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第9話 唇をかみしめて

 高等学校入試を四日後に控えた安息日の一月一六日、ガルは魂の抜け殻のようになっていた。

 まさか、チェルが帝都にさっさと出て行くとは、これっぽっちも考えていなかった。レグルに嫁ぐことは揺るぎない事実であり、いずれにせよチェルの横に自分が立てるわけがないことは理解していた。だが、嫁ぐのはレグルが中尉に昇進の後のことであり、それまではこの村にいるものとばかり思っていた。


 ガルが高等学校に通う二年は、今と同様に会える。

 そして、大学生や専門技術学生は夏冬春と長期の休みがあるが、レグルが行く士官学校は特別な機関であり長期の休みなどない。この間は誰憚ることなくチェルと二人で過ごせるはずだった。もちろん、営舎暮らしから抜け出せばすぐに結婚するのだろうが、中尉への昇進は早くても二五歳だ。ガルが順調に進学すれば大学校もしくは専門技術学校を卒業するのは二三歳。

 帝都から村に戻っても、二年はチェルと過ごす時間が残っているはずだった。

 それがいきなり消え失せた。


 我ながら情けないことを計算しているものだとは思うが、好いてしまったものはどうしようもない。

 想い人の幸せを望めば、横に立つべきはレグルだと理解できる。自分は学校を卒業すれば村に戻り、一生を鍛冶屋として過ごしていく運命だ。それに対してレグルには、提督への道が開けている。華々しい活躍があれば、人々の賞賛を得ることもあるだろう。何も武功だけではなく、軍政の道でも栄誉を得ることは充分可能だ。砂海軍大臣ともなれば、軍人の出世としては最高位といって良い。

 平々凡々としていても人々の役に立つ一生も、充分すぎるほど人様に誇ることができる人生だが、周囲からの尊敬や賞賛を鍛冶屋が将官ほど得られるとは、ガルは考えていなかった。

 田舎の村に一生埋もれるか、転勤は多いだろうが将官の妻として栄誉を分かち合うか、どちらを選ぶと聞かれれば迷う者などいるはずもなかった。


 レグルの進学に合わせて、チェルも帝都に出る。

 チェルの父が帝都に近いオアシスにあるメディエータ料理店に、チェルの修行を依頼していると聞いていた。つまり、ガルが高等学校に通う二年間、チェルと会うことはできない。帝都の学校に進学しても、住み込みのチェルにはそうおいそれと会いに行けるわけではない。外食産業は安息日とその前日が稼ぎ時だ。気が狂うほどの忙しい日に、会いに行こうものならチェルの立場が悪くなるだけだ。会いたいと言えば会えるだろうが、想い人の立場を悪くしたいとは思わない。許婚という立場にでもあれば、店側もそれなりの配慮はしてくれるだろうが、幼馴染みというだけでは良い顔をするはずもない。

 ガルとチェルの間には、深くて広い溝が横たわっていた。


 ならば告白してしまえと思うが、レグルからこちらへチェルが振り向くとは思えない。

 当って砕けろと人は言うだろうが、砕け散るのは解りきっている。その後、互いに気まずくなり、付き合いが途切れてしまうことをガルは何よりも恐れていた。

 それでもチェルに会える時間が少ないという焦りから、この日も昼過ぎにエルミと連れ立って宿の食堂に顔を出している。なんとか平静を保ち、他愛のない話に終始していたが、エルミの言葉には上の空になることがあった。その都度自身の恋心が周囲にばれるんじゃないかと慌ててしまい、却って言動が怪しくなっている。

 ふたりと話せば話すほど、自身の心が削られていくのをガルは感じていた。


 何もかもすべて投げ出したいほど、ガルは自棄になりそうだった。

 だが、父からの期待と、それに応えたいという想い、そして村から鍛冶屋をなくしてはならないという義務感が、ガルをあと一歩で自暴自棄な行動を取らせることを食い止めていた。




「ガル、いよいよだな。

 悔いを残さなければ、それでいい。

 十全に力を出せるように、試験の前の夜は早く寝ろよ」

 父が教科書を前に考え込んでいるように見えるガルに声をかけた。

 呆然としていただけなのだが、難問に挑んでいるように見えたのだろう、父はガルの体調を気遣っている。

 母も同じようにガルを気遣い、夕食にはガルの好物と消化のよい物が並べられている。景気付けで食べ過ぎなどして、試験の日までに腹具合が悪くなったら元も子もないという配慮だ。


