女神に惚れた人間と、女神が愛した人間と・46
先にこちらを完結させます。よろしくお付き合いください。
さらに、時間は過ぎる。
時間が止まることはないのだなぁと、最近のザーフは思うようになった。
少しずつ、年老いていく自分。体の自由が利かなくなってくる自分。手を見下ろすと、シワシワだ。ずいぶんと年を取ったと、思う。
台所では、いまも姿の変わらぬ妻がいる。機嫌よく歌を口ずさみながら、料理をしている、愛しい妻。
天に還ることもなく、自分のそばにいることを選んでくれた、最愛のひと。
若いころは、これで本当に良かったのかと思うこともあった。
喧嘩をしたとき、子供のことで悩んだとき……だが、後悔だけはしていない。
本当に、心の底から、彼女を愛して良かったと思っている。
彼女が自分を愛してくれて良かったと、感じている。
時間を積み重ねて、その先で得たものは、なんだったのか。
「どうしたの、あなた?」
レオナが笑いかけてくれる。些細な幸せが、なんという幸福なのか。
「いやぁ、俺は幸せ者だと思って」
「まぁ、私だって幸せ者よ?」
レオナは胸を張ってくれた。
「あなたと居られて幸せ。仲間たちも元気で幸せ。子供たちを育てて幸せ。孫の顔まで見られて幸せ。ひょっとしたらひ孫まで見られるかもしれないわ。そうしたら、私たちもっと幸せね」
二人で、ずっと幸せだと、妻は言う。
「そうだな。なんて幸せ者なんだろうな」
夫婦二人で、笑った。特になんていうこともない、生活のなかのひとかけら。
時々、涙が出そうになる。悲しいのではない、特に嬉しいというわけでもない。ただ、ごく普通の生活の中でふと感じる。
年を取ったせいなのか。感傷に浸っているのかもしれない。
大切な人と過ごせる時間が、ただ、嬉しい。
できうることならば、末の孫にもこんな時間を過ごしてほしかった。
ほかの孫たちと同じように、あの子にも幸せな時間を過ごしてほしい。
生きているうちに、あの子の顔をもう一度見られたら良いのだが。
――クロノスが孫を飛ばした時間が、どれほど先なのか、義父たちからは聞いていない。義父も義母も義弟ですら、ザーフには話そうとはしなかった。問えば話してくれたかもしれない。けれどザーフはそうしなかった。未来の話は神の領域だと思うし、なによりも――はるか彼方へ飛ばされたと聞かされたら、絶望しそうだったからだ。
怒りではなく、神々を恨み、憎んでしまいそうだったからだ。
主神である義父や、母神である義母にまで矛先を向けてしまいそうだったからだ。
そうなったら、何よりも誰よりもレオナが悲しむだろう。ザーフだって、己を許せなくなり、何もかもが崩壊しかねない。
義父も義母も義弟も、最大限のことをすると約束してくれた。もう、それで十分だ。
ザーフは老いた。認めたくはないが、もう無茶をできる年齢ではない。
信じて待つ。今できることはそれだけだ。
たとえ、ザーフが老齢でこの世界を去る時が来ても、孫には義父母と義弟という最強の後ろ盾がついてくれた。
だから、信じて待つ。
やがて来るその時まで、ただ、平穏で幸せな時間を妻と過ごすだけだ。
――時間は流れる。止まらずに。
その瞬間は、唐突だった。
いつもと変わらぬ朝。変わらぬ挨拶をレオナとかわして、朝食をとって……行ってらっしゃいと見送られ、畑へ行こうと家を出て――そこで、ザーフの意識は暗転する。
――あなたが死ねば、レオナが地上にいる理由も消える――
地面に倒れる寸前、隣の奥さんが以前口にした言葉が、脳裏をよぎった。
終焉が間近です。




