2-8 馴化措置(2)
一晩寝て、翌朝には体温は平熱に戻っていた。
「夕べあなたが寝る前に採った血液は、症状から予想はしてたけどリンパ球やIgEの量が増えてる。免疫系が何か仕事してるってことよね。今は症状も治まってるけど、体内じゃ免疫情報の更新とかで色々頑張ってるはずよ。データ整理の都合からしても、後部での作業再開はそのあたりの働きを一度落ち着かせてからにしたいの。今日は一日休んでよ。」
ドクターαの勧めに従って、今日一日は体力の回復を目指して休養することにした。朝食とトイレに加えて採血を受けた後、タンクに入ったオレは、インプラントの助けを借りて強制的に翌朝まで眠った。
CL(墜落暦)四五日は休暇。
CL(墜落暦)四六日。また後部ブロックでの作業に復帰した。ここの空気を呼吸しても問題がない状態にしなければならない。
〇八〇〇M少し過ぎ。βとの交信は副操縦室で。
「兄さん寝込んでたんですかぁ。AIとして知識はあるんですけど実体験がなくて、共感というのは難しいですねぇ。」
「オレじゃなくてもインプラント経由で感覚の受信とかした例とか、ライブラリを探したらあるんじゃないか?。オレも怪我の治療で入院してた時に、インプラント経由で病院のシステムに色々データを送ってた記憶があるぞ。」
「そですねぇ。インプラント、人体感覚の送受信、あ、マーリンでは使ってないけど病院とかでは使ってますねぇ。でもこれ、色んな不快感の指標数値が設定値を超えたら情報を送ってるだけで、AIが痛みを感じてるわけじゃないですねぇ。」
「小ニムエを操作中は、小ニムエのセンサーを使ってるだろ?。」
「あれも『カメラに捉えてるこの位置まで移動』とかの信号は送るんですけど、移動中に足の小指を何かにぶつけてもAIに痛み信号は来ないんですよ。『障害物でコースを修正』ってログだけですよ。そもそも、オートバランサなんか何か特別な理由がない限りこっちで制禦までやることはないから、立ってる時の足裏の体重の感覚とか、βとしては感じたこともありません。ですよ。」
語尾が変だな。
「機能分担と階層化か。」
「そんな感じですよ。提督たるβ様が僚艦小ニムエの艦長たるCPUに『増速シテ右ヘ転舵セヨ』って信号旗を揚げたら小ニムエのCPUが乗組員に号令をかけて、帆の士官は水兵を帆桁に登らせたり角度を変えたり、帆に水をかけて風の捕まえ具合を良くしたり、操舵手はそんな作業進捗を見ながら舵輪を回したり、今、小ニムエの論理ブロック構成を見たらCPUから末端まで、多い所じゃ十段階ぐらいまで下請孫請の階層がありましたよ。あまり深すぎたら制禦遅延が起きそうですけどね。」
βの挙げた例がなんで帆船時代の軍船なのかはよくわからなかったが、言っていることはわかる。が、疑問も出てきた。
「細かいところはCPUに任せてるんなら、六号の腕を褒め称えてたのは、なんでだ?。βがそこまで細かい制禦はやってないんだろ?。」
「ログは届いてるって言ったじゃないですか。指先を目標物に伸ばすとして、人間じゃ小脳あたりでやってるフィードバックエラー補正の履歴が他のより少なかったんですよ。」
AIに理屈じゃ勝てないか。勝つ意味もない会話だし。いつもこんな感じでもあるし。
「AIによるシステムの操作の仕組みについて、忘れかけていたことも含めて復習できたよ。こういう、知識の蓄積や再確認につながる会話はいいな。」
「β様は兄さんの忠実なるシモベですので。いつでも知的な会話を愉しんでいただけるよう、日々の努力を欠かさないので御座りまする。」
語尾が変だな。
βとの交信を終え、一昨日と同様に船内の点検作業に入る。
船内での日常点検は内容によって「○日に一回」とか「毎日○回」とかに分類されていて、毎日の作業量は平準化するようスケジュールが組まれている。今日の作業リストに入っている「二日に一回」指定のものは、一昨日、オレが体調を崩す前にやったのと同じ内容だ。一方で、明日の予定に入っている「二日一回」の項目は昨日のオレがやり損なっていたもの。やり損ないリストの中には気になった項目も幾つかあった。「どうせ明日やるからそれまで待つ」のか「今日も体調がおかしくなるようなら明日見れないかも」のせめぎ合いがあって、「今日が復帰初日の作業もあるから時間も余計にかかるかもしれないので明日やることは明日に」と決めた。数十秒ほど悩んだはずなのに、結論だけ見ると当たり前のところに落ち着いている。物事は、悩まない方が効率がいいのだろう。
夕刻になってαに聞かれた。
「体調はどう?。こっちでも見てる体温脈拍とかは変な数字出てないけど、感触として、体調はどう?。」
「戻ったみたいだな。自覚してるのは動き回ったとか重いものを持ったとかの疲れだけだと思う。」
「よかったわ。IgEも全般に増えてるだけで、特別に反応が高い物は見つかってないから、アレルギー対策も現時点では要らないみたい。今夜の検査の結果次第だけど、明日からステップ二に入れそうね。」
仕事関係なしに、体調が戻っただけでも嬉しい話だ。
「で、ステップ二は、特濃ジュースコースと錠剤コースがあるんだけど、どっちがいい?。」
「特濃ジュース嫌いなんだよな。」
以前に受けたユノーグへの馴化を思い出した。酷い味だった。
「いい歳して我が儘言わないの。母さん困っちゃう。」
αも、β化してるな。澱粉は、β化した方が消化しやすい、イヤ、αの方が?、どっちだったっけ?