「うん。

 任せておいてくれよ。

 この村のためだもんな」

 意識を現実に引き戻し、ガルは教科書を脇に置き、最後の言葉は口の中だけで呟いてから食卓に向き直った。


 とにかく、ここで高等学校に落ちでもしたら、それこそ目も当てられない。

 どう考えても自分の責任なのだが、無意識にレグルやチェルにそれを押し付けてしまいそうだ。どう考えても言い掛かりにすらならないことだが、心の安定を求める本能がそうしてしまいそうだった。

 だが、そんなつまらない理由で友を失いたくないと、ガルは目前に迫った試験に集中することにした。


 この時代、国公立の高等学校はエリート養成学校でもあるため、入学試験が難関であることはもちろん、学費も高額だった。

 却って私学は学費の安さを売りにしているような時代だ。ガルは通える範囲に学費の安い私学がないことを、恨めしく思っている。

 決して放課後に遊ぶ時間が欲しいのではなく、これから大学を出るまでに掛かる学費や親にかける苦労を思うと、いくら奨学金を取ったとしても抱え込む『借金』は少ないに越したことはない。奨学金を運営する企業に勤めれば給料からの天引きで定年までに大きな負担を抱えずに返しきれるが、それはこの村に鍛冶屋がなくなってしまうことを意味していた。新しい製品を作り出すだけではなく、修理まで引き受けている鍛冶屋の消滅は、この村の農業生産力を奪うことも意味している。

 父が帝都へ出ず、この村にしがみついている理由のひとつはそれだった。


 もちろん、ガルの一家が帝都へ出てしまえば、どこかから鍛冶屋が流れてくるだろう。

 その人物の保証があれば良いが、とんでもない破落戸崩れなどでは村の安寧が脅かされてしまう。閉鎖的と言われようと、古くからの付き合いのある人間が最も信頼できることも確かだ。しがらみに縛られて村を出られないなど、理不尽といわれるかもしれないが、この時代では当たり前すぎるほど当たり前のことだった。


 ガルの一家が村を出ない理由はもう一つある。

 帝都へ出たからといって、確実に職があるわけではない。『大学を出たけれど』という言葉が、流行語として認識されるような世の中だった。二六一〇年代には八割近かった大学校卒業者の就職率は、二〇年代中盤に六割程度まで落ち、三〇年代には三割程度まで下落していた。

 二六二九年一〇月二四日に、オリザニア共和国の証券取引所における株の大暴落に端を発した世界恐慌は、ソル皇国の経済をも蝕み、企業は新卒採用を極端に控えるどころか労働者の首切りも躊躇っていられる場合ではなかった。

 職にあぶれた者から見れば、継ぐ家業があるだけマシという状況だった。



「レグルとエルミは大丈夫かな。

 俺より、厳しいんだよな。

 こんなことで、落ちてたら笑われちまうな」

 ガルは誰にということなく呟いた。


 学費が掛からない士官学校が人気であることは、そのあたりの事情も絡んでいる。

 家業は長男が継ぐものという考え方が常識であり、次男三男といった者たちは雪崩を打って士官学校を受験している。すべての者を受け入れてしまえば士官の質が下がるだけなので、当然選抜試験は厳しくなる一方だった。しかし、合格率が一桁しかないといっても、元から受かるはずもない者までが大挙して受けているが故、実質の倍率はもっと低いとみられていた。

 そうはいっても、全国から優秀な少年や少女が集まっているのだ。楽な戦いではないことは、想像に難くない。


 不安と一緒に夕食をかき込み、ガルはまた教科書を拡げた。

 ほどなく、雑念は消えていき、ガルは問題を解くことに集中していった。少年にとって恋愛は現時点における人生の一大事だが、受験は一生の一大事だ。もちろん、結婚に直結するかもしれない恋愛であれば、それは人生の一大事なのだが、ガルにはまだ遠い未来の話にしか思えない。たとえチェルと付き合うようなことがあっても、ガルにはまだ結婚などという具体的な話を思い浮かべることはできなかった。実際に長く付き合い、人生の設計プランをはっきりと形にし始めたレグルとチェルには、結婚はごく具体的な近未来の話だ。だが、年齢イコール恋人がいない歴のガルは、異性と付き合うことすらどんなことかわかっていない。

