第46話 通りのざわめきと散らばる木箱
街の大通りでは、夜露を吸った土の匂いが通りに残り、陽の当たる場所ではもう乾き始めていた。人や馬が行き交うたび、細かな土埃が光の中に舞い上がる。空気は涼しく澄み、風に乗って焼きたてのパンの香ばしい匂いが流れてくる。
周囲の村々から運ばれてきた穀物や野菜を載せた荷車が、きしみながら通りを抜けていく。通行人たちは籠や袋を抱え、子どもたちはその間を駆け回る。鍛冶屋の金槌の音や遠くの鐘の響き、商人と客のやり取りに笑い声や罵声まで混ざり合い、通り全体が生き物のようにざわめいていた。
シュウとアヤナもその中に加わり、旅に持って行く食料、干しパンに塩漬け肉、日持ちする野菜やチーズ、ナッツ、それとエール、一度に五人分を作れる大鍋などを買い込んでいく。教会から借りた荷馬車に、肉やエールの入った小樽を四つと、野菜などの麻袋を三つ積み込んだところで、二人は一息ついた。
「あとはアヤナ用に、テントを一つ買って行こうか。フィオはともかく、バルドやロレンツィオのいるところで地面に雑魚寝や着替えも嫌でしょ」
「ご配慮、ありがとうございます。そうしていただけると助かります」
テントを買う事にした二人は、雑貨屋などを巡り、ひとり用のテントを探す。中央広場近くの三軒目の雑貨屋に訪れたシュウは、そこの馬車止めに手綱を縛る。アヤナが先にその間口の狭い店に入り、シュウは戸口で馬車とアヤナの両方を見張っていた。
店主の見せるテントをアヤナは念入りに調べ、値段がまとまるとシュウと交代する。アヤナは店の前、馬車の見張りに立ち、シュウが支払いを終えてテントを受け取る。そのとき、アヤナは通りの向こうが騒がしくなり、人が集まっているのに気付く。
さらに近くに馬車が止まる。どうも事故か何かで通りが塞がれ、立ち往生しているようだ。アヤナは、その家紋の入った馬車に見覚えがあった。まさかと思ってみていると、馬車の扉が開き、護衛や侍女と共に長い金髪の少女が降りてくる。
彼女はお付きを従えて、周りの店を見回しながらアヤナの方へと近付いて来る。変なトラブルに巻き込まれる前に、ここを離れるべきだろう。そう判断したアヤナは店の中のシュウへと声を掛ける。
「シュウ、急いで下さい。厄介なことになるかもしれません」
「へ?」
店の中で、嵩張るテントの持ち方を考えていたシュウは、アヤナの警告に間抜けな声を上げる。しかし、それも遅かった。入口近くまで貴族令嬢が近づくのを見たアヤナは、壁に沿って馬車近くまで下がり、道を空ける。雑貨屋を覗き込んだ令嬢は、店を出ようとするシュウと目が合った。
「うわっ」
リアルな令嬢然とした美少女。青い目がシュウの瞳を覗き込む。再び変な声を上げたシュウは、それでも相手を貴族だと認識し、彼女の前を塞がないよう、頭を下げて店の中へと後退する。しかし、彼女からはシュウが邪魔になって、店の中が見えない。
「お嬢様、お下がりください」
横から店の様子を覗いた護衛が、令嬢を下がらせて店の前を空けた。
「おい、お前。用事が済んだのなら、さっさと出ろ」
「は、はひっ」
護衛は当然のように背も高く、紋章入りの革の胸当てをつけて、腰には剣を佩いていた。現代で言えば、本物の銃を持ったサングラスに黒服のボディーガードといったところだろう。ビビったシュウは、テントの端を何度か店内にぶつけながら、護衛の指示に従って店を出る。
運悪く、シュウは店の入り口からアヤナと反対に出てしまった。一行を刺激しないよう大回りに迂回してアヤナの方に行こうとする。ふと見ると、一行の一番後ろに女性物の外套を腕に掛け、大事そうに二つの木箱を抱えた侍女がいた。
シュウはそれを見て、お嬢様の持ち物や、貴重品を持たされているのかな、と思った。店の入り口にいる護衛とは別の、もう一人の護衛に警戒され、侍女とも距離をおいて迂回する。しかしその時、その侍女は足元がよく見えなかったのか、小石を踏んで体をグラつかせる。
それを見た護衛が手を伸ばし、侍女と彼女が持つ木箱を支えた。幸い、侍女は転ぶことはなく、箱を取り落とす事も無かったが、外套で滑ったように上に乗っていたもうひとつの小箱が、空中へと跳び出した。侍女を支える護衛も、両手で木箱を抱える侍女もそれに手を伸ばす事は出来ない。ついでに侍女は涙目になり、顔を青くしている。
小箱はシュウの方に跳んで来たが、それでも二メートルは離れている。シュウの頭には、貴族、不敬、死というつながりが瞬時に連想された。シュウはテントをそのまま地面に落とし、小箱に向かってダイビングした。地面向かってドンドン落ちて行く小箱。そしてシュウは地面すれすれでキャッチした。
「あの、これ、どうぞ」
シュウは腹ばいになったまま、腕だけ上に伸ばして侍女に小箱を差し出した。護衛はシュウを一瞥したが、侍女をしっかりと立たせた後、シュウから小箱を受け取って侍女の木箱の上に載せた。
「ありがとうございます」
