってきたエミリが声を弾ませながら言った。その隣でサヤが目を丸くしている。
「え?」
「違うわよ!」
ぽかん、と口を開けたリンカを横に、ハルノは叫んだ。
***
「―――ユウト」
「はい……?」
ヒサキに呼ばれ、ユウトは顔を上げた。
四ヶ島での自由時間。
ユウトたちは案内役のショウゴに連れられて、観光客向けの店が並ぶ大通りをゆっくりと歩いている時だった。
陳列されたミサンガを見ていたユウトが振り返ると、ヒサキは視線である方向を指した。
「……?」
その視線を追えば、通りの向こうにある商店の近くで、こちらを見ている一人の男性が目に入った。
青い髪を持つ四十代前半ほどの男性で、左上腕部には随行員の腕章――遊覧船の乗員だ――をしていた。少し鋭い目と目が合うと、小さく会釈をされた。
(……あれ?)
遊覧船の乗員として同行するとは聞いていたが、まさか会いに来るとは思わなかった。
内心で小首をかしげつつ、ヒサキに頷いてから隣のリクに声をかける。
「リク。あっちも見てみない?」
「ん?」
リクは振り返って眉をひそめたが、ユウトがリンカたちを目で指してから苦笑すると、すぐに察して「ああ」と頷いた。
「リン、キキ。僕ら、あっちの店を見てくるから」
「んー……」
色々と手にとって見ているリンカは生返事を返してきた。キキコは顔を上げると、小さく頷いてくる。ショウゴに断りを入れてからその場を離れ、男性の方へ足を向けた。
男性はユウトとリクが来るのを見て、路地へと入っていく。
その後を追いながら、
「ごめん。急に」
「いや。それはいいけど……あの人は?」
謝るとリクは首を横に振り、訝しげな視線を男性の背に向けた。
「ヒサキさんと同じ人だよ」
「……そうか」
リクは納得して口を閉ざす。入り組んだ路地を見失うギリギリの距離を取りながら進み、少し空けた場所に出た。そこで男性は足を止めて振り返る。
「すまないな。短い時間の中で」
「いえ。大丈夫です」
「……君は?」
男性はユウトに頷き、リクに視線を投げかけた。
「ムラカワと言います。ユウトの事情はある程度知っています」
ぴくり、と男性は眉を動かし、問うような視線を向けてきた。
「昔、少しありまして……」
「そうか。………本家より〝結の塔〟を預かっているキザキ一族の当主、トモミツだ」
「キザキさん……?」
リクは会釈をして、「ん?」と小首をかしげた。ユウトは笑みを浮かべ、
「トモハルくんのお父さんだよ」
「!」
「息子が世話になっているようだな」
口元に小さな笑みを浮かべたキザキに「いえ、こちらこそ」とリクは慌てて頭を下げた。
「あーと……じゃあ、俺はその辺りをウロウロしてるから、帰る時に呼んでくれ」
「うん。ありがと」
「このまま道なりに行けば小さな公園に出る。よかったら、そこで待っていてくれないか?」
「分かりました。ありがとうございます」
リクはキザキに一礼して、路地の先に消えた。その背が見えなくなったところで、キザキは右腕を上げた。コイントスをするように手を握れば、親指の上に紺色に輝く球体が現れる。
親指で球体を弾いて頭上に飛ばせば、ふわっ、と紺色のベールがキザキとユウトを覆い隠すように半球状に広がった。
周囲の視線や盗聴を防ぐための[結界]だ。
それは〝第弐式・碍〟――特性は〝遮断〟の力。その効果は、物質だけでなく術式でさえも遮る。
[結界]が張られたことを確認して、キザキが口を開いた。
「言付けの件だが、今夜にでもいけるように手配をすませた。九時ごろ、迎えに行く」
「! ありがとうございます」
ユウトはほっと息を吐いて、頭を下げた。
「突然の申し出たったのに……すみません」
「いや。……ただ、そのことで君に聞きたいことがある」
「……はい?」
「〝灯台〟に行く理由だ。データでは機能低下の影響はあるが、特に不審な点はなかったはずだが?」
「それは……」
キザキの問いにユウトは口ごもった。
《護の一族》とはいえ、〝結の諸島〟では部外者だ。過度の口出しは憚れた。
だが、それでも引っかかったことを無視することが出来ず、確証を得るために〝灯台〟に行きたいことを告げたので、今さらな気もするが。