 受験勉強に逃げることで、チェルが遠ざかっていくという現実を紛らわせることができたのも、己が子供ゆえの怪我の功名だったのかもしれない。




「エルミ、忘れ物はないか?」

 帝都へ飛行士官学校受験に旅立つ愛娘に、父が問いかけた。


「大丈夫よ、お父さん。

 何も、明日引っ越すってわけじゃないでしょう。

 お義姉さんがああいってくれてるんだし。

 受験票さえあれば、大丈夫よ」

 下着の替えと、次兄より送られた士官学校の過去問を鞄に詰めながら、エルミはそっけなく答えた。


 当初の予定では、試験直前の安息日、一月二三日に帝都へ出るつもりでいた。

 だが、あまりに急な環境変化は試験への集中力、特に魔法の実力発揮を妨げる危険性ありと次兄の妻から忠告があった。そのため、予定を繰り上げてガルの高等学校受験の日よりも早く、エルミは帝都に出ることにしたのだった。

 試験当日は平日であり、通勤の人並みにもまれなければならない。

 安息日とは、帝都を走る浮遊車路線の込み具合が雲泥の差だ。前日の安息日のつもりで試験に向かい、浮遊車に乗りそこねでもしたら一大事と、次兄の妻は危惧していた。

 抱えていく荷物が増えるのではと、エルミの母は消極的に反対した。しかし、それは次兄の妻への心遣いであり、いくら妹とはいえ二人きりの家庭への闖入者が長逗留することを遠慮してのことだった。だが、次兄の妻は、丈が合えば自分の着替えを着ていれば良い、試験の日に着て行く服だけ持ってくれば良いといって、エルミに早めの帝都行きを促したのだった。


「あんまり無遠慮に振る舞うんじゃありませんよ、エルミ。

 もう違う家だってことを、ちゃんと弁えて」

 次兄の妻に押し切られた格好の母は、それでも遠慮を隠せずに言った。


 話に聞く姑小姑の苦労を、次兄の妻には掛けたくないということだった。

 もっとも、自身が嫁いできたときには既に姑は鬼籍に入っていたため、それがどういうことなのかエルミの母には想像も付かないのだが。それでも次兄に甘えるあまりエルミが傍若無人に振る舞わないか、次兄の妻が余計な気遣いで疲れてしまわないか、母は心配でたまらない。帝都と田舎という程よい距離が、これまで嫁姑の問題を顕在化することはなかったが、気持ちよく付き合えていた義理の娘との間に余計な波風は立てたくない。

 当然のことだが、エルミも同じ思いでいるのだが、帝都行きにはしゃいでいるようにしか母には見えなかった。


「解ってます。

 最後の追い込みで、我侭言うどころじゃないわよ、お母さん。

 それに、下手なこと言ったら、お兄ちゃんに叩き出されちゃうわ」

 自身が思っていることが母には上手く伝わっていないことに、エルミは少し苛立ちを感じつつ言い返した。


 実際、魔法以外はまだ不安が残っている。

 試験の配当において、士官学校は魔法の比率が低いが、飛行士官学校は魔法の比率が高いことが救いだが、一般教科が零点では話にならない。おそらく、次兄によるしごきが待っているし、妻も家事手伝いなどさせる気は欠片もないと言われている。上げ膳据え膳で良いと次兄は言っているが、それは寸暇を惜しんで勉強しろということだった。食器を台所に運ぶ暇があるくらいなら、サピエント語の単語をひとつでも覚えろ。次兄も妻もそう言っていた。

