(8)覚悟と現実
少し時間が戻ります
「……ついてる」
アパートの部屋の電気がついていたことに、ヤヒロはほっと息を吐いた。
二階にあるトシアキの部屋のインターホンを鳴らし、ドアが開くと、現れたのは茶髪の女性――。
「――えっ?」
「あら?」
互いに目を丸くした。
「ル、ルカさん?」
現れた女性はシズク亭の店主――ルカだった。何故か、身体にフィットした黒い服を着ている。
「こんな時間にどうしたの?」
「えっ………あ、いや……ルカさんこそ、何でココに?」
「ちょっと野暮用があって、トシアキに借りたのよ」
「そ、そうなんですか……」
ルカはトシアキの姉だ。部屋を貸すことは不思議ではないが、ここで会うとは思わなかった。
「トシ兄はいませんか?」
「トシアキなら、いないわよ。――それより、聞いてないの?」
「え? 何を?」
ルカに訝しげに眉をひそめられ、ヤヒロは小首を傾げた。
「……一人で来たの?」
「えっ? はい。そうですけど?」
突然の質問に戸惑いながら頷くと、「……はぁ」と大きなため息をつかれた。
「ルカさん?」
顔を上げたルカは、つと目を細め、
「まずいわね」
「―――えっ?」
「何がですか?」と尋ねる前に、ぐいっ、とルカに腕を引っ張られた。
「うわっ――」
体勢を崩しながら、ヤヒロはルカと入れ替わるように玄関に入った。
カカッ、とドアに鋭い何かが突き刺さる。
ヤヒロは、はっとして顔を上げると、開いたドアに紫色に輝くモノが刺さっていた。
〝式陣〟だ。
「なっ!」
「下がって!」
「は、はい!」
ルカは左手に紺色の小刀を握り、正面を見据えた。
ルカの身体ごしに虚空に立つ一人の男が目に入った。上着は脱ぎ、半そでにノーネクタイ姿のサラリーマンだったが、鋭い眼光がルカとヤヒロに向けられている。
男が立つのは淡い光を放つ[道]の上――《傀儡師》だ。
唖然とするヤヒロをかばい、ルカは前に出た。その背中が緊張で強張る。
男は紫色の針の形をした〝式陣〟をヤヒロたちに放ち――闇の一閃が、その全てをなぎ払った。
「っ!」
闇の一閃と共に感じた強大な〝気〟。
ヤヒロは、ぞわり、と両腕に鳥肌が立ち、混乱した頭が白く染まった。
再び、男がいた場所が目に入ると、その姿は消え失せていた。
「えっ?」
きょろきょろと、ヤヒロは辺りを見渡した。何が起こったのか分からなかった。
「ありがと。助かったわ」
ふっ、とルカの肩から力が抜け、彼女は廊下にいる誰かに言った。
「これは、どういうことですか?」
まだ若い男の呆れた声が聞こえ、ドアの向こうから一人の青年が現れた。
二十歳ぐらいの若い青年で金色の髪に青い瞳を持ち、動きやすそうな服に身を包んでいる。
だが、ヤヒロは青年よりも彼が握る刀に目が惹きつけられた。
〝術具〟と一目でわかる代物は、濃密な〝気〟を宿し、闇夜の中でもはっきりと見えるほどの黒さ――漆黒で染っていた。
(………なんだ? コレ)
鍔や柄、刀身さえも漆黒に染められた刀。
その刀から感じる〝気〟に、ぶるり、と身体が震える。
ちらり、と青年はヤヒロに目を向け、
「……その子は?」
「知り合いの子。どうやら、外出禁止令を聞いていなかったみたいなのよ」
どこか呆れたルカの声に、はっとヤヒロは我に返った。
「えっ! が、外出禁止令っ?!」
初耳だった。ぎょっとして目を見開くヤヒロに、ルカはため息をつく。
「今回は厄介な事になるかもしれないから、ホウの実家周辺はそうしていたの。聞いてない?」
「えっ……い、いえ……」
親に言われたのだとは思う。けれど、覚えていなかった。
「なら、この男は……」
「この子を追ってきたのよ。警護はついていたはずだけど………」
「この先で戦闘が起こってますが、近くで外にいる《傀儡師》はこの男だけです」
「そう……」
青年とルカは横手、ドアに隠れた方へと目を向けた。
ヤヒロも恐る恐るドアから廊下に顔をのぞかせると、
「いっ――!」