ユウトの様子にキザキは小さく笑い、
「忌憚ない意見を言ってくれ。些細なことでもいい」
迷ったものの「……分かりました」とユウトはキザキの言葉に頷いた。
「調査団の状況や〝塔〟の状態は聞いています」
〝序の塔〟にいた頃は、《護の一族》の総括をしていた祖父の下に全〝塔〟の町の状況が《管理者》を通じて随時報告があり、〝無の塔〟でもジュリからデータを受け取っていた。
〝結の塔〟からの報告には、主に〝龍の髭〟の状態と調査団の進歩状況で、そこには海賊が〝黄霧〟の中から出現することの考察も書かれていた。
〝黄霧〟の発生――〝塔〟の不調は、調整の不備によって引き起こされているが、それでも調査団の尽力によって〝ブイ〟の配置は進み、大陸に近い〝龍の髭〟は安定してきている。
そんな中、現れたのが海賊――〝外海の亡霊〟だ。
「海賊も〝羅針盤〟を利用している可能性があると聞きました」
「ああ。それを探る前にこちらの動きに勘付き、隠れられてしまったが……」
キザキは言葉を濁した。
〝黄霧〟の向こうから現れるのなら、それを可能としているのは一つしかない。
〝結〟の〝結晶〟を使った〝羅針盤〟。
そして、その基となっているのは行方不明となった〝ブイ〟か、強奪された〝結晶〟の可能性が高い。
「容易に扱えるものではないと分かっていますが、実際に海賊が現れている以上、何らかの方法を持って扱えているとしか思えません」
「たが、それでも〝灯台〟の警備システムに何も引っかかってはいない」
「……はい。それは確認しています」
キザキに頷きつつ、ユウトは言葉を続けた。
「三ヶ月前ですが、〝無の塔〟の町に侵入した二人の《傀儡師》は、数十人の人を〝仮〟で操るほどの手練れでした。その調査結果はご存知かと思いますが……」
〝塔〟を襲撃した者の情報――その〝気〟の性質――は、〝塔〟の管理システムを通じて全ての《護の一族》に共有されている。
キザキは、ピクリ、と片眉を上げた。
「可能性はある、かと……」
僅かに顔色を変えたキザキを真っ直ぐに見つめ、ユウトは告げた。
昔、〝仮〟で他者を操り、次々と〝塔〟の町を襲撃して〝結晶〟を強奪した組織が存在した。
《人形屋》。
十年前の〝ある事件〟で首謀者や幹部と思われる者たちが死亡し、構成員も数十人ほど逮捕されて世間には壊滅したと報道されている。
だが、実際は首謀者や幹部たちの遺体は確認出来なかったために生死不明であり、逮捕した構成員も洗脳されていた者がほとんどで、組織についての有益な情報が得られず、本当に壊滅したのかは不明だった。
そのため、現在も残党の捜索は続けられているが、全くと言っていいほど情報は掴めていない。
そんな中、〝無の塔〟に現れた、人を操る〝第捨玖式〟使い。
「〝仮〟で人を操ったからと言って、《人形屋》だとは限りません。……実際、ジュリ――《管理者》が照合をかけましたが、過去のデータと一致する者はいませんでしたし、わざわざ疑わせて、警戒させる必要もありませんから」
「それでも無視は出来ない、か……」
「……はい。警備システムは別ですから」
《管理者》が行っているのは、〝灯台〟の道標に関することだけで、警備システムは少しでも〝塔〟の負荷を軽減させるための処置として別になっていた。
だが、それは反対に〝灯台〟に何かがあったとしても、〝塔〟は記録するだけで手が出せないことを意味している。
「確かに《人形屋》だとしたら、警備システムをすり抜ける可能性は高いが……海賊が出没し始めたのは〝あの事件〟の後だ。接点もほとんどない」
「ですが、最近、海賊の動きが活発になっているんですよね? 他の〝塔〟の町でも騒がしくなりつつあると報告もあります」
「あれほどの実力者が早々に現れるとは思えないか……」
キザキは顔を険しくして、口元に手を当てて黙り込んだ。
「操られた人の流れは確認しています。映像でも、ある程度の確認は出来ますから……」
ユウトの言葉にキザキは目を伏せ、数秒後、目を開けると頷いた。
「……そうだな。過去の映像も手配しておく」
「すみません。ありがとうございます」
