第56話 岩竜の根元
小川沿いの道は、思いのほか歩きづらかった。倒木が多く、湿った土が靴底を吸い上げる。天蓋が途切れた場所では陽が差し込んで明るいものの、その分だけハンノキやカエデの若木が茂り、藪のように行く手を阻む。
それでも木々の間が広く見える方、道らしき隙間を選びながら進んでいくと、やがて周囲の気配が変わり始めた。低木が減り、足元のぬかるみが乾いた落ち葉の感触へと変わっていく。見上げれば、太く高いブナやナラが幹を並べ、再び樹冠が閉じて、森がゆっくりと陰を取り戻していた。
森の中を進むにつれ、周囲はしんと静まり返っていった。ブナとナラの高い幹が並び、頭上では枝葉が厚く重なっている。陽の光は薄く濾され、地表には落ち葉がふかふかと敷き詰められ、踏みしめるたびに控えめな音が返ってくるばかりだ。
小川を越えて三十分くらい歩いた時、ふとアヤナがシュウに話しかけてきた。
「やっと古道の上と、それ以外の見分けがついてきました」
そう言って、彼女は額にかかる髪を払う。シュウは訳が分からず聞き返す。
「え、藪ばっかりで差なんてないように見えるけど」
アヤナは、少し離れた木を指さして言った。それはどっしりとした太いオークの木で、太い根が木の根元から地面に沿って広がっていた。とはいえ、これまで見てきた木の中でも飛びぬけて大きいわけではなく、むしろこれくらいの木は珍しくなかった。
「周りの一番太い木を見るんです。大まかですが、太さが五十センチ以下なら古道の上で、逆に一メートル近いと古道の外に出ています」
「そうか、樹齢の差か。五十センチで何歳かは分からないけど、古道が森に飲み込まれたとはいえ、それくらいの若い木しかないんだ」とシュウが感心したように頷く。
これを聞いたロレンツィオが、前の方から文句を投げてきた。
「そういうことは早く言いたまえ。全く、何度も無駄足を踏んだじゃないか」
彼女は涼しい顔をして肩をすくめる。
「察しが悪くて申し訳ありません。先ほど気付いたばかりなもので」
彼女の言葉にシュウは渋い顔をする。彼女以外はもっと察しが悪くて、そのことに気づかなかった、と言っているのだろう。ロレンツィオは彼女の嫌味など、どこ吹く風と道を急ぐ。フィオは、「アヤナってあったま、い~ね~」と笑っていた。
さらに一時間も進んだとき、急に顔に日差しがかかり、シュウは思わず顔を上げた。何だかこれまでよりも、木々の天蓋が薄い。そう思って改めて見ると、これまでより木々が若く、背も低く見える。彼が目の上に手をかざし眺めていると、フィオが声を上げた。
「ねぇ、シュウ~。ここって道がだいぶ広いのよ。太い木の間が四十メートル以上ありそう」
シュウが目をやると、いつの間にかフィオは木に登り、彼の頭の上より高いところに立っていたのだ。その声に振り返ったロレンツィオは、低い声で全員に警告した。
「道じゃない。ここは集落の跡だ。なら……近いぞ」
バルドが大斧を両手で構え、周囲を見回す。シュウは腰の小剣に手を掛け、アヤナは長柄の杖をしっかり握った。
「お前ら、静かについて来い」
バルドは前を向いたまま、片手を肩の高さに掲げた。指先だけをわずかに揺らして前進を示す。一行が前方へ意識を向けるなか、ロレンツィオだけは地面へと視線を走らせている。アヤナが咳ばらいをした。
「コホン、ロレンツィオさん。まずはコボルトがいるか確認しましょう。ひょっとすると彼らは、あなたの遺跡を破壊しているかもしれませんよ」
それからバルドを先頭にゆっくりと森を進んでいく。カサカサと音を立てる枯草や落ち葉に覆われた地面は、集落だったせいか比較的平坦だ。ここに生える木々は、アヤナがいうように古い木ほど伸びきっておらず、そのぶん間隔も狭い。
