女神に惚れた人間と、女神が愛した人間と・39
穏やかな時間が過ぎる。村の中はいつも穏やかだ。
ザーフはいつものように畑仕事をして、レオナは弁当を届けてくれる。ときおり二人で収穫して、良い出来だと笑いあう、そんな毎日。
だが、終わりは来る。
どんな日々であれ、終わりは来るのだ。
終わりのない生き物などいない――神々でもない限り。
隣の奥さんがザーフとレオナを訪ねてきた。いつも忙しい隣の奥さん。病弱な旦那も、最近散歩をして体力をつけようとしているらしい。
冷徹な美貌の奥さんも、遊びに来るときはさすがに笑顔だ。
けれど、今日は違った。出迎えたレオナに、
「……レオナ、話がある」
隣の奥さんは真顔で言う。遊びに来たのではない。ザーフは直感し、茶を入れる口実で席を外した。
深刻な話なのだろう。こういうときは同席しないほうが良い気がする。女性同士の話に男性が混じるとロクなことにならない。
台所で湯を沸かし、茶を入れていると、居間から呼ばれた。
「ザーフ……あなた、お茶はいいわ。一緒に話を聞いて」
レオナが、真剣に呼んでいる。
「ああ。分かった。行くよ。湯に茶葉を入れてしまったから、茶は入れよう。少しだけ待ってくれ」
一体何の話なのだろう。
三人分の茶を入れて、ザーフは居間に戻った。空気が固く、重い。相当重要な話、か。
思いながらも奥さんと妻の前に茶を置いて、ザーフも座る。
「お待たせ。で、何の話だって?」
できる限り、軽く聞いた。
「あなたの寿命の話だ」
返答は、限りなく重いものだった。
隣の奥さんは死の化身。すなわち、命の終わりを司っている。仕事場は冥界で、死すべき定めの者を連れて行ったり、死者の安寧の場所を護ったりとかしているらしい。
「寿命……俺の」
言われた言葉に、ザーフは反応に困った。何だろう、これは。死の宣告とかそういうレベルなのか。考えたくないが、もしかして俺、今日明日にでも死ぬのだろうか。なんか発作とかそういうので。持病なんぞ持ってないが、いい加減老齢なのは確かだ。いつどうなってもおかしくない。
「あー、即日死亡とかそういう感じなのか?」
「いや。そういうわけではない」
「事故とかで一週間以内に死ぬとか?」
「そういうわけでもない。ただ、あなたも結構な年齢だからな、死因は老衰の予定だ」
死因が予定されている。それをしっかり今聞いてしまった。
「日時が知りたいのなら答えるが」
日時まで決まっているのか。いや決まっているのだろう。何せ今目の前にいる妻の友人は死の化身である。ばっちりかっつりザーフの寿命を理解しているに違いない。
「いや全然全く知りたくない。一か月後とかいうのなら聞いておきたい気もするが」
「いや。それもない」
「……じゃあなんで今その会話になったんだ? しかもこんな重い雰囲気で」
俺はてっきり死の宣告だと思った。死の化身が、親友の旦那だからと気を使って直接迎えに来たのかと思った。そういう気の使い方はされたくないとも思ったが、杞憂だったようだ。
隣の奥さんは言い切った。
「あなたが死ねば、レオナが地上にいる理由も消える。子供と孫のために残るのか、、それとも天上に還るのか聞きたくてね」
……ザーフは妻を見た。
自分の最愛の女性。人生の伴侶。今までずっと一緒に暮らしてきた、ザーフにとっての至高の女性。
――実りの女神・ディオレナのカケラ。事故で地上に顕現し、天上に自力で還れない、女神のカケラ。
本来なら、彼女は地上にいて良い存在ではない。崇められる女神。信仰を、祈りをその身に受け、この世界に恵みをもたらす神聖な存在。
彼女の居場所は、天上だ。ザーフのために、地上にいてくれているだけである。
「……レオナ」
「ザーフ」
妻は、夫の手を握った。固く固く、己の意志と愛情をこめて。
