5-6 試作品
ヨール王二三年五月二十日(水)。
紙で苦労しているのは材料が不均一だからだ。オレ抜きでの手工業として成立させたい意図もあるので、材料や器具類は全てネゲイで手に入るものを使っている。漉き方にはある程度の熟練が必要で、枠を動かすときの微妙な傾きなども影響して厚さが均等にならない。「正解の動き」というものを認識できればインプラントでその動作を毎回繰り返せるようになるはずだが、材料の偏りや濃度が毎回異なってくるので同じものを作れずにいる。インプラントを入れていないここの人達にとって、これがどのくらいの難易度になるかはまだ把握できていない。
洗剤の場合は、ある程度品質の揃った油や香草からの抽出液が材料になる。成分を分析した上で幾つかの調合方法をシミュレートすれば、洗剤として使えそうかどうかは予測できる。昨日は正午を過ぎてマーリン7に帰り着き、テコーの店で追加購入した香草類もあわせて成分分析にかけた。夕方には新しい材料の分析も終わり、あとはライブラリから引っ張り出した化学合成シミュレータに順列組み合わせで任せる。組み合わせは膨大だが、眠らない小ニムエ達の働きもあって、朝には試作品が三種類できあがっていた。紙と違ってこんなに簡単でいいのか?、と思えるほどだ。試作三種のうち一つか二つはボツになる可能性もあるが、折角作ったのだから試してもみたい。いくら何でも昨日の今日で「できたからお試し下さい」は早すぎる気がしなくもないが、適当な被験者は、誰がいいかな?。
「ノルンおはよう。」
「おはようございます。」
「昨日頑張ってね。頑張ったのは主にエリス達だけどね。ちょっと、試してみてくれないか?。」
テーブルに試作シャンプーの容器を置く。
「これは、石鹸じゃないですね。液体?。何か、もっと塊になったものができてくると思ってました。」
「塊にもできるけどね。液体の方が都合のいいこともある。試作だしね。」
「これを試す。うーん、今夜ですか?。」
「ノルンは風呂はどうしてる?。町へ行ってるんだろ?。」
「ええ。毎日じゃないですけど。ハイカク師匠に弟子入りした頃から今までずっと、職人街にある公衆浴場です。昨夜も行きました。」
「そこでは灰を使ってる?。」
「そうですよ。灰よりも汚れを落としやすくなってるのがこれですよね。」
ノルンが容器を指さす。
「そのつもりで作ったんだ。」
「自分で試してみたんですか?。」
「イヤ、見てのとおり、これを作る前から私は多分これよりもよく汚れが落ちる洗い方をしてるからね。ネゲイで手に入る材料で作ったこれで、ネゲイの人の頭を洗ったらどうなるかを知りたいんだけど、ああ、丁度いいところにネゲイで育った人がいるなあ。ノルンって名前だったかなあ。ここの傍に住んでるから濡れても着替えがあるなあ。」
ノルンは笑いながら答えた。
「仕方ないなあ。試作品の具合を試すのは、私の仕事の一つですねえ。今からでもやりますよ。どうやって使うんですか?。」
「水を使うから、外に出ようか。濡れても困らないところで、濡れても困らない椅子、井戸から水、あとはこの試作品。」
井戸の傍に椅子を置き、上半身裸になったノルンを座らせた。工房で蠟板を作っていた見習いが窓から珍しそうにこちらを見ている。エリスが手鏡を差し出す。
「ますこれを見てくれ。今のノルンは、こんな顔だ。」
ノルンは手鏡に映る自分の顔を見た。
「わあ。こんな顔だったんですね。これも大変な代物、鏡ですか?。ああ、鏡って、ここまできれいにつくれるものでしたか。イヤイヤ、鏡の話はあとで。今は、我慢します。」
ここで見たことのある鏡は金属板を磨いたものだ。大きくはないし、表面がすぐに酸化して曇る。曇りを取ろうとして磨けば磨くほど、反射面の平坦性は損なわれるし摩耗する。「汚れを取る」ウーダベーは埃や泥を取り除くが、金属表面の酸化皮膜まで除去するような使い方はされていないように見える。酸化皮膜という概念を知らなければそこまでの制禦ができないのかもしれない。身体表面を清潔に保つため用途としてのウーダベーが使われていない(ように見えている)のと同じ理由なのかも。そんな鏡は「家を出る前に身だしなみを整える」といった用途には使い勝手が悪いだろう。どちらかといえば、自分の姿の確認ではなく、装飾品として使われているような気がする。オレが普段使っているような、ガラスに金属薄膜を蒸着させたものは、見ていない。