日差しも古い森より通るのか、下草の丈も高く、藪も多いので、進みやすいかといえば微妙だ。それらを掻き分けて一人ずつ進むが、少し遅れるだけで前を歩く人が見えなくなってしまう。そんな中、枝から垂れ下がる蔓が、カーテンのように前を歩くアヤナを隠した。
それを掻き分けて進もうとしたシュウは、足元の見えた石に気を取られ、その先で止まっていたアヤナにぶつかってしまう。彼女の背中の感触が温かい。「ごめ」「しっ」謝ろうとするシュウを、彼女が制止する。気付くとその前で全員が止まっていた。
「いたぞ。声を出すな」バルド低く言った。彼は木々の隙間をわずかに譲り、ロレンツィオがそこへ身を寄せる。続いてフィオ、アヤナと順に覗き込み、最後にシュウの番が来た。覗き込んだ先で、シュウは息を呑んだ。
十数メートル先に、灰色の岩肌が壁のように立ち上がっていた。あれが岩竜の根元なのだろう。木々に遮られて見えなかったせいで、こんなに近くまで来ていたとは思わなかった。根元には洞窟が口を開けている。大きさは人の背丈から、その倍ほどの高さだろう。
どうやらそこがコボルトのすみかで間違いないだろう。その証拠に、入口の前には見たこともない二体の生き物がいた。人型ではあるが、手足は異様に細く、肌は薄い灰色だ。そして何より、鼻と耳が人間ではありえないほど大きく長かった。あれがコボルトなのだろう。
落ち着いて見ると、一方は真面目に立って見張りをしているのに、もう一方は地面に寝転んで気を抜いている。妙に人間臭い光景だった。立っている方は、長い柄の干し草用のフォークを握り、寝ている方の脇には野球バットのような棍棒が転がっている。
さて、どうするのか?そう思ったシュウが一度下がると、一行はバルドの近くに集まっていた。彼は人差し指を舐めて風に立てる。「少なくとも、ここは風上じゃねえな」どうやら匂いで気付かれないか確認していたらしい。
「俺がこっそり近付いて、コイツで仕留めてやる」バルドは担いだ大斧を軽く叩いた。
そのまま行こうとしたバルドを、「待って下さい」とシュウが呼び止めた。皆は視線を交わして、次の彼の言葉を待つ。敵を先に捕捉したんだから、安全な距離から一方的に攻撃したい。飛び道具は……考えをまとめ、シュウは口を開いた。
「二体います。一方が切られている間にもう一方に叫ばれれば、穴の中のコボルト達に気付かれます。全員で石を投げるのはどうでしょうか」
バルドは鼻を鳴らす。「お前らが投石の名手ばかりとは知らなかったぞ。そんな運任せより、俺一人で始末した方が確実だ」
役に立たないと言われたシュウは閉口するが、ロレンツィオやフィオは特に意見がないようだった。そこでアヤナが折衷案を示す。
「こんなのはどうでしょう?もう少し、十メートルくらいまで全員でこっそり近付きます。そこからバルドさんだけ回り込み、横から接近します。バルドさんが一足で飛び込める木陰まで行って合図を出すか、接近がバレたら私たちが投石で先制します。それなら邪魔にはならないでしょう」
バルドは再び鼻を鳴らしたが、否定はしなかった。どうやら受け入れたらしい。シュウ達は手ごろな石を拾い、前へ進む。洞窟から十メートルほどのところに、四人が横並びになれる狭い空き地があった。
そこからバルドは一人で森の中へ消えた。入口の周囲は三メートルほど木々や藪が刈り払われており、そこまではさすがに近寄れない。
ほどなくして、木々の隙間からバルドが顔をのぞかせた。洞窟まで五メートルほどのところだ。彼は顎を軽く突き出し、やれ、と指示を送る。