青年の足元――少し離れた場所に、襲ってきた男が寝そべっていた。気を失っているのか、手足を投げ出し、ぴくりとも動かない。
「あ、あんたが、倒したのか?」
「そうだ……」
「………」
ヤヒロは呆然と男と青年を見比べた。
「護衛がいないのなら………本部は大騒ぎでは?」
「そうね。状況はマズイわね」
「ですが、時間がありません」
「……そうねぇ」
ふと、視線を感じて顔を上げると、青と赤の瞳と目が合った。
「えっ………何ですか?」
「今から野暮用で出かけるのだけど、一つ提案があって」
「……俺に、ですか?」
にっこりと笑うルカに、ヤヒロは小首を傾げた。
「トシアキたちに〝塔〟の警備を頼まれていたから、今、ココにいたことを町に知らせるわけにはいかないのよ」
「えぇーっ!?」
「警備には今から行くけど、時間的にあなたを警察に連れて行くことはできないわ。あとで報告はするけど、今はちょっと時間が惜しくて。………だから、一緒に来てくれないかしら?」
「――はぃ?」
突然の提案に、素っ頓狂な声が出た。
ルカの提案は青年も予想外だったのか、さっ、と顔色を変えた。
「それは……っ」
「大丈夫。口は堅いから」
「ですが……っ」
他人行儀だった青年がヤヒロを気遣う様子に、ヤヒロは面食らった。
「えっと……俺は……」
「町側にこの子がいないことが分かれば、大騒ぎに……っ」
「大丈夫よ。そこは家が上手くやるから」
「っ!」
言葉に詰まる青年を置いて、ルカはヤヒロに視線を落とした。
「ココのことは他言無用だけど、その代わり一つだけ頼みを聞いてあげる」
「た、頼み? ……で、でも、二人はどこへ行かれるんですか?」
「そんなことでいいの?」
ルカはどこか見透かしたように言った。
「聞きたいこと――知りたいことがあるでしょう?」
「!」
「わざわざ、夜にココに来たのはトシアキ……いえ、ホウに会いに来たのよね?」
「そ、それは………」
核心をつかれ、ヤヒロは口ごもった。
ルカとはシズク亭でしか会ったことはない。トシアキの実家を訪れたことはなく、彼に連れられてシズク亭に行き、初めて姉がいることを知った。
だが、ルカはシズク亭でのホウたちとの様子は知っている。
最近、ヤヒロとホウがケンカをして、一緒に訪れることがないことも。
「これから私が《一族》としての仕事をすることを黙っているのなら、あなたが知りたいことを知れるように手伝うわ。ホウのこと――〝覇者〟のことを知りたいんでしょ?」
「なん、でっ?!」
言い当てられ、ヤヒロは目を見開いた。ルカはそんな様子を気にすることなく、
「どうかしら?」
「ど、どうって……」
ヤヒロは突然の申し出に頭がパニックになり、ルカと青年の顔を見比べた。
「こ、この人は……?」
「《一族》関係の人。それ以上はちょっと言えないわね」
「………《護の一族》の人ですか?」
それが嘘だったとしても見極める術はなく、ルカが嘘をつく理由もない。ルカはヤヒロの問いには答えず、
「仲直り、したいんでしょ?」
「っ!………なんで、そんなことが分かるんですか?」
ルカとは店長と常連客の関係でしかないが、ルカはヤヒロが思っている以上にヤヒロのことを知っているようだった。ルカは笑みを濃くして、
「ずっと、あなたたちのことを見てきたもの――」
ふふっ、とルカは笑い、「当たり前でしょう?」と言った。
唖然としていたヤヒロは、青年がどこか心配そうに見ていることには気づかなかった。
トシアキのアパートを後にしたヤヒロがルカに連れてこられたのは、南東の〝小塔〟近くの建物だった。ずいぶん前に店が閉まり、空き店舗となっている。
何故かカギを持っていたルカはドアを開けると、ヤヒロと捕まえた男、そして、レイと名乗った青年を招き入れた。
「今から、私は別行動よ。とりあえず、男はこの付近で捕まえたことにするから」
「別行動……?」
「ちょっと用事を済ませたら、レイだけ戻らせるわ。あとはレイについていきなさい」
「え……っ」
ヤヒロは思わずレイを見た。