「そうしてくれ。エンリの時は先に鏡で自分の顔を見せておくのを忘れててね。自分がどんなに変わったか、気づけていなかったんだ。」
「わかりました。で、これが今の私。次はどうするんです?。」
「まず髪を濡らす。前屈みになってくれ。」
オレは前屈みになったノルンの頭に水をゆっくり注ぐ。
「指で髪の毛全体に水が回るように。」
ノルンは両手で自分の頭皮をマッサージし始めた。ほぼ髪全体に水が回ったところで言う。
「そろそろかな。手を出して。」
ノルンが差し出した掌に試作品のシャンプーを数CCほど垂らした。
「これを髪の毛全体に擦り込んでくれ。」
ノルンは指示のとおりに頭を洗い始める。少し泡が出たが、すぐに消えた。指の滑りも悪くなる。
「ちょっと頭に直接かけてみるから続けて。」
柄杓で少量の水をノルンの頭にかけ、シャンプーを注ぎ足した。また泡が出始める。が、また消える。
「冷たいです。その、試作品のかかったところだけ特に。」
今使ってる試作Aは、エタノールも混ぜてある。気化熱でひんやりと感じるのだ。
「今回の試作一番はそういう風に作ってみた。一度全部洗い流すよ。その後、また同じことをやる。」
ノルンに残っていたシャンプーを洗い流す。ノルンも水が注がれるのに合わせて、髪全体に水が回るように指を動かした。
「じゃあ、二回目。手を出して。あ、エリス。水の補充を頼む。」
ノルンは手を出す。オレはシャンプーをまたそこに注ぎ、エリスが井戸から水を揚げ始めた。
二回目になると、泡は最初よりよく残っている、が、まだオレの思うほどではない。しかし三回目ぐらいで終われそうだ。
「だいぶ良くなってきた感じだな。二回目を洗い落とすよ。」
またノルンの頭に水を注ぐ。そして三回目に入る。
三回目ともなると、泡はどんどん増え始めた。OKだろう。
「よし。その泡で顔も洗ってくれ。」
ノルンは泡を顔にも塗って指でこする。鼻の横など皮脂の溜まりやすいところなど強めにこすっているようだ。そろそろかな。
「じゃあ、洗い落とすよ。」
水を注ぎ終えたオレはノルンに乾いた布を渡す。ノルンは顔と髪を拭き、顔を上げてにっこりと笑った。
「爽快です!。イヤ、気持ちいいですねえ。これは毎日でもやりたくなります。」
「鏡で自分を見てごらん。」
鏡を受け取ったノルンはまた角度を変えながら自分の顔を見て言った。
「ははー。確かに、髪の感じが全然違う。顔も、うん、風を感じる。へえ。顔で風を感じる。感じる。こんな感じかあ。あ、なんか、顔の表面で指が滑らない。これも、久しぶりの感触です。あー、これは髭を剃る時に引っかかるかも。」
ノルンが差し出す手鏡を回収しながらオレも言った。
「髭は、さっきの泡がまだ残ってるときとかに剃ればいいよ。水を吸って髭も柔らかくなってるし、泡で滑るから皮も切れにくい。」
「そうですねー。気持ちいいです。これは、売れますよ。ああ、売値かなあ。どうしようかなあ。原価どのくらいですか?。」
「まだ計算してないんだ。一度にどのくらい作るかとかでも変わってくるし、固体にした方がいいかもしれないし。でも、今回の試作品は、品質としては、ノルンを見てれば合格点だと思っていい?。」
「もちろんです。いい気持ちでした。固体の方が売りやすいかもしれませんけど、あと、女の人にも誰か試してもらわないといけませんね。濡れてもいい格好で来てもらって、誰がいいかなあ。この時間で呼んでも支障ない人、さすがにドーラ様とかは畏れ多いし。ミラ殿かな。事情も知ってるし、行ってみましょうか?。」
「ミラ殿か。ミラ殿は多分自分で作った石鹸を試したこともあるだろうな。私の試作品との違いも教えてくれるだろう。時間が作れるなら、今から行って頼んでみよう。あ、ちょっと思いついた。私は一度船に戻るよ。出かける準備をして待っててくれ。」
エリス、ノルンと共にマリスの店へ到着。一一一五M。店にはミラと、あれは昨日は会えなかった夫君か?。
「また来たよ。」
「ああ、マコト様。よくいらっしゃいました。こっちは夫のダイムです。」
「ダイムです。初めまして。昨日の話は聞いております。」