***
港に近い旅館の一室。
そこから、出航する外輪船を見ている者がいた。開けられた窓のひさしに腰かけ、その傍らには一羽のカモメがとまっている。
「……さて。最後の詰めか」
船に向けていた視線をカモメに移す。
カモメはぴくりとも動かず、一見、剥製の置物に見間違えてしまうが、僅かに胸が動いているので生きていることは分かる。
徐にポケットから三センチ四方の四角い箱を取り出した。
艶のある淡い橙色の箱だ。その隅を爪で引っかくと、パタパタパタ、と倒れるように開いていき、直径二センチほどの藍色の球体が現れた。その表面には、幾何学的な模様が刻まれている。
カモメの口をこじ開けて球をねじ込むと、両手で抱えるようにカモメを持つ。
ぽぉっ、と茶色の光がカモメを覆った。
「行けっ」
放物線を描いてカモメを放てば、ばさり、と翼を広げ、海――外輪船へと向かっていく。
それを見届けてから部屋の中にあるスーツケースを手に取ると、部屋を引き払い、十分後、カイハマへの定期船に乗って〝結の諸島〟を後にした。
***
三ヶ島を後にした遊覧船は、船首を二ヶ島に向けていた。
ハルノは手すりにもたれかかりながら、チームメイトやリンカたちと一緒に〝黄霧〟を見つめていた。フジモリやマキ、ユリナもすぐ隣で同じように〝黄霧〟に視線を向けている。
壁際のベンチに腰掛けたコウタやユウトたち男子からは気楽な会話が聞こえてくるが、ハルノの周りの空気は少し重い。
「どれぐらいから〝海獣〟は出てくるのかな……?」
「入ってすぐだと、近寄れないけどね」
「だいたい、〝黄霧〟との境界線から一時間ほど進んだ辺りから出没するわ」
キキコとリンカの疑問に、マキが答えた。
(〝海獣〟……アレがあそこに……)
三ヶ島の海洋生物生態研究所で見たモノ――それは捕獲された〝海獣〟を元に作られた、実寸大の模型だった。
〝海獣〟は大きく二種――〝騎竜種〟と〝魚竜種〟に分けられる。
〝騎竜種〟は体長七、八メートルほどで、長い首にヒレのような四肢を持ち、細長い尾は茨のような棘で覆われていた。逆立った背びれに大人の胴体ほどの太さがある首の先に細長い頭があり、開いた口の中は鋭い牙がびっしりと生えていた。
一方、〝魚竜種〟は体長三メートルほどで、大きい個体は五メートルを超える。先にいくにつれて細くなる長い口を持ち、がぱり、と開いた口は大人が丸呑みできるほど。左右に大きく広がった尾ヒレが特徴で、〝騎竜種〟の数倍の推進力を持ち、群れで行動することが多い。
前世紀には数百種類いたとされる〝海獣〟だが、現在はこの二種類しか――二種類も生き残っていた。
「生き残るための進化、ね……」
ぽつり、とハルノは呟いた。
説明をする研究所所長は「〝塔〟の加護を受けた世界でもなお、生き残るために進化した」と言った。
―――「〝竜灯の落日〟によって呪縛は払われ、〝黄霧〟に覆われた世界を得た。それでも〝海獣〟は〝塔〟の領域には近づけず、〝龍の髭〟によってある程度の生息域に留められている」
―――「〝黄霧〟に入った《傀儡師》が襲われるのは〝術式〟の因子を持っているからだ。……巨大な存在を消せない鬱憤をそこから外れた小さな存在に向けるだけのこと」
―――「術式は〝海獣〟に有効だが、決してその存在は侮ってはいけない。そのことだけは肝に銘じておくように」
研究所所長の言葉は、ハルノの耳の奥にこびりついていた。
「誤って入っても、すぐに襲ってくることはないんですねー」
少し重い空気を払うためか、エミリが軽い口調で言った。
「エミリ、軽いよ……」
サヤは呆れた視線をエミリに向けて、〝黄霧〟に戻す。
「〝黄霧〟が広がれば、それだけ近づいてくるんだから……」
不安と恐怖に満ちた声は、小さくともよく響いた。
ハルノたちはサヤに視線を向けた。
「……ぁ――すみませんっ、そういうつもりじゃ」
はっと我に返ったサヤは、マキに頭を下げた。
マキは一瞬目を丸くしたが、「ううん。気にしてないわ」と笑う。
「………すみません」
顔を俯かせたサヤにエミリが苦笑しながら「ごめんね」とその背をさする。
「え?」