苦虫を噛み潰したかのように顔をしかめていたが、彼は何も言わない。
「大丈夫よ。実力は高いから、ちゃんとホウのところに連れて行ってくれるわ」
「ルカさんは、一緒には……?」
「警備に行かないといけないから、あとの案内はレイに任せるわ」
「えっと……」
いきなり初対面の人間について行けと言われても、はいそうですかと頷くことはできない。
「そうそう。彼のことはホウやトシアキには言ってないから、警戒されるのは覚えておいて」
「はぃ?」
「彼、極秘任務中なの――」
「もちろん、私もね」と軽い口調でとんでもないことをルカは言った。
「ちゃんと後から報告はするから、とりあえず、私の知り合いだってごり押ししておいて」
「で、でもっ」
「ホウの〝覇者〟としての姿が見たいんでしょ?」
「………」
全てをその言葉で言いくるめられている気がする。
「大丈夫よ。《護の一族》だということは私が保証するから」
ヤヒロは怪訝そうにレイを見ていたが、ルカにそう言われてしぶしぶ頷いた。
ルカは男とレイを連れて出て行き、ヤヒロは暗い中に取り残された。
***
〝塔〟内部、管理室。
部屋の中心ある〝気の柱〟を見上げる一人の女性がいた。真っ白な髪にルビーのように透き通った赤い瞳を持つ女性は、管理システムの外部補助個体――《第肆式・カベル》だ。
管理室には《護の一族》が〝塔〟の状況確認に訪れることもあるが、〝塔の覇者〟――《管理者》がいればその必要がないので、普段は《カベル》しかいなかった。
三年前、《管理者》が交代した頃はフカミヤ一族も念のために月に一度は訪れていたが、ここ数年は現れていない。《管理者》が訪れることはないので久しぶりの来客だ。
(……久しい、というわけでもないか)
《カベル》の記憶――共通記憶では、約一週間ぶりだった。
〝気の柱〟から視線を左に流すと、三つのドアのうち――地上部へ繋がるドアが開いた。
「遅かったな……」
入ってきたのは、二十歳ぐらいの青年だ。金色の髪の下はまだ幼さが残っている顔立ちだが、鋭い光を宿す青い瞳からは感情が窺えない。
「上で動きがあった。……時間がおしい。さっさとしよう、ジュリ」
青年は部屋を横切り、別のドアに向かう。
「その名は統率個体のモノなんだけどね」
〝無の塔〟にいる統率個体の名前が〝ジュリ〟であり、青年が最もよく知る《無式・カベル》だ。
青年はドアの手前で立ち止まり、
「お前はお前だ」
配置されている個体を無視しているのか、それとも〝ジュリ〟という名を拒むことで優劣を決めている《カベル》を否定しているのか――青年とは初対面の《第肆式・カベル》は判断がつかなかった。
ドアの先にある階段は弧を描きながら下へと下がり、行き止まりに部屋があった。
その部屋は管理室より一回りほど小さく、中央には幅が一メートルほどに狭まった〝気の柱〟だけしかない。
〝塔〟の最下層――〝気の柱〟の心臓部だ。
天井から続く〝気の柱〟は幅を狭め、三角錐を逆転させた形をしていた。真下に同じ形をした〝気の柱〟があるが、こちらは高さが一メートルほどしかない。
そして、大小異なる大きさの三角錐の切っ先に挟まれて、子どもの頭ほどはある大きな水色の宝石――〝塔〟の中枢であり、機能の全てを調整している〝核〟が輝いていた。
「手順は教えた通りに」
《第肆式・カベル》は〝核〟の前に立ち、隣にいる青年に目を向けた。
〝核〟に向けて掲げた青年の右手に、漆黒の闇が生まれた。
精緻に作られ、〝練気〟の精錬度の高さに煌々と輝く闇は、細長く伸びると一メートルほどの長さで止まった。
その身、全てを漆黒で染めた刀――〝黒刀〟。
青年の〝術具〟だ。
『〝序式〟をしやがらねぇから、やっと一つ目か……』
〝黒刀〟が出現した瞬間、少し高い――声変わりをしていない少年の声が響く。
青年と二人っきりの中で響いた第三者の声だったが、《第肆式・カベル》と青年は当たり前のように受け入れ、驚くことはなかった。