 母は、それが余計な気遣いにならなければいいのだが、と不安だった。


「せめて、炊事洗濯と、布団の上げ下ろしくらいやりなさいよ。

 恥掻くのはあんたなんだからね、エミル」

 余計なこととは解っていても、つい母は口にしてしまう。


「大丈夫だって。

 制限時間まであとちょっとあるから、魔法の修練してくるわ」

 エルミはそう言って母の小言から逃れ、家の裏にある空き地へと出て行こうとした。


「エルミ、ちょっとお待ちなさい。

 まだ言わなきゃいけないことが。

 お父さんも、笑ってないでなんか言ってください」

 急に思い出したように出て行こうとするエルミを止めようと、母は父に助けを求めた。

 初めて独りで帝都へ出すこと、家族とはいえ『他人』も住む家に厄介になることへの心配は、尽きることはなかった。


「母さん、心配は解るがな。

 エルミだってもう子供じゃないんだから、ひとつ任せてみたらどうだ」

 そう言いながらも、湯呑に茶を注ぐ父の手は細かく震えている。

 それどころか、自分の湯呑にではなくエルミの湯呑に茶を注ぎ、危うく溢れさせるところだった。


 やはり、末っ子の上、たったひとりの娘ということで、父は父なりの心配が尽きない。

 泰然としていようと思っても、動揺は隠せなかった。


「父さんも母さんも、いいじゃないか。

 悔いを残すも残さないも、エルミの責任だと思うよ。

 あいつがついているんだから、そうそう命の危機なんてありはしないだろう。

 仮にも治安は良いって言われる帝都なんだし。

 それに、あれが足りない、これがない、なんて、帝都だったらいくらでも買えるんだ。

 あとで請求書でも回してもらえば良いよ」

 ここまで静観の姿勢を保っていた長兄が、母の気をほぐすように言った。


 いつまで経っても母にとって、子供は子供。

 たとえ、子が別に家庭を持ち、自身が祖母という立場に立とうとも、母にとってはいつまで経っても手の掛かる子どもだった。いつまでも心配でしょうがないのだ。つまらないものでも、あれがない、これがないと、子供が不便であることが我慢ならない。少々の手間であれば、使い慣れた物や今手に入れられる物は手に入れて置けばよい。子供に行く先々で無駄遣いをさせたくない。その分、美味しい物や良い物を買わせてやりたい。

 結果として、日数が増えることで荷物が増えると反対していたわりには、僅か十日ほどの帝都行きの荷物が引越しのそれに匹敵しようとしていた。


「あんたは、心配じゃないの?

 エルミが不便な思いしたり、困るようなことがあったらどうするって言うのよ?

 お父さんも、少しは心配にならないの?」

 承服しがたいという表情で、母は長兄に言った。


「心配さ。

 だから、あいつの家に預けるんだろ。

 一度や二度失敗したからって、死にゃしないって。

 むしろ、軽い失敗ならいくらでもしたほうが良いんだ。

 いざって時に、その失敗が役に立つもんだよ。

 上手くいってばかりじゃ、なんで上手くいったか考えないんだよな。

 失敗してこそ、考えるようになるんだから。

 父さん、本当は心配で心配でしょうがないんだろ?」

 父が茶を注ぐ湯呑を間違えていることに、長兄は気付いていた。


 照れ臭そうにそっぽを向いた父をそのままに、長兄は母を宥めている。

 いずれひとり立ちしなければならないことは、母も充分すぎるほど理解しているのだが、それはエルミが結婚してこの家を出て行くときだと思っていた。誰かが傍に寄り添い、決して独りで世間の荒波の中に放り出されるわけではないと、母は安心していた部分があった。それ故に戦の中に身を投じることになるかもしれない飛行士官学校へ行くということが、いまひとつ安心して送り出すことができない気持ちに繋がっていた。あれこれと世話を焼いてしまうのも、末っ子であるということも関係している。

 夜空の下で魔法の修練に励むエルミを想い、母は眠れぬ夜が続きそうだと思っていた。




「じゃあ、ガル、チェル、行ってくるわね。

 レグルが羽目外してたら張り倒しておくから」

 浮遊車の窓からエルミが言った。


 一月一七日の早朝、ガルたちの村を発つ始発にエルミは乗っていた。

 プラットホームには、村の主だった人々が見送りにきていた。レグルほどではないにせよ、士官が誕生するかもしれないという期待が込められている。エルミの家族とガル、そしてチェルが車内に入ることを許可され、最後の見送りに託けて雑談に興じている。