ロレンツィオが石を振りかぶり、シュウとアヤナも構えた。そのとき、フィオが落ち葉を踏んだような小さな音を立てて後ろへ下がる。振り返ると、三メートルほど後ろで彼女が小さく微笑んでいた。何をするつもりなのかまでは分からないが、いまは自分の役目を果たすしかない。
シュウは再び前へ向き直り、手の中の石に意識を集中させた。シュウが投げようとした瞬間、後ろでカサ、カサ、ガサと音がしてフィオが視界の端に映る。ホップ、ステップ、ジャンプと跳び出した彼女は、勢いそのままに小さな体をいっぱいに使って空中でオーバースロー。
くの字に曲がった短剣がコボルトの首へ突き立ち、一体が崩れ落ちる。え、フィオってあんなことできたの? クルルボー、スゲー。ナンデ、クルルボー。思わぬ一撃に、シュウの思考は一気に乱れ飛ぶ。その瞬間、ロレンツィオの石は外れ、続けざまにアヤナの石も手を離れた。
フィオに驚いたのはシュウだけでなく、アヤナも気を取られて姿勢が崩れる。前へ手を伸ばした半身の姿勢で、上体がシュウの側へ傾いた。振り下ろされるシュウの腕から逃れようと、彼女はとっさに背をそらす。それに気づいたシュウも、当てないようにと腕の軌道をわずかにずらした。
だが、石を放ったあとの彼の腕は、アヤナの顎の先を抜け、ぷるんと柔らかい山の先をはたいてしまう。「ご、ごめん」「ごめんなさい」ふたりは同時に頭を下げた。シュウは当ててしまったことを、アヤナは投石の前に出てしまったことを謝る。
胸を押さえ、なんとも言えない表情をしている彼女に、シュウは気まずさに視線をそらした。そんな彼らにバルドが声を掛ける。「やるじゃねぇか」コボルトの後頭部を狙ったシュウの石は、軌道がずれて振り返ったコボルトの額を割っていた。元の軌道で当たったかどうかは、誰にも分からない。
「これがコボルトですか」アヤナはそうつぶやき、美しい眉をきゅっと寄せた。洞窟の入口に立つ一行は、足元に倒れたコボルトを見下ろしている。
身長は百五十センチほど。異様に細い手足に、不釣り合いなほど大きな頭。その顔はフィオが言っていたとおり老人のように皺だらけで、大きすぎる鼻と耳が、さらに異形さを際立たせている。肌は薄灰色で、人のような柔らかさには見えず、まるで石膏か削り出した石のような質感だった。
「うぇ~っ、やっぱりこの爺さん達、気持ち悪いね」フィオがあけすけに言い、シュウも心の中で同意する。
「ふん、こんな奴らが歴史を解き明かす遺跡に住み着いているのか。許せんな」
ロレンツィオが憎々しげに吐き捨てる。その横で、バルドとシュウは松明に火を点け、次の準備に取りかかった。二人は明かりを掲げて洞窟の中を覗き込む。光が届く範囲には、岩をくり抜いたような通路が続いているだけだ。大人二人でも並べる広さだが、武器を振るうことを考えれば一列で進むべきだろう。
一行は短く相談し、バルド、フィオ、ロレンツィオ、アヤナ、シュウの順で進むことに決めた。松明の火をシュウとバルドのものから移し、全員がそれぞれ手にする。シュウは自分の長柄の杖を背負うと、槍代わりに干し草用フォークを持って行くことにした。
全員が洞窟の中へ姿を消したあと、シュウの放った礫に額を撃たれたコボルトが、這いずって草むらへ手を伸ばした。指先がつかんだのは一本のロープの端だ。震える腕で何度か引かれたそれは、岩壁の小さな穴の奥へと延びていた。
闇の中で金属のぶつかり合うような音がガランガランと鳴り響いた。しかし、その音はシュウたちにも、ロープを引いたコボルト自身にも届かない。やがてロープを握ったままコボルトは力尽きた。だが地の底では、何かが動き始めていた。
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