「イヤな方から済ませるよ。明日、朝の時点で体調が普通だったら、特濃ジュースで頼む。」
「わかったわ。味を誤魔化すためのアイデアもあるの。前のユノーグ馴化の時の記録も見たけど、ユノーグと重複する成分は省いてあるから量も少なくなってるわ。明日の朝食は楽しみにしてて。」
「期待せず、覚悟だけしておくよ。」
CL(墜落暦)四七日。
いつもなら自動の合成調理器へ行って朝食を用意するのだが、今日はそうせず、待っていたオレの前に小ニムエが運んできた盆の上には、氷水が入ったカップと、一センチほどのサイコロ状になった青黒いブロック数個を盛った小皿が載せられていた。
「液体だと舌の上で広がっちゃうから味を感じてしまうのよ。水を抜きすぎたら成分が変わっちゃうけど、そこは限界近くまで脱水して、丁度ゼラチンみたいな成分もあったからそれで固めてみたわ。」
「その『ゼラチンみたいな』って、胃液で溶けるの?。オレが今まで食べてきた地球のゼラチンとは違うんだろ?。」
「胃の中のpHと温度なら液化することは確認したわ。」
「あと、ゼラチンって、地球じゃあ動物の腱とかから取り出してたと思うけど、回収したサンプルにそんなのあったの?。」
「雪崩の中に動物の脚みたいなのが一本混ざってたのよ。表面積も大きかったから、ダニみたいなのや微生物とか、色々取れたわ。」
「まあ、あまり聞きすぎたら食欲がなくなる可能性もあるから、ここあたりにしておくか。」
「知らない方が幸せ、というヤツね。」
オレは左手で氷水のコップを持ち、右の指先にブロックを一個摘まみ上げる。
「舌に載せたら溶け始めるから、氷水で一気に飲み込んで。」
先に氷水を一口飲み、指先のブロックを口に入れ、すぐに氷水で飲み込む。氷水で冷やされた舌は味も伝えない。この作業を数回繰り返して、馴化措置ステップ二が始まった。
αによると、しばらくはトイレの近くで過ごすべき、腹筋に力を入れるような動きは避けるべき、だという。後部ブロックでの日常点検は、トイレの近くとは限らないし、ある程度の重量物を動かすこともある。また今日も何もできない日になってしまった。昨日考えていた「CL(墜落暦)四五日にできなかったこと」も延期だな。
私室で、ライブラリから選んだ映画を見て時間を潰している。場面はまだ序盤。主人公が謎の事件に巻き込まれたことに気づいた頃。オレは謎ブロックを口に入れてから十五分ほど。自分の口臭が酷いことになっているのに気づいた。口の中も変な味を感じる。
「α、水を飲んでも大丈夫か?。」
「水ならいいわよ。水以外は、もう一時間ほど待ってて欲しいけど。」
オレはカップに氷水を用意し、ちびちびと飲みながら映画に戻る。これが酒ならもう少し格好良かったんだが。
映画中盤で主人公が敵に捕まり、拷問を受けてぐったりとなっていた頃、オレも脂汗をかくほど腹具合が悪く、ぐったりしていた。主人公がぐったりするシーンのない映画にすれば良かった、と後悔しながら再生を止め、トイレに向かう。
二本目以降の映画は主人公が途中でぐったりとならない物を選んだが、結局、この日は夕方までトイレとの往復で費やされた。普通の食事を摂る気は起きなかった。一日ぐらいなら、いいか。
CL(墜落暦)四八日の朝。
「今日は錠剤の日よ。」
αは告げ、小ニムエが数錠の粒が載った小皿を差し出す。今日は氷水ではなく、普通に水が入ったカップが用意されている。
「一応今日も発熱とかの可能性はあるから、昨日みたいに映画でも見ながら過ごしてね。食事はノーマルでOKよ。それと、今日から食事の中に359-1由来のものを少量ずつ入れるわね。例の葉っぱとか。」
CL(墜落暦)四九日の朝。
「最終日は仕上げの注射よ。」
αは告げ、小ニムエが注射器を載せた盆を持って立っている。
「一応今日も発熱とかの可能性はあるから、昨日みたいに映画でも見ながら過ごしてね。食事はノーマルでOKよ。」
CL(墜落暦)五十日の朝。多分、一月二七日、月曜日。
「昨晩の検査の数字は、どれも落ち着いていたわ。体温脈拍も正常範囲。長期影響評価が終わってない謎物質と、それが体内で代謝されたらしい変成体も出てるけど、これによる不調らしいものをあなたが感じてなければ、馴化措置は終了ね。マコト、どう?。外に出られるわよ。何したい?。」
「不調は、まだ外は寒いとか、かな。謎物質とは関係ないと思う。」
「そうね。この時間はまだ東の山に隠れてヤーラ359の光が届いてないから……今、外は丁度摂氏ゼロ度よ。あと、尾部エアロックは雪で埋まってます。」
「出口がないじゃないか。まぁ、そのうちに出なきゃいけないし、外に出るための服装を、資材庫にあるヤツも含めて考えておくか。」
「ええ。どこでもいいからエアロック周りの雪がなくなるまでは、船内作業しかできないわ。点検と、データ分析ね。よくわからないけど、あと三十日ぐらいはこんな感じじゃないかしら。」
「わかったよ。全然身体を動かしてないから、今日は点検で船内を動き回る。」
「船内で使う水と空気は、準備でき次第、359-1のものに切り替えておくわね。フィルタを通して固形物は除去しておくけど。」