「あなたの方が羽目外しそうじゃないの」

「レグルの足は引っ張るなよ、エルミ」

「レグルちゃんにしっかり見てもらいなさいよ」

「レグルが頼りだな」

「お前の方が余程心配だ、エルミ」

 チェル、ガル、母、長兄、父と、異語同義にエルミを嗜めた。


「ひっどいわね、みんな。

 そんなに私が信じられないの?」

 頬を膨らませ、口を尖らせて文句を言うエルミに、同時に全員の肯定の言葉が叩き付けられ、笑いが弾ける。

 もちろん、エルミがそこまで頼りないとは誰も思っていない。

 ただ、帝都へ出た際についはしゃぎすぎ、そのまま試験日を迎えるようなことになっては大変だと、誰もが過剰に注意を促したかったのだった。 


 やがて発車の時刻になり、ガルたちも車掌に促されプラットホームに降りたった。

 ベルが鳴り響き、浮遊車が殊更ゆっくりと走り出す。ホームの端まで窓越しに会話を交わした少年と少女を置き去りに、エルミを乗せた浮遊車は村を出て行った。




 七日前にレグルが通った道を、今はエルミが辿っている。

 試験の後は一度帰るとはいえ、故郷を後にするという感慨が胸を占めていた。もちろん不合格なら、村に戻ってそのままなのだが。今から落ちることを考えていては、戦う前から負けが決まってしまうと、エルミは強引なまでに前向きに考えている。

 飛行士官学校を卒業すれば、どこの基地に配属になるか、まったく予想がつかない。

 基本的に徴集兵は地元の騎兵軍師団や砂海軍基地、艦艇に配属になるが、下士官の一部と士官は全国どこへでも飛ばされる。場合によっては大東砂海の真っ只中にある、信託統治領の基地に配属になるかもしれない。


 もし、村に近い航空艦隊に配属になっても、数年ごとに転勤が待っている。

 特定の地に長く留まることで、地元業者との馴れ合いや不正の温床となることを防ぐためだ。地元有力者の血縁者との縁談を、未然に防ぐためという意味合いもある。 砂海軍も騎兵軍も、軍関係の中で見合いが行われ、多くの者たちが親戚縁者となっていた。

 縁故による談合を防ぐためだが、軍の結束を強める目的もある。

 反面、自然と派閥が形成され、出世や配属にも反映されるようになり、中世の貴族に見られたような政略結婚まがいのケースも多々見られていた。

 軍の設立時にできあがった派閥を破壊する役には立っていたが、また新たな弊害も澱のように溜まり始めている。



 強引に未来を思い描いているうちに、エルミは村に戻れないことと、ガルと結ばれる確率を自ら遠ざけていることに気付いてしまった。

 自然と涙が湧き上がり、人知れずそっと涙を拭う。だが、涙は止まることなく溢れかえり、エルミは自分がどうしてしまったのか分からなくなっていた。あくびに見せかけ、そのまま眠ってしまおうと目を閉じるが、却って負の思考が強まっていく。

 このままでは嗚咽まで漏らしてしまいそうな恐怖に、エルミは唇をかみしめて窓の外に広がる砂海を眺めていた。




 ガルはチェルと並んで帰る道すがら、目前に迫った試験のことを頭の中から叩き出していた。

 今はたとえ僅かな間であろうと、チェルと言葉を交わせるこの瞬間のほうが重要だった。言うまでもなく理性では少しでも早く帰り受験勉強に集中するべきだと理解しているが、感情は歩く速度をチェルに合わせて緩めるばかりだった。レグルにベクトルが向けられた何気ない言葉のひとつひとつに、ガルは笑顔で頷いたり難しそうな表情を作ったりと、真の感情を露にしない努力を重ねている。既に喉元まで『チェルのことが好きなんだ』という科白がせり上がってきているが、ガルはその言葉がどのような事態を引き起こすか誰よりも理解している。

 それ故、ガルは何度も言葉を飲み込んだまま、必死になってチェルの話に合わせていた。


「なあ、チェルは帝都へ出て、それでいつかは店を持ちたいんだろ?