「〝無〟から始まり、〝無〟で終るのがしきたりだ」
素っ気無い青年に、嗤い声が響く。
『………まぁ、リミットもまだまだだしな』
その言葉に青年は目を細めたが、何も答えなかった。
《第肆式・カベル》はその横顔に最後の問いを投げかけた。
「いいな?」
〝黒刀〟を〝核〟に差し込めば、〝塔巡礼〟が本当の意味で始まる。
だが、それを成功させた後、彼が支払う代償は大き過ぎた。
「――ああ」
青年は躊躇なく、〝黒刀〟を〝核〟に突き刺した。
〝核〟は割れることなく刀身を呑み込んだ。ゆっくりと差し込まれる刃は、その切っ先から溶けていくために〝核〟は貫かれない。
水に落とした墨のように、放たれた青年の〝気〟が水色の〝核〟を黒色で染めていく。
『―――いいぞ』
〝黒刀〟に宿るモノに促され、青年は目を閉じた。
―――ぽわっ、
と。〝核〟から気泡が生まれ、上部の逆三角錐の中に吸い込まれていく。
「―――っ」
青年が息を詰まらせ、噛みしめた歯が軋んだ音をたてた。
高まった青年の気配に《第肆式・カベル》は背筋が震えたが、視線は気泡から逸らさなかった。
黒い気泡は形を揺らめかせ、奥底から煌々と輝く闇の光を放つ。それは幾つかの細い線に分かれ、見慣れた螺旋状のモノとなって上にのぼっていった。
「――いいわ」
「っ……」
青年は詰めていた息を吐き、肩から力を抜いた。少し身体をふらつかせ、大きく深呼吸を繰り返してから目を開けると、〝黒刀〟を一気に引き抜く。液体化していた刀身は一瞬で固まり、一本の刀に戻った。
「どうだ?」
「………問題ない。無事に更新された」
上部へと消えた漆黒の原形を見上げ、《第肆式・カベル》は青年に目を落とした。
暗い光を宿す青い瞳と目が合う。
十五年間、《カベル》がずっと見てきた瞳は変わらない。
「身体の方は?」
『問題ねぇよ。喰う暇もないからな』
記憶の中で知っている声でありながら、どこか軽い口調は違和感を覚える。
青年の右手を見ると、わずかに白い光が手の平から漏れていた。
「これだけか……」
〝気の柱〟を見上げたまま、青年は呟いた。
《調整者》の役目は〝核〟に〝黒刀〟を突き刺し、〝黒刀〟を通じて〝気の柱〟の中に〝式陣〟で作った原形を入れることだ。
(………これだけ、ね)
《第肆式・カベル》は内心でため息をついた。
細かいデータの更新作業は《カベル》が行い、青年のそれによって更新が確定されるが、何より、青年のその作業が最も重要だった。
彼が〝気の柱〟へ放った〝束〟の原形。
完璧に作り出された原形は、たった二回だけ〝気の柱〟を視て解析を完了させ、作り出せるようになったものだ。
「これだけ」と軽々と言うが、その解析の早さがどれだけ異常なことか理解していない。
天賦の才能と、積み重ねられた血の滲むような努力――その二つが合わさり、異常なまでの技量をもたらしていた。
共通記憶から青年は一つの術式に対して、選定している《傀儡師》の数十人の〝練紙〟を視て、術式のほぼ八割近くを解析し終えていた。
同じ術式を選定した《傀儡師》でも、個人個人のクセで〝練紙〟に織り込まれた術式の構成は変わる――そのデメリットを逆手に取り、いくつもの〝練紙〟を視ることで構成を照合して独自に、それでいてほぼ完璧な術式の原形を作りだした。
あとは実際に原形を確認して、細かい調整を加えれば解析で出来るように――。
《護の一族》なら〝練紙〟を集めることはできるが、〝練紙〟に織り込まれた術式のクセまでも見極める高精度の〝天眼通〟を持つかどうかは、青年の技量にかかっている。
だが、青年はそれを可能にした。
それこそ、彼の覚悟の強さ――贖罪の深さを語っている。
〝塔巡礼〟と呼ばれる〝塔〟の機能更新は、《調整者》が新たな核を――原形を作り出すこと。
それは〝無式・零〟の〝塔〟を守護する《護の一族》だけに課せられた使命であり、担えるのは〝黒刀〟を持つ呪われた青年だけだった。
―――「手を貸してくれ」
初めて頭を下げた青年の記憶は《序式・カベル》のもの。