侍女は勢いよくお礼を言い、頭を下げようとして、再び小箱が揺れる。侍女は頭を下げるのをやめ、今回は小箱を落とさずに済んだ。
「いえ、お役に立てて良かったです」
シュウは護衛が見守る中、ゆっくりと立ちあがって放り出したテントのところへと戻る。テントを拾った彼は、再び大回りしてアヤナの方に戻ろうとする。侍女は令嬢へと近付き、何事か説明していた。令嬢、見間違いでなければ、この街の領主の娘、イザベラ・ロスチャイルドはしっかりとシュウを見ていた。シュウは頭を下げる。
「ふへぇ~。ビビった」
「私もです。でも無事で良かった」
アヤナのところへ無事戻れたシュウは、そこでやっと息を吐く。思えばずっと息を止めていた気さえする。その後、男爵令嬢の馬車を前に、シュウ達も下手に馬車を動かせずにいた。
やがて通りを埋めていた人だかりがほどけ、令嬢の馬車がゆっくりと動き出した。喧騒の余韻がまだ漂う中、シュウたちは馬車が通りの向こうに消えていくのを見届ける。それから馬車止めから手綱を外し、馬の首を軽く撫でると、神殿へ向けて荷馬車を引いた。
納屋に荷車を入れようとすると、子供の従僕が立っているのに気付いた。
「どうしたの?」
アヤナが優しい声で聴く。少年は少し顔を赤らめてから、言った。
「ロレンツィオ様がお部屋でお待ちです」
恥ずかしいのかアヤナと目を合わせず、もっと下に視線を向けている。見ているのはだいたい、彼女の胸当たりだ。それを気にせずアヤナは問いかけた。
「何のご用か聞いている?」
「いえ。でも、たぶん荷物の件だと思います」と、少年は少し戸惑いながら答えた。
「ふ~ん、とにかく行ってみようか」
少年の言葉に軽く返しながら、シュウはアヤナへ視線を向けた。
「そうですね」
アヤナはうなずき、少年に「ありがとう」と微笑んだ。二人は神殿の主殿の方へ回り、ロレンツィオの部屋を訪ねた。
コンコン。シュウは扉をノックしてから声を掛けた。
「ロレンツィオさん、シュウです。お呼びだそうですが」
「入れ」
シュウは扉を開けて中に入る。アヤナもそれに続いた。彼は部屋の奥の執務机で後ろを向いたまま、何か書き物をしていた。彼の部屋は窓の前に執務机、端にベッドが置かれていたが、それ以外の壁にはびっしりと棚が置かれている。
それらの棚には羊皮紙の束や革の装丁の古い本のほか、文字の刻まれた石板や金属板、古びた壺、青銅鏡、方位盤、砂時計、天秤など、道具とも骨董の収集ともつかない品々が並んでいた。
だが、今はそれらよりも床の上に所狭しと並べられた木箱達に目が行く。それらは皆、蓋が開け放たれており、何やら書類が詰め込まれた箱、彼の衣類が収められた箱の他に、何故か白いシャツだけがダース単位で収められてそうな箱、ワインの瓶が何本も並んでいる箱、その他たくさんである。
「ちょ、何ですか、ロレンツィオさん」
「ああ、そこにある物を荷車に積んで置いてくれ」
驚いたシュウが声を掛けると、彼は顔をこちらに向けることもなく何でもないことのよう言い放った。
「え、そんなの自分でやって下さいよ」
「私は忙しい。私の準備が間に合わなければ、馬車は出せんぞ」
抵抗するシュウだが、神殿から馬車を借りたのはロレンツィオだし、それができる信用もシュウにはないものだ。
「むぐぐ」
「さあ、早くやっておきたまえ。全部大事な品だから、傷付けないように慎重にな」
シュウがアヤナに目をやると、彼女は顎に指を当てて考えている。
「今回は仕方がないですね。旅の荷物の管理は私達がしましょう」
やがて彼女は肩を竦めると、そう言ってシュウに頷いた。それを見てシュウも諦める。
「ロレンツィオさん、荷物の管理は私達でやります。その代わり、私達の荷物や、共同の食料等と重複する物、不足している物は無いか、運ぶのに特に注意するものは無いか、確認する為にも中は見せてもらいますよ」
「私の欲しい物が、必要な時に手元にあればそれでいい。しっかり、やっておいてくれ」
アヤナの問いに、後ろを向いたまま鷹揚に頷くロレンツィオ。それを見て、アヤナはシュウと彼の荷物の運び込みを始める。それにしても、こんなの何に使うんだ? 木箱の中を覗くシュウは、フック付きのロープや鉄の杭、木槌などを見て首を傾げる。
結局、彼の荷物を積み込むうちに日が暮れてしまうのだった。
その夜、白楡の館亭の食堂で、二人は明日からの旅に思いを馳せていた。
「はあ~。一昨日帰ってきたばかりなのに、もう明日には出発か」
「ふふっ、ビジネスはタイミングが命です。のんびりしていたら、チャンスを逃しますよ」
「まあ、確かにね。よし、明日からまた一踏ん張りするか」
そう言いながら、シュウは手元にコーヒーの入った木のカップをそっと呼び出した。アヤナの分を渡すと、自分のカップを口に運びながらつぶやく。
「この瞬間が、世界を」
「名作にする、ですか?」
アヤナが先に続きを言い、くすっと笑った。二人の笑い声が、静かな夜の食堂にやわらかく溶けていった。こうして、新しい冒険の前夜が静かに更けていくのだった。