オレも昨日の台詞を繰り返す。
「マコト・ナガキ・ヤムーグです。長ければ、マコトでいい。」
ミラが言った。
「それで今日はまた材料の追加か何かですか?。」
「イヤ、昨日の材料で試作してみたから、ちょっと試してもらえないかと思って持ってきたんだ。使い方の説明もするし、感想も聞きたい。」
「もうそこまで?。早いですねえ。」
「ノルンを見てくれ。試作品をさっき試してみたんだが、昨日より男前になってると思わないか?。男性の実験一号だ。」
「そう言えば、髪艶が違いますねえ。昨日来てたお嬢さんもそうでしたけど。今日のお嬢さんは昨日とは別の方ですよね。髪はおなじくらい丁寧に洗ってありますね。」
「ああ。男性の実験で上手くいったから、女性の実験一号を、ミラ殿に頼めないかと思ってね。」
「いいですよ。どうすれば?。預からせていただいて、今夜にでも試して明日お話しするとか?。」
「試作品を使う前と使った直後も見比べたくてね。昨日見せてもらった工房の床は、水を流しても困らないように作ってあったから、そこで、このエリスに手伝ってもらってミラ殿の髪を洗わせたい。どうかな?。ええと、服装はそのまま。肩からこれをかけるから、首より上しか濡れない。」
オレはコンテナから防水布を取り出してミラに見せた。
「わかりました。奥の工房はそういう造りです。ダイム、店番をしばらくお願いできるかしら。」
「そういうことなら僕も見たいけど、うん、仕方ないか。店番はやっておくよ。」
「じゃあ皆さんこちらへ。」
オレ達はミラの案内で工房に入った。つい先日までここの近くに店を持っていたノルンは近くの共用井戸へ水を汲みに出て行き、オレはミラの指示で椅子の場所を決める。エリスは作業台にコンテナを載せて中のものを取り出している。ミラを椅子に座らせて肩から防水布をかけて以降、エリスとミラは、鏡についての問答も含めて、二時間ほど前のノルンの時とほぼ同じ流れを繰り返した。一番大きな違いは、ミラの方が髪が長かったので、ループの回数が一回多く、四回目までかかったという点だった。これは、オレは見ていなかったが、エンリも四回だったらしいから、初回の女性の標準的な回数と考えてよさそうだ。
ノルンの時と同じくひとしきり感想を述べ終えたミラは、ノルンの時とは違う方向での質問を始めた。
「試作品は塊でできてくるものだと思ってましたけど、塊にもできるんですか?。」
「全く同じにはならないと思う。例えば、今回の試作品は冷たく感じたと思うけど、塊で作ったらあの感触は出せない。」
「冷たいこと以外に、塊で作らなかった理由はあります?。」
「塊で作ったら、長く置いておくと表面から悪くなっていくからね。液体で作ったら、きちんと蓋をしてくことになるから長保ちする。器をどうしようかとは思うんだけどね。油を扱ってるこの店なら、使えそうな器も知ってるかもしれないと思ったんだ。」
「そうですねえ。液体だと量の調節が……。あまり出し過ぎももったいないですし、ええと、あ、ちょっと待って下さいね。」
ミラは戸棚の中から何かを取り出した。ランプだ。アラジンが願いを三回聞いてもらえた形のランプ。ここにも同じ形があったのか。
「これは昔使ってたものですけど、油を入れて、ここに灯心を差して火を点けて使ってたんです。油がこぼれるとか、ちょっと使いにくいところもあって、今ではほとんど使われてませんけどね。これなら、量の調節もしやすいかもしれません。でも、もうこれがない家も多いんじゃないかしら。私もベンジー以外でこれを使ってるのを見たことがないんです。」
「細工師のノルン。あれを作ったことはあるかい?。」
「いいえ。見たことはありますけど、頼まれたことはないですね。」「ハパーとかにも聞いてみようか。ハパーの店で売ってるかな?。」
「本気で探すなら、そうですね。マコト殿。頭を洗いたいだけだったのに、また話が大きくなってますよ。前にもそんなこと言ってませんでしたっけ?。」
ノルンの前でもぼやいたことがあったのか。
「それは私の悪い癖だな。うん。器のことは別に考えるとして、次は塊になってるヤツを作ってみるよ。それまで、二人とも、できるだけ頭を洗わないように。いや、最後のは冗談だから。」