それまで敵意しか見せなかった彼が、初めて敵意を抑えた日だった。敵意を抑えても、互いに友好的な関係にはなれなかったが。
それでも《カベル》は彼に協力した。
呪いに蝕まれているとはいえ、彼だけが《カベル》に命令できる唯一の《傀儡師》だからだ。
そして、友人である彼女が己の全てを投げ出してまで救った弟でもある。
(………だから、ダメなのか)
彼女を友人と思うからこそ、その意志を曲げようとする青年が許せない。
「……時間がないのでは?」
〝気の柱〟を見上げる青年に鼻を鳴らすと、「そうだな……」と呟いて踵を返した。
その背を追いながら、ふと気になっていたことを口にした。
「……その格好は?」
髪の色は違うが、瞳は本来の色のままだ。二十歳ぐらいに成長した精悍な顔つきは、その面影を残しているものの年齢は明らかに違う。
「侵入するんだ。あの姿はまずい」
「精成回路はゼロを出している限り問題はないだろうけど………その姿はね」
〝仮〟で姿を変えても、根本的なもの――精成回路まで惑わすことは出来ない。
偽装しようが見破られるのがおちだが、青年はその特異性から見破られることはない。
『安直だろ? 黒髪を金色に染めて、年を取るだけなんて』
くっくっと笑う声は、ゼロ――〝黒刀〟からだ。
『あの〝覇者〟も店員に言われてたのにな』
言葉の意味はわからないが、青年は少しむっとしたように眉をひそめた。
「いいだろ。僕には小手先しかないんだ」
***
レイが戻ってきたのは、三十分ほど経った頃だった。
レイがドアを開けて中に入ってきたので、ヤヒロは座っていたイスから立ち上がった。
「すまない。待たせた」
「……いえ」
ほぼ初対面のレイに言葉が続かず、気まずい雰囲気が流れた。
「今から戦闘が行われている場所に向かうが………君は〝環〟の〝練紙〟は持ってるか?」
「あ。はい」
「なら、もしもの時は[道]で離れるように。ルカさんが言ってたけど、〝覇者〟は外で戦闘を指揮しているようだから、そこに連れて行く。そこに彼女の弟さんもいるらしい」
「はい。わかりました」
建物を出ると、夜の闇よりも深い漆黒の光が身体についた。
「上から行く」
すっと腕を引っ張られ、身体が虚空を飛んだ。上に一直線に身体が浮かび上がり、とん、と足が屋上に着く。
「えっ………あれ……?」
軽々と数メートルの高さを飛んだことに唖然としているヤヒロの隣で、
「―――あそこだ」
レイは北西の辺りを指した。
ヤヒロが顔をめぐらせると、夜の街にいくつもの光が瞬いては消えていた。術式の光だ。
他に北東や背後の南東の〝小塔〟辺りでも同じように光がはじけていた。
「あの付近にいるらしい。近くには敵はいないから、一気に行く」
「は、はい!」
再び、身体が虚空を飛んだ。
足元に[道]はないが、身体は飛ぶように前に進んでいる。引っ張られるような感覚は[線]のようだ。[道]以外の移動方法に眉を寄せていると、
「君は何のためにあそこへ?」
「えっ……?」
顔を上げると、青い目と目が合った。
「通りすがりだから聞くことでもないが………危険を犯してまで、君は何が知りたいんだ?」
「それは……」
ヤヒロは口ごもった。
知らないことと、知るべきことがあることに気づいた。
ユウトは言った。ホウが今まで何をして、何を思い、何が好きで嫌いで、何に対して怒り、泣き、笑うのか――それは知らないと。
ヤヒロはそれを知っている。幼い頃からその背中を見て、追いかけてきたのだ。ユウトが知らないことを知っている。
だが、ユウトが知っていること――〝覇者〟が背負うものは知らなかった。
その隣に立ったことがないからだ。
そこに立ちたくて訓練を重ねてきたのに「来るな」と言われて、いつしか自分から距離を置くようになった。
どうして、「来るな」と言ったのか、考えたことがなかった。
自分があまりにも未熟で強くなる見込みがない、と言われたのだと誤解していた。