 レグルはソル中を飛び回らなきゃならないんだぜ。

 店なんて持っちゃったら、別々に暮らすことになっちゃうんじゃないのか?」

 ガルが大変なことに気付いたとばかりに聞いた。


「そうね、きっと若いうちは数年の単位でソル中、いいえ、信託統治領も含めて行ったり来たりよね。

 でもね、あたしも料理の修業は一店だけじゅないと思うの。

 いろんな所へ行ったりきたり。

 レグルの行く先に付いていけることもあるかもしれないわ。

 それに、店を持つって言ったって、すぐになんか無理じゃない。

 お金も溜めなきゃいけないしね。

 レグルが退役してからでも良いと思うの」

 不安げな表情でチェルは答えた。

 当然士官の妻ともなれば、夫の転勤に伴ってソル中を渡り歩くことになる。


 父は当然そのことも視野に入れ、最初にチェルを託す店に話は通してあった。

 どこまでその店の力が及ぶかは解らないが、レグルの転勤に伴って行く先々の店に紹介してくれるように頼んではある。砂海軍基地があるような町はそれなりの規模であり、それなりの店がある。チェルはメディエータの料理を中心に修行する気でいるが、それだけしか修業しないのでは料理の幅が広がらない。遥か西にあるドラゴリー大岩盤の国々で発達してきた料理や、ソルの料理も修業しなければと考えていた。ソルだけでも地域に根ざした様々な料理があり、それの修行だけでも膨大な年月を必要とする。当然といえば当然だが、ひとつの道を究めようとすれば一朝一夕にことがなるはずがない。

 夫の転勤は、自分にとってもいいほうに作用するんだと、チェルは不安ではあるが前向きに捉えていた。


「チェルは、レグルにどんな軍人になって欲しいんだい?」

 特に深い意味はなく、ガルは聞いた。

 とにかくチェルと言葉を交わし続けたい。それが先に立っていた。


「うん、やっぱり砂海軍大臣を目指して欲しいかな。

 あたしとしてはね。

 エルミにもだけどさ。

 レグルがどう考えるかまでは強制できないけど」

 チェルは用意していた答えを返す。


「へぇ、てっきり俺は連合艦隊司令長官とか、軍令部総長って言うかと思ったよ」

 意外そうな顔でガルは答えた。


「だってさ、連合艦隊司令長官なんて、一番死んじゃいそうじゃないの。

 軍令部総長も同じよ。

 若いうちはどっちも均等にやんなきゃいけないでしょうし、最初は艦隊勤務だろうけどさ。

 戦場に出てばかりより、赤レンガにいた方が安全じゃない」

 辺りを見回し、人がいないことを確認してから、チェルは小さな声で言った。


 連合艦隊司令長官は、砂海軍の中でも最も人々の賞賛を受ける役職だ。

 砂海軍艦艇のほとんどを指揮下に納め、皇国の楯となり艦隊に号令する立場だ。現実には砂海軍大臣により任命され、軍令部総長の指揮下にある三顕職の中では最下位に位置するが、表舞台に出ることの少ない大臣や総長より耳目を集める立場でもある。


 だが、通称赤レンガと称される砂海軍省の建物や、それに併設された軍令部の建物から出ることのない大臣や総長に比べ、圧倒的に戦死する確率は高い。

 指揮官先頭はどの国の砂海軍でも伝統的なものであり、艦隊決戦においては座乗する艦を単縦陣の先頭に配すると暗黙のうちに決まっていた。最強の戦闘力を持つ艦が連合艦隊司令長官の旗艦になるという伝統も、どの国においても同様であり、単縦陣の先頭に最強の艦を配することも、軍事的なセオリーだ。そして、集団戦において、は最も危険な敵を最初に叩くということも当然のことであり、司令長官が座乗する艦に敵弾が殺到することもまた必然だった。

 つまり、連合艦隊司令長官の名声や名誉、人々からの尊敬や賞賛は、砂海軍三顕職の中で最も死に近い立場であることへの代償と言えた。

 そのような立場にはなって欲しくないというのが、恋人を想うチェルの偽らざる正直な気持ちだった。




 やがてチェルの宿が視界に入り、ガルにとって至福であり地獄の責め苦でもあるひと時は終わりを告げる。

 宿の裏に浮遊車が止まり、野菜や肉類の梱包を降ろし始めているのを見たチェルは、一足先にそれらを運び込んでる父の姿を見つけるなりガルに別れを告げ走っていく。途中、一度振り向いてガルに手を振るチェルの姿に、ガルは永遠の別れを告げられたような錯覚を覚えてしまい、その場で立ち尽くし唇をかみしめていた。

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