事情を知らないリンカやキキコが、気まずくなった雰囲気に小首を傾げた。
それに気づいた男子も談笑を止めて「……どうした?」と尋ねてきた。
「え? あーと……」
ハルノは振り返り、苦笑した。マキは「んー……」と少し困った笑みを浮かべ、
「管理しているの、母親なの」
何をとは明言せずに小声で告げた。
「え?」
ぽかん、とリンカたちは口を開けた。
「代わる前よりはマシになっているらしいけど……最近は調子が悪いみたいで」
マキは〝黄霧〟に視線を向けて、目を細めた。
現在の〝結の塔〟の〝塔の覇者〟はナツキ・イカルガ――マキの母親だ。
十年前、〝黄霧〟が〝結の諸島〟の周囲にも現れ始め、その打開策として新たな〝塔の覇者〟として選ばれたのが、マキの母親だった。
海賊が出没するようになったのもその頃で、交代する時期が一番激しかったと聞いている。
その後、〝黄霧〟は収まったものの、数年前から再び〝黄霧〟が漂い始め――それに引き寄せられるように海賊も活動を再開した。
そして、現在、様々な噂がたち――その中には〝覇者〟への非難も含まれていた。
「……マキ先輩――」
声をかけようとすると、マキに笑みを向けられた。言葉を掛けることを拒絶しているような気がして、ハルノは口を閉ざした。
「〝黄霧〟が広がっている間は、海上警備隊も増員されているらか、心配いらないわ。今日も多いのよ?」
「………」
サヤは顔を俯かせたまま、無言で頷く。その様子にマキは苦笑を浮かべると、フジモリに助けを求めた。
フジモリは頷いて「飲み物でも買ってこようか」とサヤを誘い、エミリと一緒にラウンジに入っていく。
全員が無言でその背を見送っていると、
「警備隊は〝海走り〟は出来るの?」
何事もなかったようにユリナが口を開いた。
「え? ……あ、はい。三人に一人は出来ますよ」
「おぉ! 会ってみてぇ!」
「ボードでもメッチャ難しかったよなぁ」
コウタが声を上げ、それをキッカケに喧騒が戻る。
「警備隊の訓練とか見学は出来ないんですか?」
「それはちょっと……」
「……何メートルぐらい行けるのかな?」
「ユウで五メートルは行けたから――」
「はぁ?」
「おい、待て。ツグリツ、どういうことだよ」
ふうっ、とため息をついたハルノの視界に、口元に微笑を浮かべたユリナが映った。
(相変わらずだなー。ユリナさんは……)
暗くなった空気をあっさりと元に戻したユリナに舌を巻き、ハルノはマキに向き直った。マキの顔が少し固いことに気づいたその時、
「ユウト! ヒサキ!」
突然、ユリナから警戒に満ちた鋭い声が上がった。
「えっ?」
驚いて振り返ると、ユリナは目元を険しくして空を見上げていた。
―――ぞくりっ、
と。背筋が震え、ハルノは息を呑んだ。
それはユリナを見たからではなく、背後で爆発したように膨れ上がった気を感じたからだ。
「ユウトっ?」
ぎょっとして振り返れば、気配の主――ユウトはベンチから立ち上がり、大きく目を見開いていた。
青い瞳の奥に煌々と輝く光を見つけ、〝天眼通〟を使っているのだと察する。
その左右には、突然の気の高まりに驚いて身を引いたリクと、ユウトと同じように立ち上がって海を睨むヒサキがいた。
「えっ……ど、どう――」
二人は手すりに駆け寄ると、身を乗り出して真剣な表情で空を見上げた。
「な、何?」
「どうしたんだ?」
二人――ユリナを含めた三人の様子に困惑しながら、ハルノたちも空を見上げた。
薄い雲がかかった空に変わったことはない。鳥が数羽、飛んでいるだけだ。
(あれって……)
ふと、一筋の光に気づいた。藍色の光は船の上から真っ直ぐに伸びるもので、最近、見慣れたモノだ。
「〝羅針盤〟の、光……?」
ただ、一つ違うのは、その光が〝黄霧〟に向かって伸びているということ。
「ヒサキさんっ」
ユウトの呼びかけに「ああ!」とヒサキは頷いて手すりを乗り越えた。
「えぇっ!」
「ユウヤキ?!」
「先輩?!!」
慌てて海を覗き込み――海上から立ち上った緑色の[道]に上半身を仰け反らせた。[道]の上をヒサキが駆け抜け、上空に消える。
「皆、船内に!」
