13.私の名前
扉の前で深呼吸をする。
他人の私室に入るのは本当ならば避けたいのですけど。
自分の巣穴におびき寄せるだなんて狡いと思いますわ。お父様にしろ旦那様にしろ権力がある男というものは本当にっ………ああ、駄目です。少し落ち着きましょう。
どうやら私は、お父様への不平不満まで旦那様に上乗せしているようです。まあはっきり言って振られ同盟の二人ですから、ある程度似ている気はするのですけど。
それでも、まだ話してもいないのに決めつけてはいけませんわね。
スゥ、ハァ。───よし!
コンコンコン
「旦那様、ミッシェルです。お話したいことがございます」
「……入れ」
出てきてくださること希望だったのですが、仕方がありません。
「失礼いたします」
……臭い。まだ昼間なのにお酒臭いです。この短時間にどれだけ飲んだというのでしょう。すでに帰りたいのですが。
「こんな真っ昼間からお酒を飲まれているのですか」
「何か問題が?」
「お嬢様達に見られて軽蔑されないといいですわね。お酒は嗜むものであって、現実からの逃避に使うべきではありませんよ」
旦那様は体は大きいくせに肝が小さいようです。また妻に浮気されたと勝手に妄想して自棄酒とは呆れてしまいます。
「……お前は私に喧嘩を売りに来たのか」
「いえ。お忘れのようですので、再度自己紹介をしに来ました」
「……は?」
「私はミューア子爵家から参りましたミッシェルと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「何を言っている」
「え?どうやら旦那様には、私とダイアナ様が混同して見えているようですので、再度ご挨拶した方がよいかと思いましたの。
ついでに言うならば、昼頃に旦那様とお話しをした執事はブレイズではなくノーランです。
そちらも混同なさっているようです。症状が酷いようでしたら医者を手配しますがいかがなさいますか?」
「貴様……っ!」
あら。怒らせてしまったみたいですね。でも、さすがに私だってそろそろ腹は立ってくるというものです。
ズカズカと私の前まで来て睨み付けてきますが、魔王様にはもう慣れたので平気ですわ。
これで千鳥足になっていたら面白かったのに残念です。
「私は旦那様が何をなさりたいのか理解できません。何に対して怒っていらっしゃるのですか?
私を妻として、女として扱わなかったのは貴方様ですのに。それなのに、なぜ、まるで嫉妬するかのような振る舞いをなさるのです?」
「……お前は私の妻だ」
「いいえ。買われただけの役者です」
「でも、籍だって入れた!お前が妻だっ!!」
「白い結婚で間違いないか聞きましたよね?」
「閨がなくても妻にかわりはないだろう!」
何かしら。いまさら寂しいとか?
「何が納得いかないのか話してください。そうしていただかないと私だって困りますわ」
「……何が不満なんだ。子ども達のことだけしか任せていないのに、なぜノーランの助けが必要なんだ!」
え、それですか。ご自分はノーランに言付けたくせに、私がお願いするのは許せないと?
「お前達はそうやって、私よりも優しい執事に靡いていくのだろう!悪かったな!顔が怖くてっ!!
私にはそんな態度しか見せないくせに、ノーランには笑顔を見せるじゃないか!」
ご自分のお顔を気にしていらっしゃったのですね。魔王やら殺人鬼だなどと思ってしまい申し訳ございません。
ですが、もしかして旦那様はダイアナ様を愛していらっしゃるのでしょうか。
「あのですね?奥様を愛しているならどうして探さないのです?何故再婚してしまったのですか」
「……違う、愛してなどいない。あんな裏切り者など……お前もだ。まるで清純そうな顔をして、子ども達を誑かしてノーランまで!」
「え、誑かすって酷いですわ!子ども達を騙したりなんかいたしませんっ」
「ではノーランは誑したのだなっ?!」
痛っ、そんなに強く握らないでください!手首が折れそうですっ!!
酔っ払いだから?力加減がおかしいです!
「してません!放してくださいっ!そうやって人の話を聞かずに頭ごなしに怒鳴るから奥様に逃げられたのではないですかっ?!」
あ しまった───
「黙れっ!!」
バシッ!ドサッ、
「……あっ」
………すっごく痛いです……ほし……星が飛び散りましたよ………
「…あ、す、すまない!そのっ」
「……て」
「え?」
「手、離して」
「、あっ」
──やっと放してくれました。
でも、これは不味いかもしれません。殴られた頬よりも、手首の方が痛いです。掴んだまま殴るから、倒れ込んでも放してくれないから……
頭がクラクラする。手首と頬がズキズキと痛む。
ああ、どうして私がこんな目に……
それでも何とか立ち上がった。
「……旦那様」
「その、すまないっ、大丈夫か?」
「全く大丈夫ではありませんが」
「……悪かった」
「殴ったことは絶対に許しません。私は人間です。言葉の通じない動物ではありません。というか、動物だって案外と言葉は通じますから」
「……本当にすまない」
すまないしか、言えなくなったみたいですね。
痛くてあまり喋りたくないですが話さないと終われませんよね。
「……先程は、事実を知りもしないのに侮辱する発言をして申し訳ありませんでした。腹が立つあまり、故意に傷付けようとしてしまいました。お詫び申し上げます」
あれは完全に失言でした。旦那様を言葉で切りつけてしまったわ。
「ですが、お願いですから話をしてくださいませ。私はこのまま旦那様を誤解したまま過ごす事は苦痛ですし、ノーランの様に巻き込まれる者を作りたくありません。
このままでは、いつかお嬢様達を傷つけることになってしまいますよ?」
ダイアナ様の駆け落ちが深く心に傷を付けているのでしょう。ですが、だからといって、八つ当たりや酒浸りでは困ってしまいます。
「……ただ」
「ただ?」
「先にわたしのためにお医者様を呼んでいただけると──」
あ、無理です。頑張って喋りましたが、気が遠くなって……
「ミッシェルッ?!」
あら、私の名前、おぼえていたのですね……