ずっと追いかけてきたのに、拒絶されて自分から見切りをつけてしまった。
「兄のような人と何でケンカになったのか、知りたいんです」
その言葉だけではレイにはわからないだろう。
だが、レイはそれ以上尋ねてくることはなかった。
「そうか。……近くに着いたら、〝仮〟で姿を隠す。声は出さないでくれ」
「……はい」
様々な色の光が弾け、喧騒が聞こえる主要道路。その脇にある建物の屋上にホウの姿があった。
距離は百メートルほどで、道路から照らされる光がホウを浮かび上がらせていた。ホウの両脇にはトシアキと見知らぬ男の姿もある。屋上には他にも機器の前に座る女性や、奥に数人の男たちがいた。
「ここなら、大丈夫だ。姿は〝仮〟で隠したから問題ない」
「ありがとうございます」
ヤヒロとレイがいるのは、同じく主要道路に面した建物の一つだ。緩い弧を描く道の先に、十人ほどの人影が戦闘を繰り広げていた。その上空では四つの影が飛び交っている。
(………あれが、ウタ兄たちの見ている世界)
眼下を見下ろし、いくつもの水色の光を放つホウ。
ホウは飛び交う影にしか見えない空中戦を避け、地上で行われている戦闘に援護の術式を放っていた。
「そう時間はかからない」
「えっ……?」
「見ればわかるさ」
レイは青い目を細め、じっと戦闘を見ていた。
「そ、そうなんですか……?」
「分類は英雄。〝覇者〟は負けない。負けることは許されない」
「負け……?」
「負ければ、それで終わりだ」
〝覇者〟の敗北は、次の〝覇者〟になるということ。それが襲撃者の場合はどうなるのか。
「……その精成回路なら、君は〝塔の儀礼〟の一回目は終えてるな?」
「あ。はい……」
「なら、ここの〝塔の覇者〟の交代方法が変わっていることも?」
「はい。わかります」
「ここの〝塔の覇者〟は行政の影響を大きく受けている。英雄として――憧れや希望の存在だ。君は彼と知り合いのようだが、彼の何に疑問を持ったんだ?」
「それは……」
口ごもるヤヒロに、レイは小さくかぶりを振った。
「いや、答えを聞いてるわけじゃない……すまない」
いえ、と呟き、話題を変えたかったことも理由だったが、気になっていたことを口にした。
「あの……どうして、手伝ってくれるんですか?」
「………」
「手伝ってくれるのはとても助かります。けど――」
ルカとアパートで会ったことは偶然のことなので、レイには予定外のことだ。
ルカが独断で決めていたので、彼にしてみれば、ヤヒロを押し付けられたことになる。
だが、彼はヤヒロの身を心配し、文句も言わずにワガママに付き合ってくれている。
「レイさんは仕事で来られたんですよね? 俺がワガママを言ったのもありますけど……でも、断ることも出来たはずです」
ルカの頼みだとはいえ、彼が初対面のヤヒロをここまで連れてくる義理はないはずだ。
レイはじっとヤヒロの目を見ていたが、
「君は、君の手札を切った」
「えっ……?」
「何かをするために、他人の手札を切る奴ら――君を襲った男のような奴が許せない」
突然の告白に、ヤヒロは面食らった。それに構わずにレイは言葉を続ける。
「危険を冒してまで知りたいのなら、少しだけ付き合おう」
「………レイさん」
呆然と名を呟くヤヒロから視線を逸らし、レイは戦場に目を向けた。
その瞳に黒々とした闇が生まれ、視ているのだと気づく。
(………手札)
何かを為すための力――それは覚悟でもあり、あるいは己の何かを犠牲にすることだ。
ヤヒロは危険を顧みず――外出禁止令が出ていたことを知らなかっただけだが、それを知ってもなお、帰らずに知ることを選んだ。
愚かなことだと思う。
だが、レイはその思いを汲んでくれた。
ヤヒロはレイに向けていた警戒をわずかに緩め、ふと思った。
ホウも〝塔の覇者〟になるために、自分の手札を切ったということなのだろうか。
「……どうして、〝覇者〟になったんだろ?」
知っているようで、何も知らなかった兄の思い。
それを知ることはできるのだろうか。