振り返って叫ぶユウトの表情は険しい。それに面食らったハルノたちは反応が出来なかった。「早く!」とユウトは近くにいたハルノの腕を取り、船の中へと引っ張る。
「――ダメ。来るわ」
不吉な言葉に視線を空に戻せば、藍色の光に寄り添うように〝黄霧〟から萌黄色の光の筋が伸び、船体に触れるのが見えた。
「何かに捕まって伏せて!」
ユウトはハルノを引き倒した。
「衝撃が来るっ!」
続けられた言葉に誰もが声を失い、未知の恐怖にその場に伏せる。
一瞬、ユウトの気が高まったかと思えば、パリンッ、とガラスが割れる音がして『ジリリリリリッ』と甲高い警報が船内に鳴り響いた。
その音に戸惑いの声が聞こえた次の瞬間――
―――どんっ、
と。船体に激震が走り、巨大な手で押されたように大きく右に傾いた。
「――っ!」
ハルノは手すりに身体が押し付けられ、悲鳴を呑み込んだ。身体がすべり、海に投げ出される恐怖に身を固くした。
「うわっ!」
転がってきたコウタたちが手すりにぶつかって、ガガンッ、と鈍い音が響いた。
「っつ!!」
ハルノの背中に何かがぶつかり、衝撃に息が詰まる。
遊覧船は右に傾きながらも航行を続け、やがて、幾度か激しく左右に揺れると荒々しい波音を立てて平衡を取り戻すが、心なしか右に傾いたままだった。
「わ、悪りぃ! 大丈夫か?」
「う、うん……」
背中に当たっていた固い何かが離れた。声からして、コウタの頭部が背中に直撃したのだろう。
ハルノは背中の痛みで涙目になりながら顔を上げると、遊覧船の全体から悲鳴や怒声が聞こえてきた。
「落ちたぞ!」
「だ、誰かっ!!」
悲痛な叫びに身体を動かし、「っ…!」と背中の痛みに身体が硬直した。
その様子に気づいたユウトが、
「ちょっと、触るよ」
ハルノの返答を聞く前にユウトは背に手を当てた。ユウトの手が触れた場所からじんわりとした温かさが流れ込んできて、背中の痛みがひいていく。
「あ、ありがと……」
ユウトは小さく笑い、立ち上がって空を見上げた。
ハルノもよろめきながら立ち上がり、辺りを見渡す。
通路にいた全員が床に倒れ、手すりにぶつかった者やベンチにしがみつく者と様々だが、一階にいたためか、運よく海に放りだされた者はいないようだ。
「ケガはない?」
「あ、ああ……」
「はい。大丈夫、です……」
冷静に問いかけるユリナに全員が戸惑いながらも頷き、立ち上がった。
『緊急事態が発生しました。各生徒は慌てず、教員や乗客の指示に従って二階のホールに避難してください。繰り返します』
その放送にハルノは、さぁっ、と顔から血の気が引いていくのが分かった。
「こ、これって……」
ハルノは頬を引きつらせ、リンカたちと顔を見合わせる。ハルノと同じ結論に至ったのだろう、その表情は恐怖で染まっていた。
放送が終わると船内が騒然となり、バタバタと走る生徒によって船が揺れる。「慌てずに! 押さないで!」と叫ぶ声も聞こえてきたが、意味はないようだ。
ハルノたちがいる通路も、生徒が階段を目指して走り抜けていく。
「マズイっ……!」
ユウトが焦った声を出し、その周囲に〝鶴〟が舞った。その視線は海に向けられている。
「あっ!!」
誰かが海に落ちたことを思い出した。ハルノたちは慌てて手すりから身を乗り出し、海を覗き込んだ。
「あ、あんなに――っ?!」
上階――おそらく、スカイデッキにいた生徒だろう。海上をさっと見渡しただけでも十人以上はいる。
全員、パニックに陥っていて〝術式〟を使う余裕もなく、バシャバシャと水飛沫を立てていた。上階から次々と浮き輪が投げられるが、それを受け取った者は半数もいない。
そして、その向こう側――〝黄霧〟から、こちらに猛スピードで近づいてくる一隻の船影。
「アレって……っ!!」
「か、海賊っ?!」
誰かが呻くように言った。
船影は次第にその姿を大きく――遊覧船に迫ってきている。〝黄霧〟から出現した船ともなれば、海賊船としか考えられない。
海賊船から、いくつかの光の筋が伸びて、船体に張り付いた。
「っ!」
ぐらっ、とソレに引っ張られるように船が左右に揺れ、さらに海賊船との距離が近づく。
(〝結〟でっ? そんな――っ!)