「私は、そばにいるわ。あなたの天命が終わるまで、あなたのそばにいると誓ったわ。その誓いは、変わらないの」
真摯に、ザーフの最愛の女神のカケラは言う。
「子供たちも孫も、自分の人生を歩んでいるわ。私の地上での人生は、あなたと共にあるの。あなたが天命を迎えるのなら……私もいきます」
離れない、と。
彼女の決意は、すでに決まっているのだ。ザーフの手を取ったあの日あの瞬間から。
隣の奥さんは、どこか困った笑顔になる。
「レオナはディオレナのカケラだ。本体のディオレナとは違う存在でもある。自力で顕現している主神や母神、本体と意識が分かれていないエクトやレストレイヤとは違って、レオナは事故で顕現している。天上に還ってしまったら、今ここにいるレオナは本体に吸収されてしまうだろう。レオナとしての意識は、消える可能がある。どう考えても、カケラより本体のほうが存在が大きいのだから」
ザーフが天命を終え、レオナも天上に還るのなら……ディオレナに融合するのなら、それはレオナの『死』である。
隣の奥さんは、ザーフの死=レオナの天上への帰還は、レオナの死だと告げているのだ。
ザーフは妻の手を握り返した。いつも柔らかく優しく、あたたかい妻の手を。
「……レオナ……俺はそこまで言ってくれる君になにをあげられた? 何をしてあげられた? 存在をかけてまで……そこまでしてくれる君を……俺にそんな価値はあるか?」
できうるのならば、子供や孫のために――いや、単に自分のわがままで、彼女には生きてほしいと思った。レオナに死んでほしくなどない。自分は死んでも、それでも彼女に生きてほしい。
神のカケラであるのなら、ほぼ『死』とは無縁のはずである。老化とも無縁なのだから。
流れる時間は無情で無常だ。
それでも、だからこそ……生きて、ほしい。ザーフのために生きてくれた彼女に、そう思う。
「ザーフ」
レオナは、笑った。優しく、何よりも美しい笑顔だ。ザーフが愛している表情だ。
「私、言ったことがあったわね。覚えているかしら? あなたと子供たちと一緒に年を取って、同じように世界を去りたいと思うこともあるって。ねぇ、ザーフ。私、幸せよ。
あなたと会えたわ。あなたと結ばれて、たくさんの子供に恵まれた。子供たちは元気に育って立派に成人して、孫もたくさんいるわ。どの子も心配要らないくらいに立派だわ。
ねぇザーフ。私はあなたと出会えてたくさんのものをもらったわ。幸せばかりでとてもとても嬉しいの。あなたの価値は、私を幸せにしてくれていることよ。私は今、幸せなの。とても幸せなの。でもね、一つくらいわがままを聞いてちょうだい」
微笑む瞳が、うるんでいる。
「私からあなたという幸せを、取らないで。せめて、一緒に世界を去りたいの」
どこまでも、あなたと共に。
その想いが、確かに伝わる。
ザーフはうつむいた。妻になにも言えない。嬉しい、悲しい、彼女がそこまで言ってくれる幸せな気持ちと、彼女にそこまで言わせてしまった悲しい気持ちが混ざり合って泣き出しそうだ。
すまないと謝るのは違う気がする。ありがとうと感謝するのも違う気がする。
なんと言ったらいいのだろう。どう返したらいいのだろう。
「レオナ……レオナ」
「はい、あなた」
ただ、これだけは言える。
「俺は、君を神殿から連れ出したことを後悔していない」
君を愛したことを後悔していない。
「はい……あなた」
泣き出しそうに微笑む彼女を、心の底から愛しいと思った。
――隣の奥さんが席を外して帰宅したことに気が付いたのは、たっぷりと時間が経過してからだった。
ザーフが愛したのは「実りの女神・ディオレナ」ではなく、「女神のカケラ・レオナ」なのです。ディオレナ本体ではない、というところが重要。