いくつもの萌黄色の光に引かれ、遊覧船との距離を詰めて来る海賊船。
その速度は異常としか言い様がなく、〝結〟だけでなく、他の術式も何らかの方法で使っているのだろう。
―――ふっ、
と。唐突に海賊船から伸びる萌黄色の光が途切れた。
そして、次々と上階から人が降ってくる。乗員たちだ。彼らは手に持った浮き輪を近くにいる数人の生徒に投げた後、一直線に海賊船に向かって海上を走っていく。
「迎撃しに、行ったの……?」
「ハルッ! あるだけ〝結〟頂戴!」
「え? あ、うん!」
その後ろ姿を茫然として見送っていたハルノは、ユウトの声で我に返り、ケースから〝練紙〟を掴み取った。
「ありがと!」
ユウトは受け取った〝練紙〟の半数を海に向かって投げる。
その行動にぎょっとするハルノたちの前で〝練紙〟を白い光が貫き、四方八方へと赤い光が伸びた。
それらは海上でパニックに陥っている生徒たちに次々と付き、その先をユウトが掴んで手すりに結び付ける。
「リク! [道]でこっちに引き寄せて」
「あ、ああ!」
リクは頷くと、転落した生徒たちを囲うように[道]を広げた。[糸]を引っ張るユウトをショウゴやマキが手伝い、生徒を遊覧船の方へ引き寄せる。
上階の混乱も収まったのか、浮き輪だけでなく次々と術式の光が降り注いだ。
「私たちは避難するわよ」
「えっ?」
ユリナの声にハルノは振り返って目を丸くした。
「で、でも救助……っ」
「先輩……」
戸惑うハルノたちを無視して、ユリナはリクに視線を向けた。
「リク、いい?」
「はいっ?」
一瞬、リクは眉をひそめたが、すぐに意図に気づいて〝紙ヒコウキ〟を放つ。空に伸びる緑色の[道]が行き着く先は、二階の通路だ。階段ではなく、術式を使って避難をしようと言うのだろう。
「行きましょう」
「で、でも――っ!」
有無を言わせない強い声に、キキコが不安げな声を上げてユウトやリクを見た。
「俺たちも後からちゃんと行くよ」
「誰か呼んできて」
リクやユウトの言葉に「……分かったわ」とリンカは眉を寄せながら頷いた。
「私も残るわ」
「私も!」
マキに続いてハルノが声を上げると、ユウトは首を横に振り、マキの手から[糸]を取る。
「大丈夫です。他の人たちの手も回ってきましたし、僕らも先生か乗員の人が来たら任せて避難しますから」
「で、でも――」
それでも[糸]に手を伸ばすマキやハルノにショウゴが振り返り、
「イカルガ、アカミヤ。俺も残って必ず連れて行くから、先に行け」
「オノくん……」
「先輩……」
ショウゴの真剣な声にハルノとマキが戸惑っている間に「行きましょう」とユリナに腕を引っ張られ、半ば無理矢理[道]に乗せられた。
ハルノたちがユウトとリク、ショウゴの三人を置いて二階に上がると、そこは後部デッキに近い場所だった。
突然、術式を使って下から現れたハルノたちに、周囲にいた生徒が目を丸くした。
ユリナが近くにいた乗員に事情を説明して、一階に行ってもらう。その背を見送り、残してきた三人のことを思いながらハルノたちは一息つくが――
「――!」
降り注ぐ泣き叫ぶ声に、顔を強張らせた。
「何?」
リンカが訝しげに上階を見上げた。
ハルノが辺りを見渡すと、パドルの近くに数人の乗員がいるのが目に入った。手すりから身を乗り出し、彼らの視線の先に目を向ければ、
「あそこだ!」
コウタが後ろを指しながら叫んだ。
後方――十数メートルほど離れた場所だ。遊覧船が通り過ぎて白い泡が立つ海面に、三つの黒い塊――生徒が浮かんでいる。
「あんなところにもっ!」
ハルノはケースに手を伸ばし、
―――ザンッ、
と。突然、遊覧船のすぐ横に透き通った紺色の[壁]が出現し、水しぶきがハルノたちに降りかかった。
[壁]が海に突き刺さったことで生まれた波に、船体が揺さぶられる。
「きゃっ!」
ハルノは手すりにしがみついて、ソレを見上げた。
「じゅ、術式?」
淡い紺色の光を纏った長方形の[壁]は、術式によるものだ。大きさは遊覧船を海賊船から隠すほどで――衝立のように海に突き立てられていた。
ビシッ、ビシッと、海賊船から飛来した何かが[壁]に撃ち込まれ、弾痕のように幾つものヒビが入る。
ひっ、とどこかしこから悲鳴が上がった。
海から飛来した何かが輝きを増した瞬間、遊覧船から放たれた紫色の光が[壁]に突き刺さった。
[壁]は何かを巻き込み、溶けるようにして消えた。
霧散した気を視て、ハルノは強制的に発動が止められたのだと気づいた。
(お、〝終〟……ヒサキさん?)
その光景に船内が静まり返る中、上階から人が降ってきた。緑色の[道]に乗って現れたのは、ヒサキと三人の乗員だ。三人の乗員のうち、水色の髪をした男性が数歩、前に出ると声を張り上げた。
「海に転落した生徒を救出次第、この場から緊急脱出を行う! それまではホールに陣を張り、必ず、君たちを守る! どうか、我々を信じて欲しい!」
男性が頭を下げるのに合わせて、残り二人の乗員も頭を下げる。
それを見て落ち着きを取り戻した生徒たちが、乗員や教師の言葉に従って足早とホールの中に入りだした。
「ユウトやリク、オノはどうした?」
こちらに気づいたヒサキが駆け寄ってきた。その後ろには、先ほど声を張り上げた水色の髪の男性が立っている。
「下で海に落ちた子達の救助活動をしているわ。一人、乗員の人に行ってもらったけど……」
「救助を? ……分かった。俺たちも行く。こっちは任せてもいいか?」
「ええ。気をつけて」
ヒサキは男性と視線を交わすと、一緒に[道]で下に降りて行った。
「行きましょ。ホールでフジモリたちを探さないと」
「はい……」
ユリナに促され、リンカとキキコは階段の方に視線を向けながらもホールの出入り口の列に歩き出した。コウタやチームの先輩たちも同じような表情をして、後に続く。
ハルノも手すりから身を離して歩き出し――
「マキ先輩?」
ふと、マキが立ち止まったまま、パドルの方――後方に落ちた生徒の救助活動を見つめていることに気づき、足を止めた。
「先輩、行かないと……」
「――私も手伝ってくる」
マキは強い声で呟くと、船尾に足を向けた。
ハルノは驚きながらも、慌ててその腕を掴んでマキを止める。
「ま、待って下さい! 私たちじゃ――」
「私だって!」
マキはハルノの手を振り払い、叫んだ。
「っ?……せ、先輩?」
ハルノは震えた声に目を見開き、マキを見つめた。
振り返ったマキは今にも泣きそうに目元を歪めて、
「私だって〝結〟だからっ……私も、何か出来るはず」
「先輩……っ」
マキの悲痛な声に表面上は平静を装っていても、内心では心無い噂に傷つき、苦しんだいたのだと悟る。掛けようとした言葉が消え、ハルノは唇を噛んだ。
「ハルノ、イカルガさん。早く!」
チームの先輩に呼ばれ、「え、えっと……」とハルノは視線を泳がせながら振り返った。訝しげにこちらを見るチームメンバーやリンカたちが見え、
「! ハル――」
はっ、と何かに気づいたユリナが声を上げ、
―――ドンッ、
と。背後から突き刺されたような衝撃が走り、ハルノは目を見開いた。
「――かはっ」
息が詰まり、身体の芯から、ぐぃっ、と強い力に引かれて視界が回った。足が床から離れる。
ふわり、とした浮遊感と共に回った視界から見えたのは、青い空と自分の足。
「ハルノーッ!!」
足元――空から、悲鳴が聞こえた。
それに答える前に、ざぶんっ、と頭から水に落下し、口や鼻から水が入ってきた。がばっ、と口から出た泡に視界が埋め尽くされる。
海に落ちたのだと気づき――そこで、ハルノの意識は途絶えた。




